第12話 第一章 吉備国の果てまで

 大量の食材を受け取り、岳達は長の家を後にした。

 この地で採れた物を頂いたのは確かなので、とりあえず土地神様の元へとお礼を込めて参拝しようという事になり、路をすれ違う民に神社が存在する場所を聞き、その方向へ足を運ばせる。

 天鈿女の話によれば、吉備国からしてこれから向かう大和国は東の方角を指しているらしい。そして、先ほど話していた長の話からすると、我々が抜け出した杉林はこの村の西の最果てで、という事は今居るこの長の家近辺は南を位置する事となる。

 先ほど民の話によると、疫病や厄病神から村を護るが故に、結界を敷く為の祠が古今東西の最果てに建てられているらしく、この土地神が祭られている神社は、集落の東の外れに存在している。

 よってそこを通らなければ大和国へは向かえないというのが必然であった。

 我々がこの集落へと安易に入る事ができたのは、特に悪しき考えを持ち合わせていなかったからなのだろう。

 もし、不穏分子なら即座に弾かれ、ここの最高神によって何らかの裁きを受けるようになるという、幾年もの歳月を経て入念に作り出されていったと思われるこの制度が、実に理に適い、何と洒落ているのだと、岳は感心しほっとため息を漏らした。

 この村の民は、安寧を噛みしめながら日々、幸せに暮らしているのだろうと岳は思いながら足を進ませる。

 ふと、西に広がりを見せている田園とまではいかないが、長閑な田畑の景色が悠然と広がっていき、道端に一本、また一本と杉の木が増えていく。

 気がつくと森の影が、まるで我が身を覆い被さるように大きくなってくる。時折木漏れ日が岳の視線を苛めては、薄く消えていき、季節外れの鶯の囀りが何とも耳心地良かった。

 森の入り口へ差し掛かった。

 そこには見た目からだけではなく、肌にも直接伝わってくるような、年季の入った石造りの鳥居が、まるで大きな顔をして我々を待ち構えていたかのように佇んでいた。

 ここが正当なこの集落の出入り口であり、最高神の裁きの場。一体何が我々を待ち受けているのだろうと、緊張感を抱かせながら鳥居を潜り、森へと入った。

 いくら日中であろうとも、やはり森の中は薄暗く少し寒い。

 もしかすると何も食していない為の疲労感がそう感じさせてしまうのかと少しだけ思ってみたのだが、悠長に弁当を広げる気分にもならない。とりあえず我慢できるくらいの空腹感であった為、森を出た後に用意された弁当を、有り難く頂こうと思った。

 規律よく、所狭しに並んでいる木々の枝からは、小鳥達が求愛を合唱するように奏でていたり、道端に咲く華が風に揺れ、我々にようこそとお辞儀をしたり、樹皮にへばりついている苔も、重なる葉と葉のざわめきも、木漏れ日と影の遊戯のような見え隠れも、この森がもたらしている賛美であり、全てがこの地の民に受け継がれ、護られているのだと岳は感覚した。

「こんな森、今の大和にそう存在しないわ…。この土地神の感覚、確実に知ってんだけど、一体誰なんだろう…。」

 心の中に居る天鈿女でさえ、どうやら寒く感じているらしいのか、淫らな恰好の上から、紫色の薄い衣を羽織らせていた。そして、思いあぐねるように遠くへ視線を向けては表情を曇らせている。

 今まで静かにしていたのは、多分この事を必死に考えていたのだろう。

 この女神が我が心に宿った刻から、いつも鳥のように騒がしい声がピーチクパーチクと心頭に広がるようになった事に少しだけ戸惑いを隠せないでいた。

 それが岳に愉快をもたらすようになったのは確かなのだが、やはりそこは齢十五の少年である岳津彦。今正に、天下御免の思春期真っ只中なのである。

 時折ほっといて欲しい刻もある複雑な心情描写。まあ、そんな事など言っていられない状況下に置かれている岳にとっては遺憾ともし難い訳なのだが…。

 思いあぐねている表情を変えようとしない天鈿女に何の言葉も届かないと岳は思い、路のような、そうでないような空間をゆっくりと進んでいくと、ふと森の影が薄くなっているように思え、少しだけ足を早ませた。

 すると、天から幾千の光が降り注いできて、まるで不意打ちを食らった感覚と、いきなり視界を遮られて思わず躊躇した。

 暗い所から明るい場所へと入った時、視界が一瞬白くなり、卒倒しそうになるというあれであると考えて頂いたらいい。正常に戻るまで、少々時間が掛かるものだ。

 暫くすると、心身共に正常且つ、平常を取り戻していく。そして、目の前に現れた情景に目をやると、こには、紫や、橙と、ちらほらと白もあるのだが、背がやたら高く、同じ形をした植物が覆い被さるように咲き乱れていていた。

