仮ヶ音ミドリコの物語ったこと(1)②
チャットルームに現れた「かさね」は、それまで掲示板やチャットで会話を交わしてきた人間たちとは違って見えました。学校の人間たちとも違う。まったく別の
かさねに遠慮はなかった。まるで友人のように……そこが物語の一場面であるかのように話しかけるのです。
「キミがどうして苛立ってるのか……ボクにはわかる気がする」
苛立ってなんていない。そのときわたしはそう答えたはず。
「うん。そう思うキミもいる。そうは思わないキミも。だけどこうは言えるはずさ。
その言葉がわたしを射抜く。
わたしは応える。
わたしの複数の
やがて、わたしたちはかさねと毎日のように会話を重ねるようになりました。
わたしは深く考えずアカウントをつくっていたのですが、かさねと話すうち、すぐあることに気づきました。何気なくつけたアカウント名ひとつひとつが、はっきりした人格を持ちはじめるのです。そのテキストの後ろに身体が見えるほどに。
・アカウント①「
・アカウント②「とこやみ」……長い前髪で顔のよく見えない猫背の子でした。マンガやアニメの話が多く、趣味のこと以外ではめっきり弱腰で、いつも自信なさそうな話しぶりでした。
・アカウント③「
・アカウント④……
かさねに促されるように、わたしは次々とアカウントをつくる。そのひとつひとつが会話のなかで命を宿す。
3ヶ月もすると、登録されたアカウントは30を超えました。
わたしはそのすべての
会話は毎晩のように続き、わたしは母のつくった夕食を食べ終えるとひとり書斎でPCを起動するのが常でした。
2003年、新学期にわたしは初等科5年生となる。
その年、クラスに転入生がやってきました。
当時の日記は、いまもテキストデータで残っています。
【仮ヶ音ミドリコの日記/2003年4月11日(金)】
教室を飛んだイスが誰かの肩にあたって、窓ガラスが割れました。
おおげさに痛がったり、先生呼ばなきゃとわめく声が響くなかで、転入生の子はひとり静かに立っていました。
まるでイリオモテヤマネコだと思いました。それは人間にはない神経を体内にめぐらせた野生動物なのです。理科の動画で見たその猫は、1965年に人類に発見されましたが、20万年も昔からそこにいたのです。
机に座ったままその転入生を眺めていると、目が合いました。
「キミはそこにいたんだね」
そんな言葉が聞こえて、それでその子がチャットルームのかさねちゃんなんだって私には分かりました。
髪は短く切りそろえ、涼しげな笑顔を浮かべる。制服の着こなし、普段のふるまい。かさねは一見、なにもおかしなところのない無害な児童という印象でした。
その実かさねは、わたしたちの世界など気にもかけていないのです。すらりとした手足は周囲の目や社会的慣習を無視するように無造作に動き、その瞳はネコのように人間に知覚できない動きや物音に反応する。
それがときに教室を騒然とさせるのを、なぜか誰もたいして気にとめない。騒ぎはなんとなく片づいて日常が戻る。校風ということもあったのでしょう。けれど誰もかさねという存在を認識していないようで、不思議なずれを感じました。
それに比べ、わたしは教室では浮いた存在です。論理偏重でルールにこだわる気質や、睨むような眼つきのせいでしょう。かさねとわたしは、ある意味真逆の存在です。
わたしははじめ、学校の決まりなど無視するようなその転入生に苛立ち、それがかさねだと気づいたあの日も、驚きとともに奇妙な焦燥を感じていました。
理解のできない、これまで会ったことのない存在。
教室から出て帰らなかったかさねを探しに放課後街を歩いたのは、自分でもよくわからない衝動でした。行先はわかっていました。かさねがどこにいるのか、そのヒントはゆうべのチャットでかさね自身が話していたのです。
「やあ、“リコ”」
学区から少し離れた廃棄物処理場。その広い敷地の一画に、捨てられた電子機器が山のように積み上げられていて、その頂上に立ったかさねが笑いかけていました。
「そう、ここが機械山だよ。キミと会えたらいいねって言った場所」
午後の日差しを背景に浮かぶ、少年のようなシルエット。風鈴の音色みたいな声。――ネットでは伝わらないもの。
「……まえに誰かがチャットルームでこの場所を話してたから。男の子の遊び場所の話題だと思ってたけど……あれもかさねちゃんだったの」
「うん。キミなら気づいてくれると思った。先に別アカで住所を言っておく。問いより先に答えがあったってわけ。人間の意識みたいにね」
チャットルームそのままの、なにやら謎めいたアニメ調のセリフ。
不安定な足場で体重がないかのようにすらりと立ったかさねが、ただわたしを見つめる。
それで仕方なくランドセルを置いて、わたしはその使い古されたコンピュータやら音響機器やらバラバラになった集積回路やらでできた廃棄物の山を登りました。手はちくちくして、足元が崩れそうで、差し伸べられた手にほっとしました。
かさねの手の冷たさ、わたしを引っ張り上げるしなやかな力。
「どうして……教室であたしだってわかったの?」
意外なほど自然に、わたしの脳は隣に立つその子とチャットルームのかさねをリンクさせる。ではわたしは。リコであり、化野であり、その他大勢であるわたしは、かさねにどう映っていたのでしょう。
「教室でキミたちの声を聞いた気がしてね。早くやろう、もう準備練習はいいからってさ」
「かさねちゃんは最初から……あたしのやろうとしてることわかってたの」
チャットルームでのわたしの実験。自分という存在にゆらぎを与えること。それは扉を開けるということ――。
「キミとボクは似てる。……だからキミも、そうなんじゃないかと思ったんだ。それで声をかけた」
かさねにつられて、わたしも一緒に街を眺める
坂になっていて、機械山からは通りが見通せるのです。マンションと電線が並び、そのずっと向こうで新宿の背の高いビルがかすんでいる。
遠くから行き交う車の音が聞こえていました。
「ここに棲むひとたちはさ……ボクを狭くてひとつのものに閉じ込める。あのひとたちはきっと不安なんだ。目に映らないものがあるってことがね。でもボクは、あのひとたちには見えない、もっともっと広い
わたしはその年ヴァナ・ディールに生まれた20万の人格を思いました。その世界に解き放たれたのはなんだったのか、いったい誰が理解していたでしょう。
「キミも一緒に行こうよ。ここは狭すぎる……」
かさねがわたしの顔を見つめる。わたしと違って、優しそうな、世界を面白がるように微笑む表情。その瞳はわたしとは微妙にずれたどこかに焦点を結んでいるようでした。
数秒、それとも1分ほどそうしていたでしょうか。
空から吹き降ろすような風がわたしとかさねの髪を揺らしたとき、わたしは
この子と一緒に行こう、素直にそう思えたのです。
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