六唱 竜の奇跡 ~真夏のダイヤモンドダスト~

 案内された部屋は、めまいがしそうなほどの広さと高さだった。

 石の壁には見事な壁掛け。精巧な燭台しょくだいや名入りの絵画など、まさに領主の名にふさわしい、数々の美術品が置かれた部屋だ。

 書棚には、多岐にわたる書物が並んでいる。数学、植物学、天文学、あるいは歴史書、政治、建築、地理、医学。娯楽小説や伝奇、童話、あるいは貴婦人が好むような詩集まで、実に雑多の様相を呈している。

 何十人と腰掛けられる横長のテーブルにつくのは、向かいのメルクマールとトーリたちだけ。

 丁寧に磨き上げられた白木のテーブルは艶やかな光を放っていて、ティーカップを手に持とうとするだけで、慎重になる。


「急なことで、私が個人的に使っている部屋に案内することになってすまないな」

「い、いえ! おれの方こそ、いきなりごめんなさい」

「いや、私も〈竜の民〉と会えて光栄だ」


 メルクマールが淡くほほ笑む。


「いるんだな……本当に」


 どこか、言いようのない羨望と憧憬と感動がそこにはあった。


「えっと…あ、の……」


 単なる興味とは異なる、感嘆と、色々な感情のこもった目にトーリは戸惑う。

 こんな目で見られるのは初めてだ。

 理由はわからないが、どうやら、メルクマールはトーリが〈竜の民〉であることを信じてくれているらしい。

 トーリは落ち着かない気分を紛らわすつもりで、手元のカップを持ち上げた。

紅茶より深い赤みを帯びた水面に口をつける。

 瞬間、舌と喉を走り抜けた酸っぱさに、ぐむっ、とせき込んだ。


「どうした? 大丈夫かい?」

「酸っぱい、お茶ってあるんだなぁって……」


 口の端を引きつらせながらも、なんとか笑みを作るトーリ。

 ぽかんとした後、メルクマールが楽しそうに笑う。


「ローズヒップティーという、この地域で親しまれている紅茶だ」

「紅茶なのに酸っぱいんですか!?」

「そうだよ。君の暮らしているところには酸っぱい紅茶はなかったかな」

「マスカットやレモンを入れることはありますけど、元々酸っぱい紅茶はな――って、なんで笑ってるんですかぁ」

「……いや、すまない。いいな。実にいいよ」


 灰色の目を細めて柔らかくほほ笑むメルクマールの姿は、どことなく故郷のセトを思い出してどうにも憎めない。

 隣のフリアは相変わらずの無表情だがイライラしているらしい。気配でよくわかる。

 一か月の付き合いもあれば、フリアの感情表現も多少はつかめてくる。どうやらフリアは無表情であればあるほど、強い感情を押し殺しているらしい。

 反発や対立を回避しろと言っておきながら、逆に和やかに会話するのもダメらしい。

 頼みの綱はクィーばかり。出てきてくれないかなあ、とちらりとフリアの方を横目で見やるも、白いもふもふの姿はない。

 城の前で衛士と会話を始める前から、クィーはフリアの髪の毛の中に隠れ、そのまま一向に出てくる気配がない。


「それで、今日はどのようなご用件かな」

「ここに竜がいるって聞いて、会いにきたんです。それで、ここには竜は……」

「いるよ」


 柔らかにメルクマールが即答。

 トーリは身を乗り出しそうになるのをこらえる。


「その竜とは、メルクマールさん……様が――」

「メルクマールで構わないよ。君は外からのお客様だしね」

「じゃあ、メルクマールさんは、竜と契約を結んでるんですか?」

「あいにくと、竜と契約しているわけではないな。ここには契約魔法の使い手もいないし」

「契約魔法?」


 それは、ボートの上でフリアが口走った言葉だ。


「竜の力を使うには、本来、契約が必要だ。魔法による契約がね。その昔、オルドヌング王族とマキラ家の間の契約を結んだ――」