 我々の姿を確認してなのか、突如現れた風に揺らされ、こちらに向けて何度もお辞儀をしたような姿を見せた。

 その情景に暫く心奪われていると、次第に風は止み、花々は元の凛とした出で立ちに戻っていた。

 なんだか不可思議に思いながらも、その空間の真ん中を歩いていくと、先ほど我々が立っていた場所からは花々の姿で確認できなかったのだが、比較的大きめと思われる社の屋根が見え始め、その場所へと早く辿り着きたいと妙に思った。

 そんな離れている距離ではない筈が、何故か岳は息を切らしながら走っていた。

只、やけに空気が薄く、まるで生きた心地がしないくらいの感覚が岳を苛め続けている。

 もしかするとここの最高神が我に仮せている試練なのかと思ったのだが、そう感じる元より、まるで親の腕に抱かれている暖かな感覚がこの胸へと伝わってきているのだ。

 松林の父、瀬戸内の母よりも、適格に近しい。これまでに体験した事のない確実なる身内の存在のような…。

 様々な想いを浮かべている岳に天鈿女の声がしないのは、やはり同じよう困惑しているのだろうか。というよりもこの女神を困惑させるこの土地神は一体何者なのだろうかという興味が心のどこかから湧き出してきて、岳は更に早く足を速めた。

 全身に汗を這わせながら、漸くと表現してもいい程、何とか社の前にある少し小さめな鳥居の前へと辿り着いた。

 森の入り口に佇んでいた鳥居と比べると、もちろん大小は場所的に小さなものである。

 同じ石造りの構えなのだが、光の当たり具合のせいか、湿気が関係しているのか、はたまた神に近い場所がもたらす効果なのか、大きい鳥居よりも深い趣を醸し出しているような気がする。

 その先に見える社の奥深くから何者かの気配がして、思わず息を呑んだ。

「この感覚…、まさかっ!!!」

 徐に天鈿女が叫んだ。

「あめたんよ、どうしたというのじゃ…。」

 いきなり叫び声が頭の中に上がったものだから、脳震盪のような感覚に至らしめられて岳は少し不機嫌になった。それと対称的に、顔を赤らめさせて、いつもの癖である両手を頬に当てながら、何故か嬉しそうに身体を左右に揺さぶらせている天鈿女。

いつも思うのだが、岳と天鈿女の態度は相反した状態と化している殊更が多い気がしなくもない。

 まあ、それはそれで良いとして、やはりこのような状態になった天鈿女には、もちろん岳の言葉は届いておらず、先ほど呑んだ息を全て吐き出すように息をついて、本来なら有るまじき事なのは分かってはいるのだが、気を引き締める事もできず、脱力感に苛まれながら鳥居を潜り、社の前へと辿り着いた。

 やはりこの森は深く、社があるこの場所が森の中枢である事は間違いない。

 ここまで歩いてきた情景より更に薄暗く、まるで深緑の影だけが並ぶ不思議な世界に誘われているようであった。

 闇の中のそのまた深い闇の所が、薄白い靄がかかっているように感じる現象が起こるのだが、どうやらそれは何らかの神がそこへと降臨していると昔誰かから聞いた事がある。

 岳はその現象を近所の松林の中で幾度となく体験した事があったのだが、それは必ず深夜の出来事であり、この深い緑の中の、しかも今は日中であるにも拘らず、葉と葉が重なり合う影のそこに白い闇と化している。

 必ずこの地には神がいると岳は確信し、再び気持ちを凛とさせ、社へと視線を向けた。

 建てられてから随分と刻が過ぎているのだろう。しかし妙である。

 森の中は人の手によって入念な施しをされていると感じた所が幾か所もあったのだが、この社は大量の白い華が活けられ、甘い香の薫りが風に揺らされているだけで、他に施されたという形跡は全く感じられない。社は古び、その前には誰かは分からないが、やや大きめの石像が何かを待ち侘びているよう、緑に塗れながら佇んでいた。

