第30話 想像と現実

 鎮方しずめかたの詰所で長机に両肘をついた隼男はやおは頭を抱えていた。考え込んではいるが、逆にため息は出てこない。

「隼男」

 呼び掛けに気づいた隼男は顔を上げて詰所の入り口に向けた。まどかが数枚の書類を手に立っている。

呂花おとかの実技訓練計画書、持ってきたよ」

「ああ、すまん」

 詰所の中へ入ってきたまどかは浮かない顔つきの隼男に書類を差し出しながら言った。

「どうかしたのかい?」

 差し出された書類を受け取りながらいや、と隼男は横に首を振る。しばらく不審げにこちらを見ていたまどかは、何も言わない隼男にそのまま詰所を出ていった。まどかのくれた書類は隼男が用意してくれと彼女に頼んだもので、初日の様子を見てこれからの本格的な実技の訓練計画を立てるつもりだった。

 呂花の場合、通常の訓練方法では実技習得が間に合わない。

 それが訓練初日で隼男が出した答えである。

 陰人かげびとになる一般的な道筋を踏んでいない以上、ある意味それは仕方がないのかも知れない。例は少ないが、確かに一般から陰人になることもあるにはある。だがその場合で考えられる状況にも呂花は当てはまらない気がした。講義による知識の習得と訓練での実技の習得。それから時期を見極めて現場実習へと移るのが陰人になる普通の流れだ。一般から陰人になるのがいつの時点であれ、おそらく大多数の者がその流れの中で鎮めの基本を身につけることは可能で、ある程度の鎮めは行うことができるようになると隼男は思う。二度ほど鎮めを行ったとはいえ、呂花の今日の状態では知識はともかくも。技術の習得にはのやり方では相当の時間がかかる。少なくとも隼男の目にはそう映った。

 それほど隼男にとって今日訓練室で見たものは衝撃的だった。



 目に刺さるような強い発光が起こった。続け様に何かが弾ける耳を裂くような大音が瞬時に室内を占領した。驚いた隼男は反射的に耳を手で覆って身を縮める。ザッと強い風が光と音を追いかけて隼男の体に襲いかかる。身を保つように足を踏ん張って隼男は余波が抜けるのを待った。ガタガタと入り口の戸がしばらく音を立てていたが、それが止んで風の勢いが収まったのを確認すると、隼男は訓練室の中央に目を向けた。反動で後ろに尻餅をつくようにして倒れ込んだ呂花が目を大きく見開いて呆然としている。本人もかなり驚いたのだろう。

「大丈夫か」

 駆け寄って大きな体を呂花の側に屈めると、隼男は強く尋ねた。呂花はほとんど放心状態で、それでも小さく頷く。隼男は呂花の様子を確認するように鋭く見つめていたが、怪我など何らかの影響を受けた風にはない。

 陰人が術を発動させる時に発する言葉のことを術言じゅつごとと言うが、その術言の一言目を呂花が口にしたところでこの状況は起こった。

 隼男は折り曲げた体の上半身を軽く起こし、片膝をついて室内を見回す。

 まったく想像し得なかった結果に彼は困惑していた。室内はどこも破損した様子は見られない。だがそれを確認したくなるような強い光、音、風、それに伴う振動だった。

 呂花が失敗することはもちろん想定の内で、それなりの覚悟もしていた。ただ目の前で繰り広げられた状況は隼男の思い描いた予想の範疇外である。

(……)

 呂花は間違いなく桐佑きりゅうの転生者だ。だが現状ではその記憶を持たない。今はまだ陰人見習いになったばかりの一般人というだけだ。素質があることは検査で示され、万夜花たかやすはなに来てから二度ほど鎮めも行っているがそれでもまともな経験が無い以上、呂花はである。

 初心者の失敗は術の無発動がその大半を占める。それ以外では言葉に乗せる気―の調整が上手くできずに術の発動時に効力が強くなるか、逆に術が尻すぼみになるかのどちらかが多い。今回呂花が起こした失敗は力の調整の問題だと思いはするが、それでも何かが違う気がした。何が引っ掛かるのか、それは隼男自身も今の時点ではわからない。

