二譚 地を統べ、大地に根を張り、生きる命——人

一唱 海上都市ヴェール・ド・マーレ

 きらきらと光り輝くのは、生まれて初めて見る青い海。

 海の奥に見える水平線には、いくつもの白い帆のヨットが浮かんでいた。白い水しぶきを上げながら自由に海の上を泳いでいる。

 トーリは潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、


「海-っ!」


 波止場から目と鼻の先に見える島に向かって叫んだ。

 美しく輝くエメラルドグリーンの海の向こうにぽつんと浮かぶ島の中央には、シンボルのような尖塔せんとうがそびえ立っている。

 島の縁は、明るい黄や白や桃色の壁の家々で囲まれている。屋根は太陽のようなオレンジ色。


 海上都市ヴェール・ド・マーレ。

 エンハンブレ共和国でも、有数の自治都市だ。

 数年前、都市を治める領主が代替わりし、今はメルクマールという若い領主が統治している。

 そして、竜がいる。

 竜ともう一度契約をしようとしているトーリにとって一番重要なことだ。

 そこへ、ぱたぱたという足音とともに、ホワイトローズの香り。後ろから遅れてやって来たのは、雪の白――ではなく、フリアレア・フラル。略して、フリア。 


「トーリさん、はしゃぎすぎですっ」

「だって、おれ〈竜の里〉から出たことがないからさ。これが海なんだなあって! ほんとに海って青いんだ」


 わくわくと胸を期待で躍らせていれば、フリアの嘆息。


「もう……小さい子どもじゃないんですから、そんなにはしゃがないでください」

「フリアは落ち着いてるみたいだけど、海を見たことあるの?」

「ない……ですけど。そうではなくて、遊びに行くわけじゃないんですよ!」

「いーじゃん、せっかくだし観光していこうぜ!」

「くうきゅ!」


 ひゃっほーい、と波止場からにぎやかな港に向かって走り出すトーリ。

 それを追うように、フリアの肩に乗っていた白いぬいぐるみのような生き物――クィーが翼を羽ばたかせて飛び立った。しっぽがぱたぱたと揺れている。


「ああもう、クィーまで!」


 銀髪を振り乱すように、フリアが頭を振った。

 かーっと照り付ける太陽の下、二人と一匹は走り出す。





 船が停泊している港の手前には、赤い布の屋根を広げた店が軒を並べていた。

 活気づいた市場のあちこちで、軽快なおばちゃんたちの声が響き渡り、あれよあれよと、魚が飛ぶように売れていく。

 売る気があるのかないのか、やって来た客と井戸端会議に花を咲かせているのは、エプロン姿の中年女性と主婦らしき若い女性。

 削り取った氷の上には、ぐにゃぐにゃのタコに、貝殻付きホタテに墨まみれのイカが。銀や朱色に光る魚は、がけの先で見た七色の虹のよう。

 トーリの母や祖母が台所に立って料理するときのようなにぎやかさに、懐かしさのようなものを覚え、トーリはクィーを頭に乗せてあちこちの店を見回っていた。


 新鮮なイワシを塩漬けにしたアンチョビのガラス瓶。日持ちするのだというそれを買ったところで、フリアが尋ねてくる。


「トーリさん、ブライヤーさんに言われたこと、覚えているのですか?」

「もちろんだよ」


 ぷかりと丸い煙をキセルから浮かべる店主から瓶を受け取り、お礼を一つ。

 買い物を終え、波止場のボートへ向かいながら、隣に並ぶフリアに元気に笑いかける。


「だから海上都市に行こうってことになったんじゃないか」


 ――海上都市ヴェール・ド・マーレに行ってみな。あそこには、竜がいる。


 一か月前に出会ったのは、銀色の髪を一房結わえた、エメラルドグリーン色の刃みたいな瞳の青年。

 狡猾こうかつにほほ笑んだブライヤーの美麗な横顔が、頭を横切る。

 フリアは、ふぅ、とため息を吐き出した。説得するようにゆっくりと言ってくる。


「……ご丁寧に人の妨害をして、にやりと笑ってくれたあの人が、善意で、ましてや好意でこの島に竜がいることを教えてくれるとは思えません」

「じゃあ、フリアはブライヤーが何か企んでるとか、ワナにはめようとしてるとかそういう風に思ってるの?」


 きょとんと質問するトーリ。

 フリアが形のよいまゆを寄せる。


「そこまでは言ってないですけど、用心した方がいいんじゃないかって」

「でも何をどう用心すればいいのさ」

「それは……」


 言いかけて、口を閉ざすフリア。


「捕まえたいなら、最初に出会った時におれらを取り押さえればよかったのに、そうしなかったじゃん」


 親切にも、悪役だ、と名乗ってきた青年は、その通り、ここ一か月の間、トーリたちに何度かちょっかいをかけていた。

 だが、彼の行動はいやがらせをする程度にとどまっていて、悪役という割にはぱっとしない。

 だからこそ、トーリも追い払う以上の強行に出ずに済んでいる。


「それは……、わたしのことを知ってるから、とか?」

「でもフリアはブライヤーのことを知らないんでしょ?」

「はい……」


 申し訳なさそうにフリアが肩を小さく寄せる。


「うーん……」


 ブライヤーはフリアを知っているような口ぶりだったが、フリアの方は本当に面識がないらしい。


「ですが、あの人は危険です」


 不意にフリアが言ってくる。畏怖いふを抱きながらも、毅然きぜんとした表情で。


「危険?」

「彼は、魔法の力が反転しています」

「反転?」

「誰かを傷つける目的であんな威力の魔法を使うことはできません。それができるということは、彼の魔法の力は反転していることになる。……〈イドの解錠〉で堕ちたオルドヌング王族のように」