 岳は何となくその石像の傍へと足を進ませて、呆然とその姿を下から仰ぐ。

 やはり人の手は施されていないのか、像全体に苔がへばりつき、一体信仰とは何たるか考え直す必要があると思うほどである。

「あっっっ!!!やっぱりじゃないっっっ!!!」

 またもや天鈿女の叫び声が身体全体へこだましたと思うと、いきなり心底から何かが込み上げてくる感覚に囚われた。

 強いて言うなれば、気持ち悪い描写の中で、口から吐き出してしまう前に感じる…。そう、アレのような感覚である。今こそ熱い何かが胸の辺りで迸り、思わずきつく目を瞑ると、次の瞬間、アレの代わりに紫の煙が口から這い出てきた。

 そこにアレとの決定的な違いがある。アレは下向きで、煙は上向きに噴出するのである。

 もう一度敢えて言うが、アレは下向きで、煙は上向きに噴出するのだ。一応、天鈿女の自尊心を傷つけない為に、敢えて強いて言ったまでの事。そこに他意はない。

 暫く咳き込み続ける岳を、心配するかのような視線を浮かべる天鈿女の姿があった。

「岳ぇ、今度から私が擬人化する刻、いつもこんな感じだから、初めは慣れないかもだけど、次第に慣れると思うから…ごめんね。」

 咳き込みも治まり始め、涙に濡れた視界も、乱された気持ちも次第に正常化されてくる。

 やっとの想いで天鈿女の姿を確認すると、今日の朝にまで纏っていた淫らな衣ではなく、岳と初めて逢った時と同じような…。否、多分刺繍されている柄と、微妙に染められている色が違う。というよりも、更に上品と感じる衣を纏わせて、その石像をぽーっと見惚れている天鈿女の姿があった。

 嬉しそうな表情で惚けている姿は幾度なく見た事があったが、ここまで最高潮な表情を浮かべた天鈿女は見た事がない。

 岳は何となく嫉妬のような感情が芽生えて、訝しげに天鈿女の視線を追いかけると、石像の目の辺りに差し掛かった。

暫くはその苔に塗れた表情を見尽くしていると、ふと、この胸に宿る何かを感じとり、目を見張らせた。

 それは、いつしか水面に映し出された自分の顔と、どこか似ているような、似ていないような。石像から暖かな雰囲気がこちらへと醸し出されているような、そうでないような…。


『ん、待てよ…?あめたんから『貴方の祖』という言葉が散々発されていた中、その含みはいつも柔らかいものであった。そして、あめたんが今この石像に対して醸し出す雰囲気から察すると…。』

 

 そう思い返し、改めて石像の目に視線を向けると、次の瞬間、石像の目から赤い光が灯り始め、それは段々と明確な光へと化していく。初めは揺らぐ我が心に軽い遊戯を施しているどこぞの物の怪の仕業なのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。

 何故そう感じるのか。その赤い眼光が、鋭く岳の心の底まで届いていると感じたからだった。放つ光が目だけに留まらず、辺り一面に広がりを見せ始めた刻、ふと男の 声が天から降り注いできた。

「我が子孫よ、この地を訪れる事を待ち侘びていたぞ…。」

「は?し…そ…。」 

 その声に岳の声は掻き消され、そして辺りの景色は、緑と白と黒の線が帯びるように渦巻いていき、まるで宙ぶらりとなっているような、既に地に足をつけているという感覚はなかった。

 暫くするとぼんやりと男の姿が目の前に浮きだしてきた。

 薄い朱色の衣を纏わせて、左手には今まで見た事のない長細い円形のような石を羅列させた装飾品を緩く持ち、右手には杖のようなものを持っていて、その先から金色の光が薄く放っていた。

 その光によってこの男の表情がはっきりと分かった。

 切れ長の瞳で、細い鼻立ちがこの男の凛とした表情を作り出している。しかしながら唇はまるで艶やかな女のように厚く、果たしてこの男の歳はいくつくらいなのだろうと岳は思った。

 纏わせている衣の感じからすると、弥生を浚った者達が纏っていた物とよく似ている事から、大和国の者なのだという事は十二分に理解できた。しかしこの男の全身から恐ろしいほどの神々しい雰囲気が滲み出ていて、誰がどう見ても、どう感じても『この男は只者ではない』と思う事、明確である。

 渦巻く情景の中で、岳の前で悠然たる姿で薄笑いを浮かべながら佇んでいた。

 もう一度その男の声がした。

「我が子孫よ、我が声を聞け…。」


『我が…子孫よ…?やはりまた言いやがった。それに、こんな現実ではあり得ない世界へ誘われているだけでも驚愕してしまう事にも関わらず、あめたんが我が祖と申していたのは、多分この人物を指していたのだろう。それが今、目の前に現れて我が声を聞けと言われても、今さら何を語る事があるのだろうか…。』

