三唱 Summer Time Festival
まずは宿へ。
港の管理をしている男性から町の地図をもらい、迷路のように入り組んだ石畳の路地を右へ左へと歩いていく。
途中、通りがかったのは、青空の下、パステルカラーのパラソルが映えるにぎやかなマーケットだった。
広場のあちこちに置かれた木箱には、色とりどりの野菜やくだものが入っている。たわわなブドウは箱の端からこぼれ落ちる寸前。真っ赤なパプリカは、さんさんと輝いていた。
「うわあ……!」
目移りするほどの光景に、思わず声が上がる。
トーリはぱっと広場へ飛び込んだ。
「あっ、トーリさんっ!」
人でごった返した広場から、色んな人の声が、匂いが、色が、あふれてくる。
しかめ面で悩む客を、笑顔で揉み手しながら、しかし油断ない顔つきで商談をまとめようとしている男。
甘くフレッシュなくだものの香りの中、交わされる他愛もない話。
空になったクルミ材の木箱をイス代わりに、野良猫に魚を上げているのは半そでの子供だ。
夏の強い日差しが生んだ濃い木陰の下では、ひと息ついた女性がリネンのハンカチで汗をぬぐっている。
「うちのはおいしいよー。食べてごらんー」
ふと、活発な空気をかき分けるようにして聞こえてきた女性の声。
足を止め、横を見れば、店先に熟れたトマトが山積みにされている。
絶妙なバランスを保っているトマトの山を、すげー、と感心しながら見ていれば、フリアが後ろから追いついてきた。
「トーリさん見つけた!」
「あ、フリア」
「おや、よかったら一つ食べていきなよ」
売り子の女性が、腰に巻いたエプロンで手をぬぐい、山の上からトマトを取った。
ころんとトーリの手の平に置かれたのは、まんまるなトマトが二つ。
「フリア」
「えっ、あっ」
大きなアメ玉のようなそれを、ぽいっと、一つをフリアに投げ渡し、ぽいっと、もう一つを口に放り込む。
瞬間、夏の味が口いっぱいに広がった。お日様をいっぱい浴びたトマトの味。
「ん~っ!」
「と、トーリさん!?」
酸っぱさとそれ以上の甘さに、顔がくしゃくしゃになる。
トーリはフリアに、ぱっと、笑いかけた。
「おいしい!」
「え?」
フリアが瞬きしている間に、クィーが白い髪の中から顔をひょっこり、ぱくっ。フリアの手のひらに置かれたトマトを盗み食い。
「あっ」
「く~っ!」
「ちょっと、クィー!?」
「くうきゅ!」
「だろ? おいしいよね、クィー」
「……もう」
しょうがないなあ、とフリアが緩く苦笑する。
「はいよ、お嬢さん。食べられちゃったから、もう一つ」
「あ、ありがとうございます」
フリアが売り子の女性からトマトを受け取り、口に入れた。直後、すっぱ……っ!と口をすぼめ、目をぎゅっとつむる。
クィーと一緒になって、からからと陽気に笑っていれば、汗もにじむ暑さを
ぐるりとマーケットを一巡りしたところで、突然、クィーが小さな翼を羽ばたかせる。
「く、く、くぅきゅー!」
フリアの肩から飛び立つなり、どこかへ行ってしまう。
「あっ、クィー! どこへ行くのですか!」
「フリア、クィー!」
一拍の遅れを取って、トーリも走り出す。
ヴェール・ド・マーレの町を走り回りながらクィーを追っている途中、迷い込んだのは、ともすると、見逃してしまいそうなほど小さな路地だった。
両腕を伸ばせば届きそうなほど狭い道の両側には、石造りの壁がそびえ立っている。
見上げれば、空は遥か彼方。昼でも陽が当たることのない、ひやりとした空気が立ち込める薄暗い路地は、そこだけ別世界のよう。
フリアとクィーが走り抜けるずっと先。細くのぞいた通りの出口には、あふれるばかりの光がこぼれていた。また違う世界へ
クィーを追いかけて路地を抜ければ、ぽんっと意外なところでカフェにぶつかった。
