第17話
ブラバンは田口さんの復活のおかげで劇的に変わり始めていた。
田口さんは簡単な練習曲を用意してきて、楽譜を配り、初心者の持田と斉藤の為にまず譜読みを教えてくれた。持田と斉藤もぶーぶーおならの音ばかり鳴らす基礎練習から一歩進めることに安堵と喜びを感じ、素直に楽譜にドレミを書き込んだ。
そして揃って基礎をさらい、田口さんの陣頭指揮で練習曲を少しずつ進めていく。ブラバンというものが形になりつつあった。
そうなってくると周囲の目も変わり始めていた。
この学校にブラバンがあるということ。それが他の生徒たちにも少しずつ知られ始めていた。
放課後に音を鳴らすのはもはや軽音楽部だけではない。まだろくに音楽になってはいないが、四人が鳴らせば四人分の音がする。それは放課後の静まり返る校内に高く響く。
そして運動部の連中はもとより、ただたむろっていただけの連中までもがクラブハウスの窓を見上げるようになっていた。即ち、ブラバンの部室を。
翔太たちがそれを特に感じたのは、クラスの連中の反応からだった。
同じクラスの立原が翔太たちに、
「お前ら、もしかしてブラバン入ってんの?」
と聞いた時、翔太はなんだか誇らしいような気持ちになり、
「まあな」
と答えた。
「マジかー。ブラバンって本当にあるんだな」
「あるよ。なに言ってんの。俺ら毎日練習してるんだから。な、もっちー」
「もっちー言うな」
肩を組もうと腕を伸ばす翔太を持田はめんどくさそうに振り払った。斉藤は二時間目が終わったばかりだというのにもう弁当をわしわし食べていて、
「立原、野球部だっけ」
「まあね」
「野球部ってやたら人数いるけど、なに、強いの?」
「お前、それ聞くか? 強いわけないじゃん」
「弱いのに部員いっぱいいるってすごくね? そんなに人気あんの」
「えー。俺はやっぱ野球好きだしさあ。そういう奴も多いんじゃねえの?」
「ふーん」
「俺らは日曜に試合とか結構あるけど、お前らって毎日ぶーぶー練習してるだけ? ライブとか、そういうのないの?」
「ブラバンにライブはないだろ」
「だよなー。じゃあ、ブラバンって何のためにやってんの」
「そりゃあ、お前……、翔太? なあ、なんでだっけ?」
聞かれた斉藤は急に不安になりでもしたのか、言葉が浮かばなかったのか箸を握ったまま翔太を省みた。
「……好きだから、だろ」
翔太は答えた。それ以外に答えがなかった。少なくとも自分はそうだ。が、ふと考えてみたら斉藤と持田は初めからブラバンが好きだったわけではない。自分につきあって入部したに過ぎない。やってみようと思いはしたかもしれないが、好きかどうかと問われるとまだその域に達してはいないだろう。
ただ毎日ぶーぶー練習しているだけ? 確かにそれはそうだ。そもそもブラバンなんてひたすら練習するだけのものだから。人はそれを積み重ねと呼ぶだろう。
しかし積み重ねる先に目的や目標がなければ、積み重ね続けることなどできるだろうか。
田口さんはいい。あの人にはバンドがあるし、好きでやっていることには間違いない。ライブもあるから、それこそ田口さんにとって部活なんてのはスタジオ借りなくてもタダで練習する場があるに過ぎないかもしれない。目的も目標も、ある。
翔太はこのままではまずいような気がして、立原が引き続き持田と斉藤を相手に野球の話などしているのから離れて、席を立った。
そして何の気なしに廊下を出て中庭を見下ろす窓にもたれた。学生服の群れはそろそろ夏の装いを前にして学ランと白シャツのオセロの駒をばら撒いたような様相に変わっており、どんな時でも目立つ軽音楽部の金髪や改造征服のヤンキー、漫画研究会のデブ眼鏡など個性的な面々が相変わらずといった風情でそこに混じっていた。翔太はこの学校の特徴はこの「生物の多様性」とでも言いたくなるような、毛色の変わった生徒たちがそれぞれのグループを確立して、存在することだと思った。
入学しておよそ二カ月。専門科目にも少し慣れ、実習やレポートもどうにかこなせるようになりつつある中で、もうすでに単位のあやしい奴や、遅刻欠席エスケープの目立つ生徒が浮上していた。
やはり入学当初から問題の多そうなワルっぽい奴らはサボり気味だし、各科の間で派閥というか、まあ、血気盛んな連中は徒党を組んで睨みあったりもしていて、この学校生活というものが自分に関係なくとも形作られていくのを感じる。
翔太はブラバンに入り斉藤たちとツルんでいるのでいたって平和に過ごしているが、同じクラスの石井などは何度指導室送りになっても一向に改めない茶髪で、肩で風を切り、真っ向から反抗的な態度をとって、それはそれで型に嵌っているとは思うが、所謂「不良少年」として闊歩していた。
その石井は数人のグループで、普段は子供っぽく授業を妨害してみたり、ふざけたりするだけだったが近頃それに飽きてきたのか、より一層の刺激を求めるのか、おとなしそうな奴を狙ってはからかってみたり、ふざけ半分に絡んだりするようになっていた。
今も、石井たちはトイレから連れだって出てきて、あからさまに煙草の匂いをさせながら廊下をやってくる。
翔太は視線をそらし、ブラバンの活動計画を提出するんだったなあとぼんやり考えていた。
