ぼくらの日々はいつだって100%透明だ
春竹 実
第1話 柔い光
けたたましい雨の音と、肌寒さで目が覚めた。身をよじると、シーツの冷たい部分が足に触れて、反射的に足を抱え込む。
布団のなかで丸まっていると、だんだん目が慣れてきて、色々なものの輪郭が見えてきた。自分の指たち、白いシーツと、ベッドサイドテーブルに置かれた時計、それから隣に置かれたベッド。
どれ同居人の寝顔も見てやろうかと、目線を移す。
しかし、そこに同居人の姿はなかった。
「ん?」
思わず身を起こして空っぽのベッドを見つめる。視界の隅に入った時計は二時を指していた。
部屋を見回すと、窓際に小さな影が見えた。その影に、僕はいつのまにか止めていた息を吐く。影は、窓前に置かれた椅子に、居心地悪そうに座っていた。
「まもる」
そっと声をかけてみる。しかし、同居人は静かに窓の外を見たままだった。聞こえなかったのか、あるいは無視しているのか。後者もあり得るのが悲しい話だ。
彼の見つめる窓には、バタバタと雨が打ち付けていた。その影が、彼の頬に映っている。泣いているようだった。ボタボタと惜しみなく、彼の目から涙がこぼれ落ちている。
僕はシーツの端を握りしめた。
「まもる、どうしたの」
さっきよりも強く、彼に投げかけてみる。小さな肩が、すこしだけ震えた。それから、ゆっくりした動作で僕のほうを見る。もどかしい態度だった。シーツを握りしめている指が痛んだ。
「ああ、お兄さん」
それだけ言うと、まもるは窓に背を向けた。
それから、
「起きたの」
と言った。疑問形になりそこなった言葉が、僕とまもるの間に浮遊した。
僕はやっと、
「うん」
と答えて、すこし考えてから、
「雨音があんまりうるさいから」
と続けた。
「天気予報では、朝まで降ると言っていたよ」
「それは困ったなあ」
言いながら、僕はベッドから抜け出した。身体が冷たい空気に触れて、それでもさっきよりはどこか温いような気がした。
「起きるの?」
「目が覚めちゃった。牛乳あっためようかと思って」
「ぼくも飲みたいな」
「へえ!」
「なに?」
まもるの不機嫌な顔に、口に出かけた「珍しい」という言葉を飲み込む。「別に」とだけ答えて、台所に向かった。
まもるが僕になにかを頼むなんてこと、今までなかった。いつもなら、勝手に台所に行って勝手にするのに。
だから大雨が降ってるのかな、など考えながら、牛乳をマグカップに入れ、電子レンジに閉じ込めた。ブーンという低い音が、狭い台所に充満する。電子レンジにこびりついた汚れを見て、そろそろ替え時だなあ、と思った。
レンジが終了の音をならす少し前に扉を開け、マグカップを取り出す。
「あち、あち」
温められ膜を張った牛乳に、はちみつを加える。ずる、と膜が崩れた。とろりとろり、まもるのには多めに入れてやる。
両手に温もりを抱えて部屋に戻る。小さな影に声をかけようとして、やめてしまった。
まもるは、再び窓のほうを見ていた。街灯の白い光が控えめに射し込んで、射し込んでいるはずなのに、それらは窓に張り付いた雨粒に散乱して、柔らかくまもるを包んでいた。
たかだか街灯のあかりのくせして、と思った。
桟に置かれたまもるの手が、妙に白っぽく見えて、マグカップを落としそうになる。
「まもる」
急いで、彼の名前を呼んだ。
「うん?」
まもるは、容易くこちらを振り向いた。
「できたよ」
だから僕は、両手を掲げて高らかに言った。
「おおげさな言い方」
「人生はおおげさなくらいが楽しい」
僕は言いながら、部屋の隅に置かれていた少し背の高い、小さなテーブルを窓際に運ぶ。テーブルに乗っている牛乳の表面が、危なげに揺れた。
「ズボラ」
「人生は程よく手を抜かないと」
