第29話 第四章 大和の国から‘30

 実は大国主様からのご神託賜った刻から、岳津彦と私の召し物を密かに用意していたのだった。

 このようなその日暮らしの生活の中、御着物を買うような余裕などもちろんある訳もなく、それよりも上等な布でさえ、こんな山の中の集落では手に入る筈もなかった。

 最近、岳津彦が何も言わずどこかへと姿を晦ませて、暫くの間帰ってこない事が時折あった。私はその刻に、いつも夫妻共にお世話をしてくれている松林の中の泉の精霊『蒼』の所へ行き、布の事と大国主様のご神託の件について相談してみると、蒼は何か考えるようにして泉の中へと身体を吸い込ませていった。

 何か思い当たる節でもあるのかと思い、暫く泉の中を覗きながら待っていた。すると蒼は、まるでうれしそうに勢いよく飛沫を高らかに上げながら、身体を浮上させた次の瞬間、私の身体は当たり前のように全身水浸しになった。

私の事など何のその…。

 蒼の両手には一枚ずつ布が持たれていて、何故か誇らしげに背筋を伸ばしながら私へ言葉を発し始めた。

「して…、汝がこの泉に落としたのは、この赤色の布か?それともこの鶯色の布なのか…?」

 いきなり発し始めた謎の言葉の意味が全く理解できなかった。

「いや…、えっ?蒼?私は何も落としてないではないですか…。」

 私からの返答に対し、やけに満足そうな面持ちで言葉を続けた。

「そうか、弥生は正直者よのう…。よってその正直な心を賛美し、この二枚の布を汝へと授けようぞ…。」

「えええっ!!何でそうなるんでございましょうかっ!?第一…、」

 私の言葉に耳を傾けない様子で、蒼は半ば強引に布を手渡してきた。

「もうよい弥生よ、こういう展開で、このような状況になるのは世界規模で通説なのじゃ。私も泉の精霊冥利に尽きたというもの…。」

 拳を硬く握らせながら、天を仰ぎ見ている蒼の瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。

「父さん、母さん…。私の夢、遂に叶いました…。感無量でございます…。」

 もうどう反応していいか分からなくなった私は、暫くの間、謎に感極まるその姿を眺めていた。すると、いきなりこちらの方へと身体を向かせ、万弁の笑顔を浮かべた。

「弥生よっ!!その布で良い衣を繕うのじゃっ!!では、さらばっ!」

「ちょっっ!!!」

 その布を戴くには理由が不可解であるし、展開の意味も理解不能であるが故、もう少し何か言葉が欲しかった。しかし、そう言い放った瞬間、大きな唸り音と共に蒼の姿は泉の奥へと消えていった。

 辺りはいつもの静かな緑と静寂に包まれ、私は弧に摘ままれたように目を瞬かせながらその場へと立ち尽くすしかできなかった。

しかし、このやけに手触りのよい上等な布だけは手元にある事から、全ては現実に起った出来事だと何とか認識する事ができ、私は深く息を漏らしながら一つだけ背伸びをした。

 今まで見た事のないこんな上等な布など、ここらでは必ず手に入らない代物である。しかし、どのような形でも手に入ったという事は、頑張って恰好のよい衣を作らなければならない。私の制作魂に火が灯った瞬間だった。

 それからというもの私の裁縫戦の火蓋は切って落とされた訳で、所謂女側の戦というやつである。岳津彦が寝床に着いた後、次の日に差支えない程度に二人分の召し物を頑張って拵えていた。

 そして、遂にこの日がやってきたのである。

 所謂お披露目発表という事で、帰宅した同時に汗を拭い、素っ裸のまま惚けている岳津彦に、我ながら良い出来であると自負していた真紅に染まる衣を無言に差し出した刻に浮かべた顔なんて…。(笑)

 驚愕させながらもよそよそと衣を纏った岳津彦の姿は、何とも言いようのない、そこら辺の長なんて比べ物にならない高貴溢れる出で立ちで、私でさえ息を呑む感覚に苛まれそうになった程であった。

しかしながらそれをよそに落ち着かない岳津彦の態度が可笑しくて仕方がなかった。

 あ、そんな悠長な事をしている場合ではない。

寧ろ自分の召し物を用意しなくては…。私は一つ気がかりな事があった。

 自らの召し物は確かに用意出来たのだが、髪を結う為の簪がない事に気がついたのだった。

 鮮明な鶯色の衣。

 我ながら高貴な羽織を縫えたと思いきや、縛るだけの髪ではうまくない。どうしようかと思いあぐねながら室内を右往左往している刻、ふと一輪の枝に咲く華に目が留まった。

『あれ?これ今の季節に華づけるのおかしいわよね…。』

 器にて差された枝の先には、梅の華が一輪だけ色付かせていた。何故と思うより先に、これだけの枝があれば簪代わりになると思った私は、徐にそれを水差しから抜いた。

 そして、衣を纏い、長い髪を後ろで束ねて梅の枝で止めた。

準備完了と思い、岳津彦の方へ視線を向けると、立派な衣を纏わせても、野良仕事にて解けた美豆良はそのままでうろうろと落ち着かない姿が目に映った。

『もう…、しょうがないわね…。』

 岳津彦をその場へと座らせて、毎朝そうしているように、岳津彦の髪を入念に結った。この瞬間、私はとてつもない幸福に塗れるのだった…。

 そう、これが私の永遠。これが全てなのだった。

『岳津彦…、貴方がずっと好きです…。』

 あの闇に浮かんだ女性の言葉を振り払うように、岳津彦の髪に指を入れた。

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