その時だった。石井たちが翔太の背後を通り、教室のドアを乱暴に開けて大声で叫んだのは。
「おい、ツネ!」
翔太は驚いて振り向いた。
石井の声は明らかに攻撃性を持って常山を名指していた。翔太は嫌な予感でいっぱいになり、石井たちの後から教室へ入った。
呼ばれた常山は体を小さく縮こまらせ、固く緊張して俯いていた。机の上に文庫本を広げて。思えばこの教室で本など読んでいるのは常山一人だけだった。
石井は仲間たちと常山の机に歩み寄ると、薄ら笑いを浮かべながら、
「ツネ、なに読んでんの?」
と文庫本を取り上げた。
斉藤と持田は突然自分たちの席の目の前で始まった不穏な動きに驚き、じっと様子を見守っていた。
「ツネもさあ、本ばっか読んでないでみんなと喋ったりとかすりゃいいのに」
「……」
「やっぱ自分は頭いいから人とは違うとか思ってんの?」
「……」
なんだそれ。翔太は石井がまったくの難癖をつけているのに呆れていた。誰に迷惑かけてるわけでもないのに、常山が誰とも口をきかないとか、本ばかり読んでるなんてことお前に関係ないだろう。それともなにか? 常山が頭がいいことを妬んでいるのか? いや、違う。石井が自分よりも弱い奴を選んで意地の悪いことをしようとしているだけだ。こういう奴はどこにだっている。
ようするに、暇なんだよな。何かしたいことがあるわけでもなし、学校も来たくて来てるわけじゃなし、将来に対して夢も希望もなく、ただ漠然と日々を過ごしていて、エネルギーがあまってるのを消化できなくてもやもやしている。だから他人に当たり散らす。ガキなんだよな。その上、自分より弱いものを標的にするあたりが卑怯極まりない。俺はこういう奴が大嫌いだ。翔太は憮然とした表情で石井の背中と小さくなっている常山を見つめていた。
石井が腕を大きく振りかぶったかと思うと、常山の文庫本を教室の後ろの壁に思いきり投げた。本はびしゃっと音を立てて掲示板にぶつかって落ちた。一瞬、教室がしんと静まりかえった。
「なんか言えよ、ツネ」
「……」
「なに無視してんだよ」
石井が常山の肩をどんと突いた。それを見た瞬間、翔太は石井の肩を後ろからぐいと掴んだ。
石井はいきなり肩を勢いよく掴まれたせいで後によろけそうになり、
「なにすんだよ!」
と振り向きざまに手を振りほどき怒鳴った。
「なんの話してんの?」
「なんだよ、急に!」
石井は相手が翔太と分かるとちょっと拍子抜けした顔をしたが、振り向いた時のままの勢いで大きな声を出した。翔太は石井など怖くはなかった。
斉藤と持田は「ああ、また」と思っていた。また熱血野郎がしゃしゃり出た、と。でも二人は驚きはしていなかった。翔太の唐突な勇気と行動力はもう十分知っていた。
「石井も本読むんだ?」
「なんで俺が」
「いやー、ツネちゃんと喋ってるから、本かなんかの話かなと思って」
「はあ? 別に本なんか読まねえよ。ツネが誰とも喋んないから、俺らのこと見下してんのかなと思ってよ」
「え? そう? 俺はさあ、ツネちゃん真剣に本読んでるから邪魔したら悪いなと思ってたよ。な、ツネちゃん?」
「……」
翔太は真っ青になっている常山の背中にそっと右手を置いた。
斉藤が無言で立ちあがり、教室の後ろに歩いて行くと石井が投げた本を拾って戻ってきた。
持田が本のタイトルに視線を走らせ、
「へー、ツネちゃんは内田百閒とか好きなんだ? 文学趣味なんだな」
と感心したように言った。
石井は翔太と持田、斉藤の三人をきっと睨んだ。弱者を攻撃する者は、だからこそ攻撃される立場になることを恐れる。
「なにが言いたいんだよ」
石井が翔太との距離をぐっと詰めて、下から掬いあげるように睨んだ。
「別に。石井も本読みたいならツネちゃんに聞けばいいんじゃね? ツネちゃん、図書委員だし色々教えてくれるんじゃないの」
「お前、ふざけんてんのか……」
石井がイライラしながら、奥歯を噛みしめるように吐き捨て、翔太の胸に触れんばかりに詰め寄った。が、それと同時にチャイムが鳴った。
腰を浮かせかけていた持田は安堵のため息をつき、
「次、科長の授業だろ。翔太、宿題やってあんの」
「まあね。ばっちりだよ」
翔太は石井の視線も体もするっと避けて自分の席にすとんと腰をおろした。
「でも間違ってるかもしれない。なあ、ツネちゃん、宿題やってきた? ちょっと答え合ってるか見てくんない?」
斉藤から受け取った文庫本を机にしまい教科書を取り出している常山に翔太は自分のノートを差し出した。
「藤井、お前喧嘩売ってんのか」
石井が小声ではあるがドスの利いた声音で呟いた。
「おい、科長もう来たぞ」
石井のグループの一人が声をかけたのを潮に、石井は忌々しげに翔太たちを睨んで自分の席へと戻って行った。
猛烈に厳しい科長が廊下をやってくる気配は、その静けさで知ることができる。
ノートをぱらぱらめくっていた常山が翔太を振り向いた。そしてノートを返して寄こしながら言った。
「……間違ってる……」
「ええっ」
どこが……と尋ねる前に、科長が教室のドアを開け、日直が「起立」の号令をかけた。
翔太は立ち上がり心に決めた。常山をブラバンに入れよう、と。
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