第41話 白い狼が現れました。▼
【タカシ】
――なんで……俺が……こんなことを……
メギドに言付けられた腹筋100回、腕立て伏せ100回は既に終わっていた。今は懸垂の途中だ。丈夫な木を見つけ、手が寒さで
腹筋や腕立て伏せもきついと感じたが、懸垂は想像以上にきつかった。俺は身体をそう鍛えている方ではない。基礎体力はある方だが、本格的なトレーニングはしたことがなかった。
「はぁ……はぁ……ぐっ……はぁ……マジ? 終わる気がしねぇ……なぁ、メル、やったってことにしてくれない?」
「駄目ですよタカシお兄ちゃん。まおうさまにはすぐにバレちゃいますよ」
「くそっ……木の棒……振ってるだけ……ってことに……反論しなければ……よかった……」
俺は後悔しながらも懸命に懸垂をしていた。腕がもうこれでもかという程張っていて、もう力が入らない。
「ちょ……ちょっと、休憩……」
木から一度降りて、俺は息を整えた。これを3セットもした後に木の周りを何百周もして木の棒を振り続けたら、腕がもげそうだ。
――メギドもめちゃくちゃ言うなら少しは身体鍛えろよな……あいつ、剣とかできるのか?
メギドが剣を握って振っている姿を想像してみる。身のこなしは軽やかにしているのが想像できるが、剣を何度も振っている姿は想像できない。
――一振りしただけで「疲れた」とか言いそう……
メルを見ると大きな紙に『具現化の筆』で絵を描いている。小脇にはいつの間にやら現れていた雪ウサギの親子がいた。雪ウサギを撫でながらメルは絵を描き続けている。手が悴んだら雪ウサギを抱きしめてその体温で手を温めているようだった。
「メルは動物に好かれるんだな」
「他にも動物さんいっぱいいましたよ。下級魔族も見かけましたし、この辺りは氷耐性のある生き物が沢山住んでいるんですね」
メルは雪ウサギに野菜を少し分けてあげていた。それをもぐもぐと雪ウサギたちは食べている。
「何を描いているんだ?」
「これは猛毒の牙を持つ狼です」
「そんな魔族いたっけか?」
「あたしのオリジナルです」
「オリジナルもありなのか。それってやっぱ楽しそうだな。俺もまた描いてみたい」
そう言うと、メルは苦笑いをして俺の方を見た。
「あはは……タカシお兄ちゃんは、まず一回普通のペンで描いてみてからがいいと思います。前の描いた猫らしきもの……かなり怖かったですし」
「俺はあれ自信作だったんだけどな……」
結構な自信作だったので、そんなに酷かっただろうかと思い返す。メギドにも酷評だったけど、そこまでこき下ろされるほど酷かった覚えはないんだが……確かに、変な声は出していたし、脚の動きはぎこちなかったけれど。
「じゃあ今度、メルが俺に絵を教えてくれよ」
「いいですよ。あたしは厳しいですからね!」
「マジ? お手柔らかに頼む」
ミューリンたちの方を見ると、寒さにどうにも弱いらしく幾重にも布を巻いて防寒していた。すっぽりと中に入っていて、外見上からの安否の確認ができない。
「ミューリン、無事か?」
「はい……ミザルデも無事です」
「きつかったら言えよ?」
「私たちは大丈夫です。得意ではないですが、多少の温度変化の魔法は使えますから、自分たちの身体を温めることくらいはできてます」
「いいなぁ……」
無茶な運動をしたせいで、俺は暑くなって着こんでいた服を何枚か脱いだ。メギドは華奢な体型なので、メギドの服は俺には少しきつい。まして、何枚も着こんでいると余計にきつくかんじる。
この状況下で服に対してはメギドが大量に買い込んでいて良かった。俺たちが寒がっているのを見て、渋々とメギドは俺たちが着ることを承諾した。それに対して「私は他の者が袖を通した服は着ない主義だ。お前たちにくれてやる」などと言っていた。なんて贅沢な奴なんだ。
――佐藤はどうだ?
