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  • 考えさせられるお話でした。
    これまで『美しい』という言葉を当たり前のように使っていましたが、改めて「なぜ『美しい』を使うのか」と問われたら答えに困りますね。自分で表現することを放棄して、すべてを『美しい』に任せてしまっていたのかもしれません。勉強になりました。ありがとうございます!

  • 投稿お疲れ様です。
    今回も非常に面白い論題でした。実際に現代が「言葉の貧しい」時代なのかは私には分かりませんが、もし貧しくなっているとしたらそれは言語使用者の多様性ゆえではないでしょうか。古来、言語(特に文字)はその地域文化の象徴であり、それを操れるものはごく一部のエリート層に限られていました。メソポタミアの書記、カトリックの聖職者、中国の科挙官僚等。そして彼らは小さいコミュニティ内で共通の知識、テキスト(聖職や五経)を元に言葉をやり取りしていました。であるならば言葉は抽象に走らず共通認識のもと運用されたでしょう。しかし現代では言語は多様な階層の人間が使用し、多様な文化間でやりとりされるツールとなりました。共通認識のない雑多な巨大集団で運用される言語はますます抽象化し、個人の想像の範疇でしか理解できない—という妄想をしてみた次第です。

    作者からの返信

    なるほど...
    そのようなSFや歴史的な考察力には舌を巻きます。
    この物語の発想の根底には、確かに言葉の貧しさに対する非難の思いもありました。しかし、その途中で真の貧しさとは表現技術の有無ではなく、読み手の想像に任せてしまおうという気持ちにあるのではないか、と思った次第です。
    そして、私が他の作者さんの作品を読むことで新たな作風に挑戦するように、私の作品によってまた新たな作品が生まれるとしたら素敵だと思います。
    この創造物と想像主という関係性が続くのがここ、カクヨムという場なのだと再認識しました。