十唱 真夏の夜の悪夢――美しき海の町は、氷の都と姿を変えて
塔の上。
竜が捕らわれている場所に、光の球体が現れる。
さあっと霧が晴れるように光が空気に溶け――現れたのは、トーリとフリアだった。
青い竜は、突然現れたトーリたちに驚きもせず、だが、いくらか感情のこもった声で問いかけてきた。
『……小僧、なぜ来た』
「なんでって、また会おうって言ったじゃんか」
「くきゅ」
青い竜が言いたいのは、そういうことではないのだろうが、トーリはわざとそう返した。
アイスブルーの瞳から、無言の圧が返される。
そっぽを向いて口笛を吹きながらトーリは誤魔化す。だが、ややあって息を吐いた。すなおに答える。
「……放っておきたくなかったから」
それだけ。
トーリがそう言えば、竜がフン、と鼻を鳴らした。そこにさしたる興味も、ましてや感慨もない。
トーリは竜の足首につけられた壮美な拘束具を見やった。都合よく、鍵穴のようなものがあるわけもない。
「うーん……。やっぱり、法石で壊すしかないかな」
トーリは右腕の銀のブレスレットに象嵌された、色とりどりの法石を見やる。
大海の青、闇夜の黒、庭園の緑、白亜の白、紅炎の赤。
魔法の力を秘めた、法石の力を一気に解放すれば、あるいは――そう考えていたら、背後に立つフリアが声をかけてきた。
「トーリさん、剣を」
「え?」
「トーリさんが使っている剣を出してください」
言われ、トーリは音もなく腰の剣を鞘から抜き放った。
両翼を広げたような柄の中心に、蒼空の色を映した宝珠が象嵌された剣。
暗い中、うっすらと白銀の光を放つ剣を手の平に乗せ、地面と水平に持った状態でフリアに差し出す。
「これがどうしたの?」
「……魔を戒めるように澄んだ力。この剣の力を借りれば、きっと」
フリアが自身の指先を刀身に乗せた。
剣の表面に光の波紋が走る。こうこうとした光が膨れ上がると同時、竜の身体の装身具が、共鳴するように光り輝く。
やがて、ぱきん、と硬質な音の跡、竜の足首を戒めていた鎖が割れる。
「あ……」
トーリの口元が自然とほころぶ。
竜は砕けた鎖を踏みつぶすと、翼を大きく広げた。
とたん、力強く雄々しい竜の咆哮があたりに響き渡った。びりびりと大気を揺らし、その場にいる者さえも吹き飛ばしてしまいそうな、竜の咆哮。
やがて、竜はアイスブルーの瞳でトーリをぎろりと見つめた。
『小僧、感謝するぞ』
「ううん、良かった。これで……」
『
「………ぇ」
落ちた声が、自分のものだと気づかなかった。
トーリが呆けている間に、竜が巨大なあぎとを開いた。
鋭い歯列の奥から、青く燃え盛る氷結の息吹が解き放たれる。
竜の氷のブレスが雪崩のごとき勢いで柱を砕く。柱を失って崩れた天井さえも、木っ端みじんに破壊する。粉々に砕け散った石の柱は、氷の息吹によって氷の塊と化し、すさまじい音を立てて崩落していった。
たった一息で、真夏の暑気が真冬の冷気へと変貌する。
冷気からか恐怖からか。ぞわりと肌が泡立つのを感じながら、トーリは手を伸ばした。水晶の翼を広げて上空へ飛び立とうとする竜へと。
「ま、待って!」
だが、竜はトーリを見向きもしない。
無造作に翼をばさりと動かし、海上都市ヴェール・ド・マーレの上空へ上っていく。
その余波だけで、嵐のような突風がトーリを襲った。顔を両腕でかばい、その場になんとか踏みとどまる。
飛び立った竜のシルエットが、高く浮かぶ月の前に現れる。
人々が寝静まった夜、塔の崩落を聞きつけた衛士たちが、冴え冴えと光る月を指さしながら、口々に声を上げるのが聞こえた。
竜が天を仰いだ。息を吸い、肺に息を溜める。
次の瞬間、竜の強烈な吠え声が真夜中に響き渡った。
竜の咆哮に応えるように、雲一つない夜空に暗雲が集う。黒い雲は、どこからともなく現れ、海上都市ヴェール・ド・マーレのみを覆いつくす。
続いて、大気が急激に冷えた。冬でもないのに、容赦ない寒さがトーリの肌に突き刺さる。
――がれきのような巨大な雹が、隕石となって町に降り注いだ。
*
どれほどの時間が経過したのだろう。
ぽつん、とトーリは何もない空虚な空を見上げていた。
竜の飛び立った夜闇の先、凍てつく氷の都市と化していた。
数々の氷の隕石によって蹂躙されたヴェール・ド・マーレの都市は、巨大な生き物に無残に食い荒らされたように破壊されていた。
既に気温は、夏の暑さを取り戻しつつある。
普段、汗ばむほどの熱気が、今はとても暖かく感じられた。そのことに、どこかほっとしている自分がいる。
ぼうっと町の景色を眺めていたトーリは、唐突に口を開いた。
「……フリア」
「トーリさん…?」
振り返り、今までで一番情けないと思える表情で笑う。
「おれ、なんか間違えちゃったみたいだ」
「ちが――!」
違う。
そう言おうとしたのだろう。
だが、フリアは寸前で言葉を飲み込むと、パールグレイの瞳を歪めて首を横に振った。
「わからない……」
か細くつぶやいたフリアが、肩のクィーを撫でる。まるですがるように。
何も言えず、トーリは唇を結んだ。
そこへ、ばたばたと、数人分の足音がフリアの背後、階段から上がってくる。
はっとトーリが気づいた時には遅い。
「動くな!」
現れた衛士がおもむろに槍を構え、階段に近い位置にいるフリアに駆け寄る。
フリアがばっと振り返りながら手を掲げる。魔法を使おうと思ったのだろう。
が、その寸前。
「――」
フリアの動きが止まった。気づいてはいけない何かに気づいてしまったように。
「……フリア!?」
そのためらいが致命的だった。
トーリが驚愕のまま少女の名を叫んだときには、フリアは衛士の一人に上から伸し掛かられ、床に頭を押さえつけられていた。
くっ、とうめきながらフリアが手足を動かして抵抗を示すも、非力な少女が純粋な腕力で勝てるはずもない。力づくで取り押さえられる。
「フリア!」
駆けだそうとしたところで、あっという間にトーリも衛士に囲まれた。
とっさに剣を構えようとしたところで、フリアの引きつった悲鳴。
見れば、フリアの首筋に剣がひたりと突き付けられていた。フリアを床に押さえつけている衛士とは別の衛士がフリアの脇に立ち、剣をその首に突きつけている。
ぎらりとにらむように光る剣が、フリアの首筋にわずかに触れる。
現実感のある金属の冷たさに、フリアがぞっと顔をこわばらせるのがわかった。
トーリが下手に動けば、フリアの首が落ちる。
ぐっとこらえ、トーリは衛士の隙をうかがった。
なんとか――なんとか、この状況を打破しなければ。
そう思ったのはフリアも同じだったのだろう。衛士に見えない角度で、何かを唱えようと唇を微かに動かす。
刹那。
――衛士のかかとが、フリアの手の甲を鋭く撃ち抜いた。
「あ、が、あぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
フリアが目を見開き、絶叫にも等しい叫びをあげる。
「フリアッ!!」
悲鳴じみた声でトーリは叫んだ。
「やめろその子は悪くない! フリアに――フリアに手を出すな――!!」
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