「……ユレンシェーナ家」


 落とされたトーリの言葉に、メルクマールがうなずく。

 思い出した。

 魔法の力を持つオルドヌング族のうち、〈真義〉と呼ばれる特別な秘術を継承した六つの名家があったことを。

 頭の隅でほこり被っていた記憶を引っ張り出す。


「〈真義〉を使えるオルドヌング族のうち、〈イドの解錠〉の後、流刑にされなかった一家……でしたっけ」

「ああ、マキラ家、そしてユレンシェーナ家。歴史にもある通り、ヴェルシエル大陸に残った名家はこの二つだ」


 かつて、この大陸には魔法の力を持つオルドヌング族がいた。

 人のため世のため誰かのためなら、奇跡さえも起こす万能の秘術、魔法という力を持った一族が。

 彼らは、その力を持って大陸を統治し、黄金時代と語り継がれるほどの繁栄と栄華を築いた。

 だが、その栄光は、突如、崩れ去った。次期、国王となる王子が、魔法で人を殺したことで。

 魔法は人のため世のため誰かのための力だ。他人を害する目的で振るわれた場合、その力は反転し、災いの力と化す。

 ましてや、魔法による私的な殺人なんて、最大級の禁忌だ。

 他のオルドヌング族より強大な力を持つ王族の力が、奇跡とも称される力が、災いへ転じれば、どうなるか。


 ――訪れたのは地獄だった。


 王子は災いへと転じた力を制御しきれず、破壊の限りを尽くした。

 人々の血と絶叫をまき散らしながら崩落する城で、大勢の人が死んで、死んで死んで死んで。ただ、死んだ。

 災厄の化身となった王子を止めようとした者は、みな殺された。

 戦いなんて呼ぶのが馬鹿馬鹿しいほど、一方的な虐殺だった。

 やがて、三日三晩続いた惨劇は、一振りの剣によって、幕を閉じた。

 魔を封じる剣を持ったある英雄が、王子の首を撃ち取ったのだ。

 そして、オルドヌング族の六つの名家のうち、四つは流刑に処され、残りの二つはこの地に残された。

 マキラ家とユレンシェーナ家。

 オルドヌング王家を含め、〈イドの解錠〉に深く関わりのある彼らは、贖罪しょくざいのため、今も貴族連盟によって管理されている。

 オルドヌング族が初めて犯した私的な殺人と、その結末。

 後世に、〈イドの解錠〉と伝えられる一連の出来事だ。


「しかし、意外だな。〈竜の民〉である君が、竜との契約には、契約魔法とその使い手たるユレンシェーナ家が必要だということを知らないとは」

「え」


 ぎくり、とトーリは肩をわずかに跳ね上がらせる。

 メルクマールが両肘をついて手を組んだ。ゆったりと向けられた瞳が、どこか狡猾こうかつに光る。


「勉強をよほどサボっていたのかな。それとも、何か教えてもらえない理由があった、とか?」

「さ、さあ、単なる勉強不足じゃないですかね?」


 からかうような響きの裏、何か勘繰られている気がして背筋を伸ばす。

 メルクマールに気づかれないよう、トーリはこっそりと内心で嘆息した。

 海上都市ヴェール・ド・マーレに竜がいるという情報が、恐らく意図的に遮断されていたことといい。

 お目付け役とはいえ、セトが同い年の少女を連れて行くように命じたことといい。

 フリアの側にも事情がある様子や、道中、邪魔をしてくるブライヤー、目の前のメルクマールの反応といい——そろそろ、保留にしていた判断を下す。


 恐らく、この旅の背後には誰かの何か思惑がある。


 セトや〈竜の里〉の人々を疑うことにつながる気がして、意識的に考えるのを避けていた部分だ。

 さすがにセトがブライヤーを寄越したとは思えないし、考えたくもない。セトを信じたいというより、あのナルシズム気質を持った性格の悪そうなブライヤーとセトが手を組んでいる、というのがトーリの精神衛生上よろしくない。