佐藤はメギドにざっくりと説明された雷魔法の修行に励んでいた。
とは言え、感覚的なものはそう簡単に理解することができないらしく、苦戦していた。
「佐藤、どうよ? そっちは」
「…………どうにもピンとこないというか……難しいです」
指先の辺りでパチパチという小さな雷がほとばしるが、まとまりがないようで上手く制御はできていないようだ。
「でもお前、メギドが分かったかどうか聞いた時に“はい”って言ってたじゃん」
「あの空気で“わかりません”とは言えなかったですよ」
「分からなかったら“分からない”って言わないと、メギドは鈍感だから分かんないぞ?」
「……いつもよく魔王にあれだけ強く言えますね。俺は……やっぱり、ちょっと怖くて。何を考えているのかよく分からないですし。俺たちに詳しい事を教えてくれないじゃないですか」
佐藤はメギドに対してあまり信頼を置いていないようだった。
メギドは強大な力を持っているし、その気になれば悪いこともなんでもできるようだが、初めて会ったときから怖いという印象を持ったことがない。
「何考えてるかって、そんなの簡単だろ?」
「なんですか?」
「そりゃ、あれしかないだろ。“優雅に暮らしたい”ってことしか考えてない」
「…………もう少し色々考えていると思いますけど」
「そうか?」
ゴォオオオオ!!!
湖の方から大きな音が音と共に火柱が上がった。火柱が上がっている間はいくらか周囲が暖かくなったように感じる。
「派手にやってんなぁ」
「あんな……規格外の魔王と共に戦うことが、本当にできるんでしょうか……俺たちは足元にも及んでませんよ」
「あぁ、俺も前、メギドに足元にも及んでないどころか、足元の土よりさらに下だって言われたぜ。土よりも下って言いぐさが酷すぎるだろ?」
それと同時に、メギドに初めて乗り物にされたときのことを思い出す。それほど昔の事ではないものの、今や当然のように乗り物にされていることに慣れてしまっている自分が悲しい。
――最初は勇者を懲らしめる旅に出たと思ったのに、随分話が大きくなっちゃったよな……でも、いずれ勇者制度は見直さないといけない……この騒動が片付いたら、またメギドに勇者を懲らしめてもらわないとな……
「あの魔王が認めるゴルゴタという男……何者なんでしょうか。あの魔王が不意をつかれたと言っていましたが、あの魔王が不意を突かれるようには到底見えませんが……」
「そうだなぁ……寝込みを襲われたとか?」
「魔王は少しの物音ですぐに目を覚ましますよ? そんな簡単なことで魔王の寝首が掻けるとは思えません。それに、魔王を凌ぐほどの強い魔族がいたとしても、『血水晶のネックレス』で魔族全体を制御をしていたならば、そもそも魔王が襲われること自体があり得ないはずです。それに、あの男は“少しの間表舞台から席を外してる間に”と言っていました。どういう意味なのでしょう……」
ザッ……ザッ……
何か、大きなものが歩いてきている音が聞こえた。
俺たちがその音のする方向を見ると、4m、5mはあろうかという白い狼がこちらに向かって歩いてきていた。
「な……なんだあれ……魔族か? なんか燃えてね……?」
「なんて大きさだ……」
ザッ……ザッ……ザッ……
尚もその白い狼はこちらへと向かって来ていた。その毛並みは艶やかでいて、フワフワとしている。青い炎を
もし食べられるとしたら、一口だ。
俺は白い狼を刺激しないようにゆっくりと鞄に近寄り、『縛りの数珠』を手に取った。『雷撃の枝』も取り出し、佐藤に手渡す。
メルは大きな紙と『具現化の筆』、ミューリンとミザルデがくるまっている布の塊を持って、俺の後ろへ怯えるように隠れる。近くにいた雪ウサギたちはまさしく文字通り脱兎のごとく森の中へ逃げて行った。
白い狼は俺たちにかなり近づいてきたが、一定の距離を保ったまま止まった。
「人間か……」
――……え?
佐藤でも、メル、ミューリン、ミザルデでも、まして俺でもない声が聞こえた。
その声は目の前に現れた狼のものだった。
「……お前、喋れるのか……?」
「毛のない猿が、この私に向かって随分偉そうな口を利くのだな。殺されたくなかったら、口の利き方には十分配慮することだ」
「わ……悪かったよ……」
刺激しないように、俺は白い狼に対して謝罪の言葉を口にする。
「こんなところにも人間が来るとは……このような場所に何の用だ?」
「この湖の底に沈んでいる『氷結の珠』を取りに来たんだ」
「なんだと……! そんなことは許さない!」
白い狼は急激に殺気を放ち、警戒態勢に入った。纏っている炎が大きくなり、その青い炎は空へと舞い上がっては消えていく。
「今すぐ去れ! そのような愚行を遂行させるわけにはいかぬ! さもなくば、その命を以ってこの地を冒したことことを
「ま、待ってくれよ!