ぽっかりとした休憩場所を見渡し、トーリはつぶやいた。
「ここは……」
コーヒーの匂いが漂うカフェで、パナマ帽をかぶったおしゃれな男が、本を読みふけっている。革表紙の本を優雅で読みながら、おもちゃみたいに小さいカップをつまんで一口。
昼下がり、童女のように笑う主婦たちの傍ら、井戸を囲む子供たちが手をたたいて歌っている。
「こら! 待つのですクィーっ!」
「くぅきゅー」
「あっ、二人とも待った!」
住宅街に響く住人たちの笑い声を後に、トーリは一人と一匹を追いかける。
再び走り出したところで、ふと足元で揺れる影に気づき。
——空を見上げれば、万国旗のような洗濯物たち。
「わ、あ……っ!」
青空の下、民家の間に架けられたロープに、色とりどりの洗濯物がはためいている。
一重二重にも奥へ奥へと重なる洗濯物を潜り抜け、クィーは飛ぶ。
どこへ向かっているのかわからないクィーを追いかけながら、トーリは期待に胸が膨らむのを感じていた。クィーについていったら、違う世界に連れ行ってもらえるような予感。
もうっ、と文句をこぼしながら隣を走るフリアといえば、やや息が切れ始めていた。
そんなフリアの白い手を、トーリはおもむろにつかんだ。
「フリア、行こうっ」
「えっ? ちょっ、トーリさん!?」
ぐい、とフリアの手を引っぱって、クィーに迫る。
前を飛ぶクィーが、ますます速度を上げる。なんだか楽しそうだ。
——潮の風が吹く、ヴェール・ド・マーレの町をトーリたちは駆け抜ける。
涼しげなペールブルーのストライプ地のスラックスを履いた足をゆったりと組み、新聞をよみふける男を。
海辺のレストランで新鮮なシーフード料理に舌鼓を打つ女性を。
太い腕の肝っ玉母ちゃんが、窓から隣家のいたずら小僧を叱り飛ばす姿を。
艶やかな光沢を放つ赤いヒールを履き、音楽と共にダンスを踊る女性を。
にゃあと足元でかわいらしく鳴く猫を。
何もかもを通り過ぎ、ただ、自由に、どこまでも縦横無尽に駆け抜ける。
やがて、クィーとの追いかけっこは唐突に終わった。
「あー、よく走った!」
「くきゅう!」
「楽しかったなー、クィー」
「くーきゅ」
「もう……っ、行きたい場所があるなら…言って…くださ…よ…っ」
散々飛び回って満足したのか、クィーはフリアの肩で羽を休めている——ではなかったらしい。フリアの頬をむにっと押し、くうきゅ、と一声。脇の建物を見るよう促してくる。
見れば、ピンクにも見える赤茶けた壁の建物があった。
「ここがどうしたのですか?」
「なんだろ、ここ」
トーリは格子がはめられた窓のそばへ近づいた。漂ってきたのは、トマトの煮込み料理のような香り。
「ん~、いい匂い」
食欲をそそるガーリックとオリーブオイルの匂いが鼻をくすぐる。
空腹の胃がたまらず動く香りを堪能しながら、トーリはこっそりと中の様子をうかがった。
外の明るさとの差で薄暗く感じられる店内はよく見えない。卓を囲みながら談笑するのは男か女か二人か四人か。
がやがやとした人の声と、肉と脂が跳ねる香ばしい音に混じって聞こえてきた弦楽器の音色に、トーリは耳を澄ませた。
「音楽……?」
「ここは、宿屋……でしょうか」
ぽつりとつぶやいたフリアが、店先にぶら下がったアイアンの看板を見上げている。
乗馬する紳士を象った看板の下には、優美な文字で、宿屋、と書かれていた。
「クィーはここが気になるのか?」
「きゅ」
「じゃあ、行ってみようか。ちょうど宿、探してたし」
「あ、トーリさん!」
「失礼しまーす」
赤い板扉を押し開け、トーリは中に入った。
人で込み合う店内は、下町の食堂を思わせる活気であふれ返っていた。
奥にある半円形の小さな舞台で、幾人かの楽団が小ぶりなギターに似た楽器を抱えている。