 わからないだらけの中、トーリにはいくつかの確信がある。

 セトは、命を奪うような危害をトーリに加えないだろうということ。

 そして、フリア。 

 直観だが、フリアは誰の思惑も知らないのではないだろうか。

 正確には、背後で渦巻いている各人の思惑を利用して束ねようとする、誰かの入り組んだ意図を感じない。

 何より。


 ――でも、しょうがないので付き合ってあげます。


 美しい虹のかかる空の下、竜と契約するのを手伝って欲しいと差し出したトーリの手を握り返したフリアの笑顔は、本物だということ。

 トーリにも事情や思惑があるように、誰かに何かの事情や思惑があるのは当たり前だ。

 旅の仲間が信頼できて、かつ、自分がへまをやらかさない限り、命の危険にさらされる可能性が低い。

 なら、多少、強引に事を押し進めても問題はないだろう。

 考えたところで、トーリは相手の思考を読んで先手を打てる知力も、策を張り巡らせて見事成就させられる繊細な頭脳も持ち合わせていないのだから。

 と、そんなトーリの思考に水を差したのは、メルクマールの意味深な言葉。


「まあ、契約魔法などなくても、竜の加護を得ることはできるがね」

「え?」


 疑問符を浮かべるトーリの中で、警戒水域が無意識のうちに上がる。

 そこへ、かちゃん、と食器を打ち鳴らす音。

 静かな部屋に、ひと際大きく響いた音は、フリアの手元から発せられた。

 空になった白磁のカップを置き、きっとにらむようにフリアはメルクマールを見た。


「単刀直入に聞きます。あなたはどうやって竜と出会ったのですか。どうして契約しているわけでもないのに、この町は竜の加護を得ているのですか」

「領主の座につく前、私は各地を旅していてね。その時に竜と出会ったんだ」

「あり得ない」

「あり得ない、とは?」


 余裕すら含んだ声で、メルクマールが聞き返す。


「探して見つかるようなものではありません。偶然、本当に偶然、見かけることがあったとしても、彼らが人の前に姿をずっと現しているはずがない」

「まるで竜そのものをよく知っているような口ぶりだ。竜の関係者かな。それとも、当事者か」

「王立治安騎士団の入学試験を首席で突破した成績優秀者ですので」


 秒でわかるフリアの嘘。

 案の定、メルクマールはくつくつと楽しそうに笑いをかみ殺している。


「なるほど、つまり君はこう言いたいのかな? 私があの竜をとらえてここへ連れてきた、と」


 とっさに、トーリはメルクマールを見直していた。


「竜の力は強大だ。私のような一介の人間ではとらえることなど、それどころか触れることさえできないだろう」

「オルドヌング族ならできるでしょう」


 フリアが正面から一瞥いちべつで切り込む。

 メルクマールが静かにうなずいた。肯定の意。


「だが、知っての通り、彼らは誰かを害する目的で魔法の力を使えない。世のため人のため誰かのためなら、奇跡すら可能とする万能の秘術では、ね。オルドヌング族だとしても、竜を捕えるのは困難だ」