「去れ!!」
白い狼は口を大きく開き、俺たちに飛びかかってきた。
だが、メギドの張って行った結界に衝突し、それ以上はこちらにくることはできなかった。
「こざかしい真似を!」
狼は纏っている青い炎を結界に容赦なく打ち込んできた。その炎に見えるものは冷たく、結界の中の温度が急激に下がっていく。氷魔法も使えるらしく、鋭い
「怖いです……タカシお兄ちゃん……それに……寒い……」
「……大丈夫だろ。これはメギドが張った結界だぞ。そう簡単に破れるわけがない……」
「でも……なんだか亀裂のようなものが入ってませんか?」
「え……」
――嘘だろ……?
メギドが張った結界がそれほど強いものではなかったのか、あるいはこの狼がそれ以上に強いかのどちらかだ。
どちらにしても、結界に亀裂が入ってきている事実は変わらなかった。
「結界って、中から外への干渉はできるはずですよね? 魔王も“出るな”って言ってましたし」
「何するつもりだ佐藤?」
「これを使います」
佐藤が『雷撃の枝』を咄嗟に狼へ向け、発動させた。『雷撃の枝』からすさまじい
「避けた!?」
そのまま鋭い爪を剥き出しにして俺たちに向かって急降下してくる。もう結界は魔法でボロボロだ。あの一撃をくらったらそのまま結界が壊れてしまう。
「滅びよッ……!」
こうなったら、俺がやるしかない。俺がやらなければ俺たちは全員殺される。
俺は『縛りの数珠』を大きく広げた。
――これは賭けだ
もし着地した狼の脚がこの『縛りの数珠』の輪の中に入らなければ俺たちの負けだ。
逆に言うなら、狼の脚が入れば俺の勝ち。
ズシャァッ!
案の定結界は壊れた。
雪と土煙が舞い上がり視界が奪われる中、俺は左脚に激痛が走った。狼の鋭い爪が俺の左脚の
「ぐっ……」
しかし、俺の狙い通り。
「捕らえた!」
ジャラッ!
俺が『縛りの数珠』を思い切り引っ張り、しっかりと掴んだ。その直後、俺の身体と白い狼の身体が硬直する。
以前やった時のように、酷く身体がビリビリした。脚の傷からはかなりの量出血しているのが分かっても、俺は身体が硬直してどうすることもできない。俺の血で白い雪が赤く染まっていく。
「タカシお兄ちゃん!」
メルが俺の元へ心配そうに駆け寄ってきて、脚の傷を見て涙目になりながら狼狽した。どうしたらいいのか分からないといった様子で、傷口と俺の顔を交互に見ている。
俺は喋ることができなかったから、メルに対してなんとか瞼を動かしてウインクをした。「大丈夫だ」と言いたかったのだが、伝わっただろうか。
「佐藤さん、タカシお兄ちゃんが大怪我してるんです! ど……どうすればいいですか!?」
「俺が止血します。布を持ってきてもらえませんか」
「わかりました!」
メルが慌てて転びながらも、メギドの服を取りに行った。
――いてぇ……でも……痺れてるからか、寒いからか……傷の割には痛くねぇような……
「佐藤さん! これでいいですか!?」
走ってメルが持ってきた服を見た時に、俺は血の気が引いた。それはここ最近でメギドが一番気に入っていた服だった。
そんな服を俺の血で汚してしまったら、メギドに何をされるか分かったものではない。
「分かりました」
――待ってくれ! その服はまずい! 佐藤、やめるんだ!!
ビリビリビリビリッ……
――あああああああああああぁっ!!!
佐藤はメギドのお気に入りの服を思い切り破り、その布を俺の出血の酷い脚にきつく巻き付ける。
「タカシさん、大丈夫です。助かりますよ」
駄目だ。もう俺は助かる気がしない。俺の人生はここで終わったんだ……。
「あたし、まおうさまを呼んできます」
「無理ですよ。これ以上湖に近づいたらメルさんが危ない」
「でも! タカシお兄ちゃんが……!」
「…………」
佐藤は涙を流しているメルを見て、覚悟を決めたようだった。白い吐息を滲ませながら、メギド達が消えていった更なる冷気が渦巻く泉の中心を見据える。
「俺が行きます。ここで待っていてください。すぐに魔王を呼んできますから」
「その必要はない」
バサバサと仰々しく翼を羽ばたかせ、メギドが空からレインを連れて戻ってきた。
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