第36話 鷹介の物語

『あなたが書き手になって、物語を作ってみましょう』


 小学校の授業でそんな課題が示されたとき、鷹介は当たり障りのない文章を綴りながら、もし自分が本当に物語の書き手を任されたのだとしたら、きっと何の躊躇いもなく、唐突に、そして理不尽に、世界を終わらせてしまうだろうと思った。


 何故なら、世界は心動かすほどの価値に値するものなど何もないし、知れば知るほど、考えれば考えるほど、実体のないものに縋る馬鹿馬鹿しさしかないのだから。 


 人の社会は結局、支配する者の都合のいいように作られていて、それと知られることのないように巧妙なストーリーが後付けされている。そうだと気付いてしまえば、学校で優秀な成績を残そうが、部活に精を出そうが、青春を謳歌しようが、くだらないと思ってしまった。鷹介は挫折という挫折を経験せず、できることが当り前であったからこそ、余計にそのくだらなさが目に付いた。自分の生きる世界が提示する価値の尊さが実感できず、満たされない心は虚しさだけを溜め込んでいって、やがて、がらんどうになった。


 世界なんか別にあってもなくてもいい。彼の心に去来する感情は、その一念が常だったのだ。


 それから、あまり動じなくなった。楽しさも、苦しさも、悲しさも、寂しさも、心の空虚が大きすぎて、響かなくなった。


 中学三年生の夏。鷹介はそれまで家族にも打ち明けなかった胸の内を迂闊にも吐露してしまい、彼の母親は呆れ顔とともに大きな溜息を吐いてこう言った。


『貴方は結局、何もかも気に入らないだけでしょう』


 ホールデン・コールフィールドの妹のような口振りに、鷹介は思わず失笑し、こう返した。


『じゃあ、将来はライ麦畑のキャッチャーになるしかないな』


 母親は馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、鷹介は半ば本気だった。


 明くる日。唐突に、そして無性に、遠くへ行ってみたい衝動に駆られ、鷹介は体調不良と嘘をついて学校を飛び出した。


 目的地はない。見渡す限り一面のライ麦畑なんて存在しないことは分かっている。鷹介はただ、自分の生きる世界の外側へ逃げてみたかった。誰も自分のことを知らず、自分の方でも誰も知らず、くだらない物事や柵から解放されるどこかへ。


 それはきっと、誰もが一度は考えることだったかもしれない。挫折や苦悩の果てに、全てを一度放り出したくなることがあるものだろう。その逃避が、大人への通過儀礼として社会にあらかじめプログラムされた予定調和だとしても、鷹介は挑戦してみたかった。


 日が暮れかかった頃、聞いたこともない路線を乗り継いで、田舎の寂れた無人駅に辿り着いた。


 駅の周りは閑散として、手入れの行き届いていない林と畑に囲まれていた。遠くでヒグラシの物悲しい鳴き声が響き、営業を終了した商店のシャッターのように、藍色の帳が橙色の夕日に落ちかかろうとしていた。


 劣化して薄汚れた青いプラスチックベンチに腰掛けると、先客がいることに遅まきながら気づいた。見たこともない制服の女子高生は、項垂れて、長い髪が表情を隠すように垂れ落ちていた。


 鷹介は何の気なしに言葉をかけた。女子高生は鷹介の存在に気付いていなかったのか大袈裟に驚いていたが、また力なく俯いて、か細い声で答える。どこか遠くに行きたくて、ここまで来たのだ、と。


 自分も同じだ。鷹介は言った。だがそれ以上、口は利かなかった。ここまで来てしまった理由なんて知りたくもないし、知っても理解できない。他人の心の深淵を覗こうものなら、こちらは自分を見失いかねないし、いちいち感情移入しては人生の主役の座から転げ落ちてしまう。


 女子高生も同じ気持ちだったのか、鷹介にまるで関心を示さなかった。お互い同じ目的でここまで来たとしても、言葉も視線も交わらない。それが如実に、致命的なまでに、人と人との隔たりを表していると鷹介は感じて、さらに冷笑的な気分になったものだ。


 そのうちにとっぷりと日が暮れて、女子高生は何も言わずに無人駅をふらふらと立ち去って行った。紆余曲折あったものの、鷹介は人生に絶望することなく、世を捨てることもなく、駅舎で夜を明かして次の日の列車で帰宅した。学校や親から大いに叱られたことは言うまでもない。