 かつてこのヴェルシエル大陸にはオルドヌング族という魔法を使う種族がいた。

 魔法、世のため人のため誰かのためなら、奇跡すら起こす万能の秘術。

 絶対的な魔法という力とオルドヌング王族によって、この大陸は統治されていた。

 だが、オルドヌング王朝は、次期国王となる王子が魔法で殺人を犯したことをきっかけに滅びた。

 オルドヌング族が初めて犯した私情による殺人、その一連の出来事、〈イドの解錠〉。

 話によれば、王子の魔法による殺戮さつりくは三日三晩に渡り、その間に流れた血は、王城を囲んでいた湖を赤く染めたという話だ。

 絶対的な力を持つ者による王政が否定され、海上都市ヴェール・ド・マーレを含めた、エンハンブレ共和国が誕生したきっかけでもある。


「堕ちた魔法の力は強大で危険です。だからこそ、私たち戒魔士かいましはその力を戒めなければならない。二度と同じ過ちを犯さないために」


 魔を戒める者――戒魔士。

 彼らは、他人を傷つける目的で魔法を使わない。

 それは、魔法の力を持つ者の誇りであり、戒めなのだろう。

 実際、王立治安騎士団ダラディエル・ジーヴェルツや貴族といったドミヌス王国にいる戒魔士は、魔法の力を振るう時、厳格な理由と高潔さを求めるのだと聞く。


「だというのに、あの人は……っ」


 耐えかねたように、ぎり、と歯を食いしばるフリア。

 ブライヤーだけは見過ごすわけにはいかない。フリアはそう言っていた。同じ戒魔士として、見過ごせないのだろう。

 正直、魔法の力を宿した法石ほうせきを使って、軽い魔法を使うトーリとしては、そこまで重く考えなきゃいけないことかなあ?という気持ちなのだが、それよりも。


「じゃあ、その危険なブライヤーさんとやらに、どう警戒すればいいのさ」

「え?」


 ぱちくりとフリアが丸い目でまばたき一つ。

 困ったらしい。一転してしどろもどろ。フリアは視線を宙に泳がせた後、半笑いで答えてくる。


「えっと、その……、じゃあ、イルノーフ金貨をあげるよ、と言われてもついていかない、とか……?」

「フリアさん、おれもう十五歳なんですけど!?」


 反射的にトーリは叫んでいた。

 打てば響くような驚きフリアから返ってくる。


「十五ぉ!? その言動で私と同い年とか……いやいや見えないですよ」

「なっ、どこからどう見ても――ってあれ? フリアっておれと同い年?」

「はい。……って、それならトーリさんこそ、わたしのことを何歳だと思ってたんですか?」

「う」


 今度はトーリの方が言いよどむ番だった。


「ち、小さいから、おれより一つか二つぐらい年下かなーって……」

「なっ、確かに背はトーリさんより低いですが、立派な十五歳です! 成人してます!」

「い、いや! 背が低いから年下と思ったんじゃなくて!」

「じゃなくて?」


 問われると同時、うっかりフリアの貧し――もとい、慎ましいバストをちらりと見てしまう。

 フリアがトーリの視線を追うように、自身の胸を上から見下ろした。

 瞬間、はっと気づいたように目を見開き、ばっと隠すように胸を手で押さえる。