責めるような目をするまもるに答えると、彼は「よく言うよ」と小さく呟いて牛乳に口をつけた。僕が僕用の椅子を運んでいる最中だっていうのに、彼は一瞬も僕を待つことをしなかった。
「君ね……」
「なに」
「待ってくれてもいいんじゃないか」
「なに?」
まもるは、心底わからないというような顔をした。
「僕を」
「いやだ」
「言ってくれるね」
「冷めるのがいやだ」
そう言ってまもるは、また一口、牛乳を飲んだ。
生意気だ。
「すこしくらい冷ました方が飲みやすいだろ」
僕はマグカップを揺らしながら言った。
「もったいないよ」
「なにが?」
「せっかく温めてくれたのに」
まもるは言ってから、僕を見た。僕は、居場所を探して牛乳を飲んだ。
「あち……」
「アハ、冗談。猫舌なんだから、お兄さんは冷まして飲みな」
からかわれたらしい。
「うるさいな」
僕が言うと、まもるはちょっと笑って、窓の外を見た。その視線があまりに熱心だから、僕も見る。
けれど、窓の外は大雨で不明瞭だった。こんな時間に歩いている人などいないし、特になにがあるというわけでもない。見るものといえば、街灯と街路樹くらいだった。
まもるは黙っていた。僕も黙っていた。長い長い沈黙だった。それでもここから離れることができず、僕はちびりちびりと牛乳を口に含んだ。沈殿したはちみつが、やけに甘ったるかった。
「……」
まもるが不意に、小さく口を開いた。それは牛乳を飲むためじゃなくて、なにかを言いたそうなそぶりだった。
僕は待つ。僕は君じゃないから、待ってあげる。
まもるは、開いた口を閉じた。そしてすこし、下唇を噛んだ。眉間にシワが寄っている。彼はそうして、指で軽く机を叩いた。
もう、無理かな、と思い、僕は視線を外に移す。雨が僕らを叩くように降っている。
「ぼくの」
聞こえた声に、耳を澄ました。雨音なんかは消えてしまった。
「……お父さんも、牛乳を温めてくれた、気がする」
息継ぎをするように、まもるは話した。雨音はすでに息を吹き返していた。
「いいね」
僕は言った。けれどまもるは答えず、マグカップを呷った。
「甘い」
顔をしかめて、まもるが言った。
「隠し味のおかげだね」
「はちみつでしょ」
まもるは呆れたように言って、マグカップを押しやった。そして頬杖をついたまもるの顔に、また雨の影が映っていることに気がついて、ドキッとする。ボタボタと、まもるの頬を濡らしていく。
まもるは泣いていない。けれどどうしても気になった。
「さ、もう寝よう。子どもだけじゃなく、大人も寝る時間だぜ」
「え、なに? わっ」
僕は無理やりまもるの手を引いて、半ば抱えるようにしてベッドへダイブした。
みしみしと、聞こえてはいけない音がベッドから聞こえた気がする。
「離して、自分のベッドで眠るから」
「ダメだよ、僕が一人で眠れないんだ」
「勝手だなあ」
「いまさらだろ、いいからもう寝ろよ。おやすみ」
畳み掛けるように言うと、まもるはしぶしぶ「おやすみ」と返事した。
数十分、僕が睡魔と戦いながら見張っていると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「子どもだなあ」
小声で言って、僕は息を吐いた。その瞬間、ドッと眠気が襲ってくる。
そういえば。とろとろした脳で考える。
そういえば、僕がした最初の質問に、まもるは答えてくれなかったな。
そう思って、けれどすぐ、まもるの下唇を噛み締めた顔を思い出して、考えるのをやめた。
意識を手放す瞬間、雨で散乱した柔らかい街灯の光が、テーブルに並んだ二つのマグカップを照らしているのを見た。
僕はざまあみろと、すこしだけ思った。
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