 そもそも呂花に試させた術は一番初歩のものである。それでこれほど激しい状況を引き起こすような失敗を隼男は見たことがなかった。記憶が無いとはいえ教えられる前に鎮めを完遂してしまえばもしかすると、などと甘い考えを隼男は頭の隅によぎらせたが現実は容易くはない。明らかに戸惑いを見せている呂花を前に隼男は胸の内で唸った。今ですら指導方法に頭を悩ませているのに。

(参ったな……) 

 訓練室の床に尻餅をついたままの呂花は何が起こったのかまるでわからない。体の中から一瞬にして何かが出ていった。それは本当にあっという間だった。それだけだ。

 衝撃に驚いた心臓の脈打つ速度がようやく元に戻り、視線を呂花は少しだけ動かす。

 ぽつぽつ、するする、とそれこそ状況を察して素早く身を隠した精霊しょうりょう達が危険が通りすぎたのを確認して姿を見せ始めていた。




 その日の午前中、境部さかいべの分析方を出たあらたはちょうど訓練室に入るの姿を見て思わず立ち止まった。真っ青な空の色を思わせる瞳を隼男のあとに続くその姿にひたと当てて、訓練室の内側に消えるまでしばしの間見入った。

 陰人に見えないその姿は未だに見慣れない。

 訓練室に吸い込まれるように消えた彼女の姿はその雰囲気と相まって、一種幻を見ている気分にすらなる。

 一般の友人も知り合いもそれなりにいるから、力を感じないことが珍しいわけではもちろんない。やしろを一歩外に出ればそれは普通に出くわす光景である。ただ場所に彼女がいることに違和感を感じるのか、もしかするとを自分は感じているのかも知れない。感覚としては後者なのだろうと新は思う。一目見ただけでは一般としか思えず、言われなければ陰人だとはわからない。小柄で眼鏡をかけたその容貌は良くも悪くも取り立てて目立つことはなく、どこでも見かけるような極々ありふれた人の姿だ。だから余計に一般に紛れたら見つけることは不可能だろう。

 京一きょういちが連れてきたという話は奥部おくべ部長くみおさである歩柚子ふゆこに聞いたのだが、いったいどうやって見つけたのか。新はそれが一番不思議だった。

 ふわりと柔らかな風が新の茶色い短髪を揺らす。風と共に現れたのは複数の小さな光。それが二人のあとを追いかけるようにするり、と訓練室へ滑り込む。

 精霊は好奇心が旺盛である。新しくやってきた人間に興味津々なのだ。新も突然やってきた自分達とそう変わらない、二十代半ばの陰人見習いは気になっている。見習いにしては高い年齢であることもあるが、すでに鎮めを二度行ったと聞けばその訓練を見てみたい気持ちもあった。自分が見た鎮めはまったく手順を無視したものだったと哲平てっぺいが言っていたから尚更気になっている。いったいどんな鎮めだったのだろう。あとで精霊達にでも聞いてみようと思いつつ、境部の入り口まで行ったところで新は名を呼ばれた。

「新」

 顔を上げると境部本舎のすぐ外に美里みさとが立っていて、側にまことの姿があった。

「どうかした?」

 どちらにともなく新は尋ねた。

「今から京一と一緒に出るよ」

 誠の答えに納得して新は頷く。

「美里と交替?」

「そう」

 本来の予定では今から新と誠が社務所に詰めるはずだった。京一と共に出るということは鎮めの案件処理だろう。こういう変更はよくある。

社務所詰めみせばんよろしく」

 軽く笑った誠に新も小さく笑うと手を上げて応えた。

「私は分析方に寄っていくから、悪いけど新、先に行ってて」

「了解」

 今度は美里に答えて新は境部をあとにした。




 控え室で少し休憩してくるよう言われた呂花は、部屋の隅に抜け殻のように座っていた。

 疲労感があとから押し寄せてくるようだった。訓練室の床に倒れ込んだ時に打ち付けた尻にも痛みが残る。教えられた言葉を言おうとしただけだった。気とか力なんてものは意識もしていない。自分にがあるという感覚が呂花にはよくわからないのだ。ただ言葉を口にした時に体の中から何かが出ていったことは確かにわかった。しかし我が事ながら呂花には、あの時出ていこうとするその何かを自分でどうにかできるようには思えのだ。