 

 天鈿女や弥生が現れるまで天涯孤独だった岳にとって、そのような事実は信じたくても信じられない。認めたくても認められなかった。

 思えば思う程、感じれば感じる程、混沌が身体全体に憑依していき、岳の心は乱されていった。こうなってしまうと、相手がだれであろうが見境がなくなる性分の岳は、天鈿女から伝授された芝居状態へと心持変わっていった。

 そして、その男を睨むように、上目使いの視線を浮かべて静かに言った。

「汝、我を子孫と申したな…?面妖な事を申される。我は実在する親の顔も知らずこれまで過ごしてきたのじゃ…。我が父は松林の神であり、母は瀬戸内の海である。よって汝が我が祖であるという事は…ないっ!」


『決まった…。』


 気迫を込めた最後の言霊が、この訳の分からぬ事を抜かす男にとどめを刺した。…と思っていた矢先、薄笑う表情を変える事なく、どこも動じていない様子で呟くように語り始めた。

「我が名は神日本磐余彦。嘗て日向から、東方に或る安寧の地を夢見て旅をし、宛らこの地を訪れた者也。」

「は…?」

 やけに長く感じる名を持ち合わせているのは結構なのだが、先ほどの子孫という話と、日向という地名や、旅の話のどこに関連性があるのかが理解できない。というか、我が声を聞けと言っていた割に、何を伝えたいのか話が見えてこない。

 謎が謎を呼び、意味不明、理解不能な言葉が岳の心を徐々に蝕んでいく。

 しかし、芝居状態というのはある種、冷静沈着な心を保たせている状態と言っても過言ではない。芸能の大神、天鈿女から直接賜った芝居魂が、このあり得ない状況に置かされている岳の心を熱くする。

 今はこの舞台の相方であるこの男に度肝を抜かすような台詞を吐かなければならない訳で、身体を項垂れさせ、腕を遊ばせながら混沌たる劇的演出を展開させながら次の台詞を考えていた。

 相手の立場の逆を突く台詞。祖と申している言葉。訳の分からない展開。天鈿女のこれまでの言動と今の態度…。『よし、これだっ!』

岳はまるで何かに勝ち誇ったかのような表情を浮かばせながら、頭に手をやり、踊るような仕草を展開しつつ、思いっきりの台詞を叫んだ。

「ふはははは…。汝の心底、今見つけたりっ!金か?地位か?汝が求めている物は… 何と申すのじゃっっっ!!!」

 いきなりの言動に、流石の神日本磐余彦尊も一瞬、鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべたのだが、すぐ様元の表情へと戻し、言葉を続かせた。

「金も名誉も汝から与えられなくともたんまりと所有しとるわ…。まあ話を聞け、我が子孫よ…。」

「あ…、はい…。」 

 その言葉に、流石に岳の芝居魂はぽっきりと折れてしまった。

芝居というのは、相方との阿吽の呼吸が必要なのであり、相手が空気を読まない場合、全くもって通じない話になってくるものなのである。

 これは芝居ではなく、現実世界であったという事を呼びさました、否、ここまでやりたい放題されて、いきなり素に戻らされた岳の気持ちの憤りは悔しさに苛まれていた。

 遂に岳も観念し、この男の話を最後まで聞く事にした。

するとそれが以心伝心したかのように、神日本磐余彦尊は凛とした表情を綻ばせながら、しかし、どこまでも深く苦難に満ちた声で粛々と語り始めた。

「嘗て我がこの地に訪れた頃、この地は荒野であった。水も絶え、森も死に、民の目も暗く、それは貧しい生活を虐げられていた…。」

 何故か苦労話が始まった。まさかのお涙頂戴的な悲劇が幕開けてしまったのか…?岳は腕を組んで男の話に耳を傾けていた。

「東を制し、我が天皇に即位したのが確か千年もの昔に遡るだろう。その旅の途中にここへと訪れ、水を引き、荒野を耕し、決したる想い三年を要して、肥沃の大地を作り出し、田畑の園が誕生した。そうして歴史を紡ぎ今に至っているのじゃ…。」

 ふむふむ、なかなか大変な物語を繰り返してこの地の歴史が作り上げられたのか…。今日頂いた食材は、そういう苦労の賜物である訳で、この男とこの地の民に感謝しつつ頂こうと岳は思った。はたまた男の声は続く。