「今とても失礼な場所でわたしの年齢を判断しませんでしたか!?」


 怒りとも恥ずかしさともわからない朱色でほおを染め、怒鳴ってくるフリア。

 トーリは両手を前に突き出すと、ぶんぶんと首を横に大きく振った。


「してない! そんなことしてない!」

「ほーん……」

「くーきゅ……」


 じっとりと疑わしげな半眼で、フリアとクィーが見つめてくる。

 どうしてそこでクィーにまで不審の目を向けられなければならないのか。

 フリアは、つーん、とわかりやすくそっぽを向いた。


「わたしはこれから成長するのですから良いのです」

「これから?」


 尋ねれば、どこか自慢げにフリアは背筋を伸ばした。否、伸ばしたのではなく、胸を張ったつもりらしい。胸に手を当てている。


「ええ、わたしのお母様は魅惑的なスタイルでしたから。となれば、もちろん娘であるわたしも将来に期待できるというものなのです」

「そうなの?」

「もちろんです。なんてったって、お母様は、わたしと似たような年で、村の男の子たちの視線をくぎ付けにしていたものだと語ってくれましたから」

「でもフリアと同じ年齢でフリアのお母さんがそうだったんなら、フリア見込みなくない?」

「クィー。トーリさんを燃やしてください」

「くーきゅー」


 かぱっと開いたクィーの口の奥。目を焦がすような白い輝き。

 あっ、と防御態勢を取る暇もなく、トーリは顔面を燃やされた。





「……あのさ、おれに何か言うこと、ない?」

「ぼさぼさヘアーがマシになって良かったですね、トーリさん。クィーのおかげで、かっこよくなりましたよ?」

「おだてようったってそうはいかないからな……」


 ぶつぶつ言いながら、トーリはちりぢりになった前髪を短剣で器用に切り落としていた。

 フリアはクィーと一緒にくすくすと口元を押さえて楽しそうに笑っている。

 出会ったころは、泣きも笑いもしない、最初から感情なんてなかったような無表情だったのに。もともと表情豊かな少女なのだろう。

 こうして彼女が当たり前のように笑ってくれるようになったことに、トーリはなんだかうれしい気持ちになった。

 トーリは丸まった髪の毛を適当に捨てると、バンダナを頭につけた。バンダナには、針葉樹の葉と草木をモチーフにした赤い刺繍ししゅう


「ねえ、トーリさん」

「うん?」

「もし、海上都市に竜がいたとしたら、トーリさんはどうするのですか?」

「一緒に〈天の祭壇〉に来て、おれと契約してって言う」


 決まってるじゃん。言外にそう言ってやれば、なぜかフリアはまぶたを物憂げに伏せた。

 竜と契約なんてできるわけがないと、頭ごなしに否定していた時と雰囲気が異なる。

 応援したいけれど応援できない、そんな複雑で憂鬱ゆううつな感情の狭間で揺れているよう。


「そう……でしたね。そう、ですよね」

「くーきゅ……?」


 肩のクィーをなでるフリアは、どうしてか寂しげだった。

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