 支部で出会った男の子の言葉が甦る。男の子は呂花に力を感じない、そう言ったと思う。だから一般の人かと思ったと言った。

 自分にはやはり彼らの言うなどというものは無く、例えあったとしてもきっと使えるようなものではないのだろう。

 彼らは間違えたのだ。桐佑という人物は男性だったと言うし。多分彼らの反応からしても、呂花と桐佑かれではかなりの開きがあるのだろうと感じる。だからといってここに来る前の状態に彼らが呂花を戻してくれそうにはない気がした。

 ふぅ、と息をついた呂花の目の前を精霊達が横切った。彼らは時間も場所も関係なく現れては消える。呂花に何の含みもない笑顔を向けて話しかけてきたり、時には悪意のない悪戯をして去っていく。それは呂花にとって本当に嫌なことではないのだ。

 精霊の存在は本当だったのだということは呂花にとっては驚きだったけれど、日が経つに連れてそれも薄れていった。見慣れてきた彼らの姿は清々しく、むしろそれがないことを想像すれば落ち着かなくなるようにも思う。

 毎日というものは基本的に同じことの繰り返しだ。変化というものは本当にささやかな形や流れで日常に紛れていて、ある日突然姿けっかを現す。だから変化が日々起こっているとは思わないのかも知れない。呂花にも実はこんなあり得ない転機が起こる変化の積み重ねがあったのだろうか。どう考えても無い。呂花に思いつくことなど無かった。

 考えてもどうにもならないことを延々と頭の端に思い浮かべながら、それでもただ眺める目の前の景色は呂花の日常という繰り返しの中にじわり、じわりと入り込んできている。精霊のいることが当たり前になるのは構わない。けれど自分は陰人という人達の一人ではないと思う。

(私は、桐佑かれとは違う……)




 向き合う二つの存在は、向かい合う相手のの姿を捉えることができる。

 ただし、そのを捉えることは難しい。

 どんなものでも他の存在に対して己ではないものの、本当の内側を一方的に知ることは不可能である。もちろん人も。目の前にいる人間の外側はわかるけれどもその中身は、心で思うことはわからない。


―――深く知りたい


 その中身の何を知りたいのかもそれぞれ。

 知りたい理由もそれぞれ。

 けれども。

 頭で考える相手についてとは奇跡的に気づけたわずかな真実と、あとは先入観、思い込み、希望に期待と自分の都合や勝手な臆測などの集合体そうぞうである。

 それは本当の相手とはほど遠い。

 そして実はその想像に混ざり込む奇妙なの影があることに気づかなかったりもする。

 人は時々相手を見ているようでいて、実はそこに自分を投影しているのかも知れない。時々間違いだと気づかないまま、他人の中に自分を見つけ出そうとしているのかも知れない。

 目の前の自分を映し出すものの前に立った時、そこに映るもの。

 それは真か。それとも自分の作り出した幻か。



 人の多い広い通りを肩を並べるように京一と誠は歩いていた。案件の現場に直通の狭間はなく、その付近にも飛べる狭間が無いため少し離れた場所から現地へ向かうところだった。

「結構距離があるね」

「ええ、そうですね」

 どこにでも狭間はあるものではあるが、当然存在しない場所も多くあるわけで、無いとなれば広範囲に渡って一つも狭間が無い場所もある。

 今回の案件現場もそういった場所の一つだった。

 京一が不意に足を止めた。誠もそれに倣うように立ち止まる。

 今案件は三番である。しかも今朝方急ぎで万夜花に回ってきた案件である。京一が誠に応援を頼んだ理由。それは四番以上になる可能性有りとの特記情報があったからだ。回りの人混みは途切れることなく流れている。前方から二人に近づいてきた男性が一人、急に体を傾けた。誠がすれ違いざま顔色を変えることなくその人の腕をつかむ。そこで微かに上がる緑光が京一には見えた。

「大丈夫ですか」

 手を離して言った誠の声にはっとしたようにも見えたが、不思議そうな顔を彼に向けて男性は答える。

「え?……えぇ」

 考え事をしていてぶつかったのだろうか。男性の表情はそんな心情を映し出しているようにも見える。

「どうもすみません」

 それだけ言って男性は誠の横を通りすぎていった。その間にも周辺にまばらに浮かぶ緑光がいくつか二人の目に入った。

 様子を見ていた京一がぽつりと呟く。

貝息かいそく






 

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