第14話 第二章 明石の怪物

 気がつくと、赤い甲冑を身に纏わせたあの大男と肩を並べて歩いていた。

 岳は、一体どうしてこうなったのかは分かっているようで、実は全く分かっていなかった。

 あめたんに問いてもよく分からないらしく、まさかこの大男に直接聞ける訳もない。確かこの男は彦五十狭芹彦と名乗っていた筈。あの石像の神の名もこの男の名も、何故こう長々しいのか…。呼ぶ方の身にもなってくれと岳は何故か憤っていた。

 普段ならそんな事で憤る筈もない岳であったが、兎にも角にも傍にいるだけで暑苦しい他この上ないのだ。

「岳津彦よ…。天鈿女様を御守り致せよ…。お前の今の力量を全て尽くせよっ!!」

 何故か誇らしそうに言葉を発する彦五十狭芹彦。

「あ、はい…。がんばります…。」

 岳の声に納得してなのか、太陽のように眩い笑顔を放たせながら何度も何度も頷いていた。

「岳ぇ…、私は私で何とでもなるから、自分の身は自分で護るのよ?つか、勝手についてきちゃって、どういうつもりなのかしら…。全く…。」

 やはり不機嫌な声を上げながら表情を曇らせるあめたん。

 まあ、この男から嫌な雰囲気は醸し出されていないので、この妙な熱さも日にち薬だと思った。というよりも、自分に言い聞かせていたと表現した方が適切なのだろうか…。

 まあ、よいであろう。

 吉備を離れて既に何刻歩いたのか分からないが、随分遠くまで来たもんだ。しかし未だこの大男をどう呼べばいいのか定まっていなかった。

「もし、彦五十狭芹彦尊。」

「なんじゃ?岳津彦よっ!」

 どうやら全部の名前を呼ばれるのがとても嬉しいらしい。しかしながら、あめたんと話し合った結果、長々しいから略して呼んでいいかという断わりと、何故か岳がその請いをしなければならないという話になった。

 只単に、天鈿女はこの大男となるだけ話したくないのだろうという予想は多分当たっている。

 岳に躊躇している暇はなかった。

「あの、非常に言いにくい話なのだが…よいか?」

「おお、何なりと話せよ!!何じゃ?もしかすると女の話か何か?岳津彦も隅にはおけぬのぅっ!!あーっはっはっはっはっ!!!」

 一人で話を展開させ、何故か完結させてしまおうとするのはこの男の悪い癖だと岳は思った。

「いや、そうではござらぬ…。汝の名前を呼ぶの、少し省略させて貰っても構わぬかという請いなのだが…、如何か?」

 その言葉に、彦五十狭芹彦は鋭い眼光を浮かべて岳を睨んだ。

「人の命である名前を略すなど有ってよい訳ないだろうがっ!!それは、お前が言い出した話であるのか…!?」

「いや、その…。実はあめたんと二人で話していた事なのじゃ…。」

 天鈿女の名前を出すと、その鋭い眼光が瞬時に揺らぎ、寧ろ悲しい表情へと変え、身体が一回り小さくなったように感じた。

「そうか、そうなのか…。天鈿女様もそう申されておるのか…。上司の命令は絶対というのが我が社訓。致し方ござらぬ…。そうか…。」

 岳の身体を使い、いきなり割って入るように天鈿女の声がした。

「そうよ、貴方の名前、正直長いのよっ!そうねぇ…頭と後ろ取って『ひこひこ』とかどうかしら?良いじゃん可愛くてっ!!」

「いや、ちょっと…それは…。」

「いいじゃんいいじゃんっ!!『ひこひこ』で決定よっ!!何?上司の命令が聞けないとでも言うの…?」

「いやぁ…。はい…。」

 岳の身体はあの時のように、薄く天鈿女の姿が重なり見えていた。すっかり占領された形となり、腕を組み、彦五十狭芹彦改め、ひこひこの姿を大きい顔で睨みつける図式を、岳は精神世界の中でぼんやりと見つめていた。否、余りにも理不尽過ぎる出来事に、少々心が痛んだのだった。

 岳は岳なりに彦五十狭芹彦の自尊心を傷つけない呼び名を真剣に考えていた。そんな中、完全に悪乗り状態が続いて、一人騒いでいる天鈿女の声だけが辺りにこだましていた。

「ねーっ、ひこひこっ!あっ!!!どうせならひこにゃんとかどう?更に可愛いじゃないっ!!!顔が怖いから名前くらいは可愛くしなきゃだしねっ!?文句ないわよね…?ひこにゃ…。」