 懐かしくも、気恥ずかしい思い出だった。そして結局、世界のくだらなさから逃れることはできないと痛感した一日でもあった。一億人以上の人間が支え、戦後半世紀以上も維持してきた社会の重み、厚みは、遍く国の隅々にまで行き渡っている。逃げる場所などないし、逃げたところで何も変わらなかった。


 それでも気付けたことはある。行く当てのない逃避行に出ようとした時、一度だけ、慣れ親しんだ校舎を振り返った。見えない壁があるかのような疎外感は、自分が勝手に思い込んでいるものでしかなかったが、正直な気持ちでもある。校舎の外壁に照り返す夏の強い日差しが眩しくて、押しつけがましい暑苦しさにもうんざりする気分になって、逃げるように背を向けた。鉄筋コンクリート造りの学び舎は、中学生・皆戸鷹介のいるべき場所かもしれないが、人間・皆戸鷹介が望む居場所ではないと悟ったものだ。


 そしてもう一つ。自分の居場所などどこにもないと知って尚、彼が絶望に打ちひしがれず、再び日常に戻ってこれたのは、幼馴染達の存在が大きかった。


 無人の駅舎の待合室で、硬い木製のベンチに横になりながら、はてライ麦畑のキャッチャーになるにはどうすればいいかと本気で考え始めていた時、鷹介のスマートフォンが間断なくバイブレーションを発した。


 時刻は午後五時過ぎ。竹馬ナインのグループチャット画面には、帰宅したであろう幼馴染達の自分勝手な呟きがどんどん更新されていく。今日の数学の授業が辛かったとか、誰彼が付き合い始めたとか、宿題の内容忘れたとか、駅前に新しくできたカフェの話とか、明日の時間割の教え合いとか、他愛もない会話が現れては画面の外に押し出されていく。


 学校をボイコットした鷹介に対する揶揄も心配もこれまで数多く画面を行き交っていたが、誰も彼も大したことではないと思っているようなメッセージばかり。突拍子もない言動をこれまで繰り返してきた彼の身から出た錆だったが、思春期にやりがちな家出くらいにしか思っていない幼馴染の無頓着さが、逆にありがたかった。


『鷹介、明日は戻ってくるんだろ?』


『馬鹿やってないで、早く帰ってきなさいよね』


『学校中の窓閉めておくから、戻ってきても中には入れないよ?』


 家出した猫か俺は。思わず打ち込んだメッセージに、鷹介は苦笑した。


 ――くだらない日常のくだらないやり取りが、こうも気持ちを落ち着けてくれるなんて。


 思えば、楽しいことに意味なんて求めないし、心地よいことに理由なんて考えない。人生はくだらなくて無駄なことで出来ているのなら、そもそも意味とか価値とかを見出すのはお門違いだ。まして悲嘆することも、厭世的になることも本来、必要ない。


 誰しも生まれた瞬間はきっと嬉しくて、生きていくことは本当は楽しくて、死ぬことを無暗に恐れない。それができないのは、歳をとる毎にだんだん賢くなって、言葉という在りもしない化け物を視る目を養っていった結果、魂の感受性を鈍くしてしまったからだ。


 だから鷹介は、文脈など考えずに、心の欲するままに生きればいいと考えた。例え他人から見れば何をしたいのか分からない支離滅裂な行動であっても、鷹介にとっては揺るぎない一本の筋が通った生き方だった。生まれてきた意味も生き続ける価値も関係なく、吹き抜けることが当たり前である風のように、立ち止まることなく進み続ける。理由などない。そうしたいから、そうするだけである。


 テルマテル救世の使命も、剣臣の責務も、フィリネの容態も、メーネや他の幼馴染達ほどの強い思い入れなど鷹介にはない。ただ竹馬ナインの集まる場所が、彼の居場所でもあり、帰るべき場所であるというだけだ。それ故に行動を共にし、協力し、命を懸けることも厭わない。心がそれを求めているのだから。


「……好きなように書き散らしてみるさ。何せ、俺の物語だからな」


 鷹介は呟いて、踵を返した。相変わらず何を考えているか分からない飄々さだったが、その表情は心なしか晴れやかだった。

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