陽気な音楽に合わせてダンスを踊るのは踊り子たちだ。白地の薄い布に一つ一つを丁寧に刺された赤い
十人ほどの男女が手を取って輪を作り、軽やかなステップを踏む中、店内の客も手を打ち鳴らしている。
途中、飛び入りで参加した男を加え、舞台はますます盛り上がる。
ゲストがうっかり足を滑らせれば、どっと明るい笑いが沸き起こり、なら、オレが手本を見せてやるぜ、と別のゲストが意気込みながら舞台に上る。
踊り子も客も店員もみな声を重ねて歌い、楽しそうに手を叩いている。そのうち、自然とトーリも手拍子をしていた。
すると、踊り子の一人が舞台から下りて、トーリたちの方へ。
踊り子の女性は
「えっ、ええっ!? ちょっと待ってください!? わたし踊れない——」
「行ってきなよフリア!」
「トーリさん!」
「くきゅー!」
「ああもうクィーまで!」
フリアが反論するも、ひゅーとはやし立てる口笛があちこちから飛ぶばかり。
いいぞ、ねえちゃーん!と意気揚々にグラスを掲げる客に混じって、トーリも高々と手を大きく振ったところで。
がっしと。
「うん?」
突然、腕を組まれた。
左右を見れば、体格のいいヒゲ男二人がトーリの両脇をがっちり固めている。
ヒゲ男は、にかー、と悪人面にも見える笑みを浮かべ——
「ちょっと待って!? おれもおおおおおおおおお!?」
ずるずると強引に引きずられ、あっという間にトーリも舞台へ。
勢いに乗せられるままフリアと腕を組まされ、踊り子や客と一緒になって輪を作る。
踊り方も作法も何も知らない。わからなくても構わない。ぶっつけ本番。見よう見まねで、トーリは歌って踊る。
次第に、あわあわと翻弄されていたフリアの顔に笑顔が浮かぶ。
フリアの頭の上にいるクィーは、とっくの昔にくきゅくきゅ、と声を立てて笑っていた。
最後、弦を軽やかに弾く音と共に、曲と踊りが終わった瞬間。
——鮮やかな歓声と拍手が一斉に沸き起こった。
*
「ふしゅう……」
椅子に座ったフリアがくったりと放心している。その口からは白い魂(?)が出ていた。
「フリアー、フリアしっかり」
「くぅきゅ……、くっきゅっ」
フリアの口からはみ出ている息か魂かわからない白いものとじゃれついているのはクィーだ。
クィーに構わず、フリアはほっそりとした指先を組むと、天井の立派な
「わたしは異国の地でそそのかされて悪い遊びを覚えてしまいました……お母様…おばあ様……どうか未熟なフリアをお許しください」
「ぜんぜん唆されたわけでも悪い遊びでもないと思うけど」
小さく言い返し、お母様、おばあ様、ね、と内心でフリアの呼び方を繰り返す。
セトいわく、フリアは貴族ではないらしい。確かに、一つ一つの所作は丁寧で品があるものの、やんごとなき身分かと聞かれると疑問が浮かぶ。
その証拠に——
「なんなのですかあれは!」
「いぃッ!?」
くわっと目をむいたフリアが顔を寄せてくる。こんな顔をする貴族が他にいたらお目にかかりたい。
「な、何って、何が?」
あまりの至近距離にどぎまぎする内心を隠しつつ、トーリは聞き返した。
「ただ歌って手を組んで飛び跳ねているだけでなぜか勝手に笑っている……。何かの薬物が使われているに違いありません。はっ、もしかしてブライヤーさんによる
「フリアってたまによくわかんないこと言い出すよね。面白いけど」
トーリが世間知らずなら、フリアは非常識だ。
「トーリさん! わたしは真面目に——!」
「ごめんごめん。でも、子供の頃とか、小さい頃、こうやって民謡とか歌ったり踊ったりとかしなかった? おれの〈竜の里〉とかは、けっこう竜にまつわる歌がいっぱいあったけど」
「小さい、ころ……」
フリアのパールグレイの瞳がほうけたように見開かれる。
急速に勢いを失ったフリアは黙り込んでしまった。