「ちょっと待って下さいっっっ!!!」

 天鈿女に乗っ取られていた身体の戒めを力強い気迫で破った岳は、まるで窘めるように、凛とした視線を浮かべてはっきりとした言葉を発した。

「あめたんよ、少し悪戯が過ぎている。大の男に『ひこひこ』や『ひこにゃん』は余りにも無粋過ぎるとは思わないのか…?」

「というか、岳…。私の心を気迫で打ち破ったの…?生身の人間である貴方が…。ていうかすごい潜在能力なのね、流石はあの人の子孫といようもの…。」

 呟く天鈿女の声は届かないまま、岳は暫く何かを真剣に考える風に腕を組み続けていた。そして…。

「私なりに彦五十狭芹彦尊の新たな呼び名を考えていたのじゃ。して、吉備の国を護る者である汝の名前の最後を取り、吉備津彦という名前というのは如何であるか…?」

 彦五十狭芹彦はその言葉にどう思ったのか、顔を俯かせ、肩を項垂れさせては身体を戦慄かせていた。その姿に岳は少し困惑してしまったのだが、それを誤魔化すように天鈿女に声をかけた。

「あめたんは…どう思う…?」

 余り面白そうな表情を浮かべないまま、拗ねるような口調で言った。

「岳ぇ、面白くないわ。でも、岳か吉備の違いだけでそう貴方と変わりない名前ね。この時代にはよくある話だし、いんじゃない?吉備津彦で…。で、貴方はどうなの?」

 天鈿女の言葉が降り注ぐ中、彦五十狭芹彦は溢れる涙はそのままに、気持ちのまま叫び散らかした。

「吉備津彦…。何と素晴らしいっっっ!!!!!」

 泣き叫ぶ声が天に広がり、頬を伝う大粒の涙が乾いた大地に落ちた。

「岳津彦よ、よくぞこのような名前を考え抜いたものじゃあああああっ!!」

 いきなり腰に差していた剣を徐に抜き、弧を描くような舞を暫く演出して、決めるように大きく見栄を切った。

「我が名は吉備津彦。吉備を護り抜く国津神也っ!!あ、自分で言っちゃったよ、もうっ!!!!てへぺろー。」


 余程嬉しかったのか、狂喜乱舞しているひこにゃん改め、吉備津彦を呆れるような視線で見つめながら、『何て単純な男なのじゃ…。』と岳は思わざるを得なかった。というより、てへぺろって何だ…?

 少し前から何となく考えていたのだが、先ほどの長の手紙の内容を見たあめたんが『天孫かぶれの言葉』と評していた事から、もしかすると、神々の間に天孫語という言語が存在していて、あめたんや、その部下と言われている吉備津彦までその言語を用いる事ができるのか…。

 今は多分どれだけ考えても理解できないのだろうと直観し、今は彼らから、そして今から登場する神々から、その天孫語というのを聞きながら勉強しようと岳は思った。

 暫くするといつの間にか吉備津彦の目障りな…もとい、激しい動きが止んでいるらしく、何をしているのかと確認すると、今度はその場で何故か腕立て伏せをすごい勢いで施していて、あれからそんなに刻が流れていないにも関わらず、口から百と叫ばれた。

 岳が我に返った事を確認した吉備津彦は、すぐ様その場へと立ち上がり、又もや大声で叫んだ。

「岳津彦よ、漸く気がついたかっ!!さあ、先を急ごうぞっ!播磨の地はすぐ側であるっ!!!あーっはっはっは!!!!」

 待たれていたのではなく、待っていたのはこっちの方だと即座に突っ込みたかったのだが、それを窘めるような天鈿女の冷たい視線が岳の身体を捉えると、何だか凍えるような寒さが全身を戒めた。

 なるほど。関わって話が長くなるのを避ける為なのだと岳は思ったと同時に、先ほど吉備津彦から発された播磨という言葉がやけに気にかかった。

 吉備からは愚か、近所からろくに離れた事のなかった岳にとって、他の国の地名が新鮮に思えて仕方がなかったのだ。しかし、妙な疑問がこの胸に突っかかり、天鈿女の方へ視線を向けると、岳と同じような表情を浮かべて、首を傾げながら立ち尽くしていた。

 次第にその疑問が心の中で形となり、そして天鈿女に相談してみる事にした。

「あめたんよ…。先ほどの言葉の含みから、吉備津彦はどうやら播磨へと行きたがっている様子なのだが、播磨には何かあるのか…?」

「さあ…、何か…怖いわね…。」

 妙に深い天鈿女の声が余計に岳を困惑させた。

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