「人を殺め、その身が呪われたオルドヌング族なら可能でしょう。今も王族の直系親族は、災厄と破壊の力をその身に宿している」

「……どうやら君は、私が何かの方法で竜を捕えたと疑っているようだが、聞きたいのはそんなことではないのではないのかい?」

「……っ」


 歯を食いしばったフリアが言いよどむ。

 喉を引き絞るような低い声で、彼女はうなった。


「……なんのために、竜をこの地に置いているのですか」

「なんのために、とは?」

「しらばっくれないでください。そちらから社会的に廃したような存在を今更——放っておいてくれればよかったのに! どうして!」


 ひび割れた感情をたたきつけるようにフリアが大声で叫ぶ。


「フリア……?」


 驚いてつぶやくトーリ。

 メルクマールは冷静だった。


「君の事情も立場も私は知らないが、少なくとも私は廃したつもりも、ましてや否定したつもりもないよ」

「なんですって……?」

「むしろ、私はなぜあれほどの存在が忌避されているのか疑問すら感じている。今も貴族連盟に管理されているオルドヌング族を含めて、ね」


 ますますフリアの眉がつり上がった。今すぐにでも声を荒げそうな様子。


「ふ、フリア、そろそろその辺で……」


 不穏な空気のあまり、口を挟む。

 と、ころりと一転。メルクマールがトーリを見た。


「ああ、そうだったね。君たちは竜に会いに来たんだったね」

「え? あ、はい!」


 思いがけないメルクマールの助け舟にトーリは慌てて返事をする。


「本来、人が見るのは禁じているんだがね。特別だ見せてあげよう」

「わ、わー、ウレシイなー」


 棒読みでトーリはなんとか返した。

 正直、欲しくない賄賂を握らされた気分だが、話題を逸らせるならこの際なんでもいい。


「ついてきたまえ」


 椅子を引いて立ち上がるメルクマールに、トーリも続く。

 もう、フリアの顔には何の感情も浮かんでいなかった。







 一段一段、直角と思えるような螺旋らせん階段をのぼっていく。

 勾配のきついく狭い大理石の階段を上る途中、細長く繰りぬかれた窓の外に、美しいヴェール・ド・マーレの町並みを眺望することができた。

 さあっと爽やかな夏空の下、青空色の屋根の城を中心に、明るいオレンジ色の屋根瓦の街並みが島の縁まで続いている。

 島の外は、あおい海が生まれたままの姿で、水平線のはるか彼方まで広がっている。

 眺めの良さに気持ちよくなる反面、まるで隔離するように遠く離れた場所に竜がいることに、トーリは不安を覚え始めていた。

 トーリたち〈竜の民〉は、竜を神聖視も異端視もしない。


 やがてたどり着いた、鐘楼の頂上。

 町をぐるりと見渡せる絶景の中心に、竜はいた。


 どくり、とトーリの心臓が高鳴る。


 青い竜だった。

 ゆうに人の身の丈の数倍以上ある巨体は、澄んだ青い水晶のうろこで包まれている。

 美しい光を放つ竜の身体は、きらびやかな宝飾品で飾られていた。

 手首に足首。ブレスレットにアンクレット。装飾具のように思えたそれは、塔を支える四つの柱の鎖にそれぞれつながれている。

 すらりと細長い首につけられた何十の金銀の首輪には、精緻な細工が施されていたものの、それが身を飾るものではないというのはすぐに知れた。

 数々の貴金属に埋め込まれた宝石は、宝石ではない――法石だ。しかも、相当に強い力を持った。

 竜が緩慢な動きで首を持ち上げれば、はずみで動いた鎖が、じゃらりと重い音を鳴らす。


「……っ!」

「トーリさんっ」


 反射的に飛び出しかけたトーリの手首を、背後のフリアがつかむ。

 無言で首を振るフリア。それで頭が冷えた。

 トーリたちの様子を見ていたメルクマールが、ふっ、とどこか満足げにほほ笑む気配。

 竜の前に立つメルクマールが背後の青い竜を視線で見るよう促す。


「美しいだろう」

「……はい」


 挑発としか思えない言葉に、トーリはぐっとこらえてうなずく。

 それ以上、何も言わずにトーリは竜を見た。視線は逸らさない。

 深い海を切り取った竜の青い瞳は、暗くよどんだ色をしていた。

 竜は黙っている。声は、聞こえない。

 すると、唐突にメルクマールが言い放った。


「せっかくだ。竜の奇跡を見せてあげようか」


 そう言ったメルクマールが指を鳴らした瞬間、竜を拘束していた数々の装身具が、一斉に光り出した。

 同時、声にならない竜の悲鳴が、その場に響き渡る。

 竜の痛々しい咆哮ほうこうに、トーリはとっさに頭を押さえていた。身体を引き裂くすさまじい痛みが、トーリの身体を貫く。


「あ、が……あぁ…っ」


 からっとした夏空に、いくつもの水滴が浮かぶ。

 大気を統べ、天候を支配する、天空の覇者――竜。

 文字通り、彼らは天気を自由自在に操ることができる。

 雨でもないのに、空に浮かぶ水のしずくが光をまとって輝くさまは、さながら真夏のダイヤモンドダストのよう。

 まさに奇跡と呼べる光景に、住民たちが空に輝く光を振り仰ぎ、わぁっと歓声を上げる。

 歓喜、賞賛、感動、さまざまな人々の声が、濁流となって聞こえてくる。

 竜の聴覚を通して聞こえる歓声は止まない。人々の喜びの声は冷めやらぬ興奮となって、島全体に広がっていく。

 それに比例して、竜の悲鳴の濃度が高まる。


「や……めろ………ッ」


 脳をがんがんと金づちでたたく激しい痛みに、頭がもうろうとしてくる。

 フリアやメルクマールに竜の悲鳴は聞こえてない。当然だ。二人は〈竜の民〉ではないのだから。


「やめ……」


 ――こんなの、こんなのって。


「トーリさん!?」


 はっとしたフリアの叫び。

 がくり、とトーリの膝が砕け、身体が崩れ落ちる。

 目の前が暗く閉ざされ、平衡感覚が失われる。


「トーリさん! しっかりしてくださいトーリさん——トーリさん!!」


 意識が遠ざかり、急速に現実感が失われていく。

 焦燥めいたフリアの叫びがどこから聞こえてくるのかわからない。

 やめてくれ、と内心で懇願したトーリの記憶は、そこで途絶えた。


 ……目を閉じる直前、抑揚のない目でトーリを見下ろす、メルクマールの姿を見た気がした。

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