あれ、何か悪いこと言ったかな、と至近距離にあるフリアの瞳を見つめ返す。
そこへ、トーリたちの目の前を通りかかったのは、ウェーブがかった金髪をバレッタで止めた、たくましい美女だった。
「あら、よかったわよん、かわいらしいお客さん。今日はお二人さんかしらん?」
艶のあるルージュが引かれた魅惑的な唇からは想像もつかない野太い男の声。
よく見れば、大胆に開かれた白いシャツの奥に、褐色の胸筋がのぞいている。
「え? あっ、はいっ!」
目を白黒させながら、トーリは反射的に起立していた。
男? 女?ととっさに混乱していれば、男(?)はすいすいと狭い卓の間を通り過ぎていってしまった。エールがなみなみと注がれた大きなジョッキを六つも乗った盆を両手に、軽々と運ぶ後ろ姿は雄々しい。
やがて、店員と思しき男(?)は、卓にエールを運んだ後、また戻ってきた。
「今日はお食事かしら。お泊りなら、あっちのカウンターで手続きして……って、あらん?」
「え?」
店員の視線につられ、トーリは入口付近のカウンターへ視線を移した。
見れば、いつの間にか、カウンターの上に乗ったクィーが、いそいそとペンを持って台帳に名前を書いている。
「こらクィー!」
がたっと、フリアが椅子から立ち上がった。大慌てでカウンターへ向かい、クィーを腕の中に捕まえる。
「だめですよ、勝手に」
「くうきゅぅ! くうきゅう!」
珍しく手足をばたつかせて抵抗するクィー。
その姿に、トーリは提案した。
「フリア、宿ここにしない?」
「え?」
「クィーも気に入ってるみたいだし」
「くうきゅ」
フリアは胸の中のクィーを見下ろした。
「それ、は……もちろん、構わないですけど」
「じゃあ、それで。すみません、二人一部屋でとりあえず三泊」
「二人一部屋でいいのかしらん?」
「え?」
くすくすとからかうような質問の意味がわからず、トーリは聞き返していた。
はた、フリアが今更気づいたように声を上げる。
「――あ、あの! ト、トーリさ」
「くーきゅ!」
遮られた。
フリアの頭の上にいるクィーが元気よく短い手を挙げて自己主張している。
何が言いたいのかわからず首をひねりかけ、はっ、と素早くその意図を察したトーリは店員へ振り返った。
「おばさん、さっきのなし! やっぱり三人一部屋で」
「くきゅ」
満足げにクィーがうなずいている。
すると、店員は意表をつかれたように目を丸くした後、ぷっ、と吹き出した。
「りょーかいよ」
くすくすと笑う店員。
何が面白かったのかわからず、クィーと一緒になって小首をかしげる。
一方、フリアは弱弱しくうめきながら伸ばしかけた手を引っ込めようとしている。
「あ、ごめん。フリアもさっきなんか言いかけてたみたいだけど」
「えっ!? あの……っ、いえ、やっぱりなんでもないです!」
「っていうか、顔赤い気がするけど大丈夫? 熱? 日射病?」
「ちなみに、今からでも変更は受け付けてるわよん」
「……っ、みんな一緒で構いませんっ!」
力いっぱいフリアが断言してくる。
「あらあら、じゃあ
事前通告なしに、タニシが集まったような太い指先で額を弾かれる。刹那、首が飛ぶ衝撃。
見た目通りの威力に、やっぱりレディじゃなくてゴリラなんじゃあ、というセリフは理性で喉の奥に流し込んだ。
その日の夕食は、白身魚のトマトとワインの煮込みだった。パンをヒタヒタと浸して食べるのが定番らしい。
舞台を盛り上げてくれたお礼、とおまけしてもらったのは、ほんわりと人肌に温かいカスタードの上にパイ生地をかぶせたデザート。
踊った人たちや店の客と一緒に食べたそれは、とてもおいしかった。
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