「三年の月日を経て、この地を離れる刻が遂にやってきたのじゃ。民は感謝の意を唱え、ここに社を建て、我が教えを末代まで語り続けると涙ながらに語っていた事を今も記憶している。しかしながら儂はこう言った。教えを紡ぐ、それだけでよい、時折忘れないように、華と香を与えてくれるそれだけで、と…。」

 荒れていると思ったのはそういう事だったのか…。祀る出来事は幾度かあるのだろうが、こういういわれならば、民の成す術もなく、社や石像に対して手の施しようもないのだろう。ある言葉を用いると、公認放置プレイという事になる。

この男、やるではないかと岳は思った。

 もし、天鈿女とこの男が申し上げているように、これが我が祖との邂逅劇なのだとすると、やはり自分に紡がれるまでの先祖の話や、これまでに課せられていた理。そして、今置かれている自分の立場と行く末まで聞いておかなくてはならないと直観し、岳は口を開こうとしたその刻、再びこの男から声が聞こえてきた。

「そして、汝は無事この地を訪れて、儂の心中を伝える事ができた。それ即ち誠に、よきかなよきかな…。」

 男は満足そうな表情を浮かべながら大きく息を吸い、吐いた。そして、瞳を爛々とさせて、潔く声を放たせた。

「終わりっっっ!!」

「えっ…!?」

 声が岳に届いた瞬間、渦巻いていた情景が一瞬にして止み、緑の闇だけが広がる空間に引き戻されていた。

 自分がその場へと座り込んでいる状態になっている事に気がつき、透かさずその場へ起立してふと横を見ると、頬を両手で覆わせて、石像を見惚れているだけの天鈿女の姿が映った。

「おい、あめたん…。あめたんよ…。」

 声を掛けても何の反応もなく、まるでお花畑が広がる情景に息を呑みながら眺めている少女のような表情を浮かばせ続けている。

 神のくせに何、現を浮かばせておるのだと憤った岳は、そっと天鈿女の耳元に口を近づかせたが、やはり何も気づかぬまま惚け続けている天鈿女。

 岳は思いっきり息を吸い、そして叫んだ。

「あーめーのっっっ、うーずぅぅぅぅぅーめえぇぇえぇぇえぇぇええっっっっ!!!!」

 天鈿女はその叫び声に、当たり前のように驚愕させて、瞬時に岳の傍から吹き飛ぶように離れていった。

「アンタっっっ!!!何するのよ、びっくりするじゃないっっっ!!!」

 必死に息を切らし、瞳に涙を浮かばせながら蒼白した面持ちで叫ぶように言葉を放った。そんな瞬間を垣間見た岳は、素直にこう思った。


『何て人間臭い神なのだ』、と。


「幾度と声を掛けても反応を示さなかったあめたんが悪いのではないか。して、どうなされたというのじゃ?」

 単刀直入過ぎる岳の問いに、一瞬顔を赤らめさせながら、身体をもじもじとさせていたのだが、岳の真っ直ぐな視線を感じ、ふと冷静になった天鈿女は、自身の心を包み隠すように、まるでやさぐれた思春期の少女みたいに言葉を吐きつけた。

「別に…。何でもないわ…。岳こそ、まるで狐に摘ままれたみたいな顔をして地べたに座り込んでいたじゃない…。どうしたの?」

 天鈿女に何が起こっていて、問いても答えられない理由は分からないのだが、思考を逆めいても然り。

 神日本磐余彦尊と名乗ったあの男から発された言葉の意味合いを事細かく説明しながら語っていると、多分三日三晩話し込まなければならなくなる事など安易に想像できた。

「否、特に何でもござらぬ。少し疲れたが故に座り込んでいただけじゃ。それよりも先を急がねばならぬ。さあ、参拝致そうか」

 その言葉に、これ以上自身の物事に対し、突っ込まれないと悟ったようで、天鈿女は晴れ晴れしい笑顔を浮かべて、力強く一つだけ相槌をした。

 緑の闇は相変わらず深い。二人は敢えて社の奥を見る事もなく、決して腐る事のない供え物を施して社を後にした。

 どういう描写を経て、あの刻を過ごしていたのかはお互い気にはしているのだが、敢えてそれを口にせず、特に当たり障りのない会話を交わしながら森の中を進んでいく。

 天鈿女が岳の中に返らない意味合いは何なのか…。問う事さえできぬ程、岳も余裕はなかった。

 路を進ませていく度、深い緑の闇も次第に晴れていく。やがて、森を抜け、紺碧の青空が視界に広がったと思うと、天鈿女が岳の唇を捉えた。

 そして、頭の中に、あのやけに甲高い声が広がっていった。

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