四章2 『勝手な大人達』
考えをまとめるためにソファにきちんと座った時、僕のボックスがコール音を鳴らし始めた。これは確か、電話が掛かってきたのを知らせる反応だ。
画面を表示させて電話の主を確認する。
「……暢志伯父さんからか」
僕は電話に出ようとし、ふと星夜の様子がおかしいことに気付いた。なぜか肩が震えていて、顔の血の気が引いて真っ白になっている。具合が悪いのかと心配になったが、暢志伯父さんを待たせる訳にもいかず、星夜のことはノゾムに任せて僕は電話に出た。
「もしもし」
『……愛か?』
「これは僕のボックスなんですから、当然そうですよ」
『あ、ああ、そうだよな。すまない……』
すぐに僕は違和感を覚えた。暢志伯父さんの口調はどこかぎこちなく、何か悪さをした子供のような印象を感じた。
「それで伯父さん、今回はどうしたんですか? また近況確認の電話ですか?」
『いや、そうじゃない。今回はだ、大事な話があってだな……』
「なんですか、改まって。もしかして、ようやく彼女ができたんですか?」
『いや、そうじゃない』
暢志伯父さんは軽口にも乗らず、始終重い空気を漂わせていた。賑やかボイスのゲームを消音にしてプレイしているような気分になりつつ、僕は次の言葉を待った。
その間に星夜の容態がどうなったのか横目で確認してみる。
「……大丈夫ですか、星夜さん」
「……………………」
彼女はまだぶるぶると震えていて、ノゾムの気遣いにも返事を返せていなかった。この電話が終わったら、フロントに連絡したほうがいいかもしれない。そんなことを考えていると、ようやく暢志伯父さんは口を開いた。
『あのな、愛。落ち着いて聞いてくれ』
「はい、分かりました」
僕はいたって平静な調子で答えた。
『事業の一つが、とんでもないヘマをやらかした』
「はぁ、そうですか」
僕はいたって平静に答えた。
『その尻拭いに莫大な資金が必要になった』
「へぇ」
僕は平静に相槌を打った。
『……それでだな』
「はいはい」
僕は平静に先を促した、
『愛の所持金から、三兆九千六百二十一億五千七百三十万円を差っ引いてその処理に充てることになった』
僕は平静に……。
「…………………………は?」
暢志伯父さんの言葉がもう一度、頭の中で繰り返される。
……視界がぐるぐると回り、頭の中が急激に縮まっていくような酷い感覚を覚えた。
僕は机に肘をついて、不快感が去るのを待った。しかしそれが納まっていくと、今度は急激な嘔吐勘が襲ってくる。それを無理矢理抑え込んで、どうにか暢志伯父さんに事実確認する。
「……冗談、ですよね?」
『すまないが、……事実だ』
茫然とした思いがまだ抜けきらない。それでもまだ何かの間違いだと決めつけ、彼の言葉を信じ切ってはいなかった。三兆九千六百二十一億五千七百三十万円。それは僕の所持金のほぼ全てだった。一般人には個人財産とは思えない額、そのほとんどを取り上げられる。そんなバカげた話があるなんて、そう簡単に信じられるはずが無いだろう……?
「だってそれは、僕のお金ですよ? 遺言書にも書いてあったじゃないですか、全ての財産は僕に相続するって」
『愛は覚えていないのか? ……いや、覚えていなくて当然か。まだお前は幼かったもんな。実はそれには続きがあるんだ』
「続きって、何ですか?」
『ただし、事業にて資金が必要になった時、その財産から必要額を引き出すことは許可する』
頭の中が空っぽになった。そこに一本のビデオテープが差し込まれる。古く埃被った骨董品。それがすっかり忘れ去った記憶を脳の中で再現した。
「……思い、だした……」
確かに弁護士は親族の前で読み上げていた。もちろん、僕もその場にいた。だが退屈過ぎて、語られる言葉を右から左へと聞き流していたのだ……。
『酷な話だと思うが、受け入れてほしい……。それに目的の額を引き出しても、君の手元には四億円ほど残る。これだけあれば君は少し贅沢な暮らしをしても一生安泰だし、星夜君と共に過ごすこともできるだろう。それにその資金には手を出さないという書類も書こう。そのために一度、君の都合のつく日に会いたいのだが……』
「……なよ」
『ん、なんだ?』
僕は噛み吐くような勢いで、ボックスのマイクフェイスに怒鳴った。
「ふざけんなよ! どうして、どうして僕の財産が暢志伯父さんの勝手で奪われなきゃいけないんだよ? そもそも事業の失敗だって、僕の責任じゃない! 僕がそんなことのために巻き込まれる必要は無いはずだ……!」
しばらく電話の向こうは沈黙していた。
当然だ、僕は正論を言った。彼に言い返せる言葉などあるものか。
だが暢志伯父さんは想像よりも早く言葉を返してきた。
『大人になれ、愛』
その声はヒステリックな叫びでもなければ、誰かを窘めるような厳しさも無かった。だが今まで聞いたことも無いような確かな重さがあり、僕の心の奥底までそれは響いた。
『愛は一月に億にも届くような散財をしているようだな』
「……僕のお金だ、僕がどう使おうと僕の勝手だろ」
『そうだな、お前の勝手だ。たとえ何に使おうと、俺の口出しする事じゃない。それは正論だ』
拍子抜けしてしまった。てっきり彼は僕の口に出すことを端から端まで否定してくると思っていた。しかし実際は否定するどころか、僕の思っている全てを言葉にして繰り返した。
「……だったら、伯父さんが僕から金を取り上げる謂れは無いじゃないですか?」
『理屈の上ではな。だが、現実は違う』
「……現実、ですか」
苦々しい思いで僕はその単語を繰り返した。どんな単語であれ、僕はそんな思いで復唱しただろう。蜜柑でも、ラベンダーでも、サトウキビ畑であっても僕は同じ口調だったろう。どうせどんな言葉であっても、次に来るのは僕を論破するための反論なのだから。
『確かにそれが正真正銘、愛の金なら俺には何も言うことができない。だがその認識はお前の頭の中のものでしかない。現実では三兆余りの金はすでに、お前の手元を離れているんだよ。すでに親権を持つ星夜からは承諾を得ているしな。本当なら、そんな必要も無かったのだが』
「なんだと……!?」
信じられない思いで星夜に目を向けると、彼女は瞬間的に肩をびくりと跳ねさせた。僕は回線が繋がったままであるにもかかわらず、彼女に怒りをぶつけた。
「おい、星夜! どういうことだよ、僕に断りも無く、勝手なことをしやがって……! それに親権がお前にあるってどういうことだ!?」
星夜はただ怯えたように首を振るばかりで、話にならなかった。
『……愛。ことの全てを説明しよう。と言っても、その全てはたった一言で片付いてしまうのだが……』
彼は躊躇しつつ、ゆっくりと話した。
『その、だな。……実は星夜君と僕は、夫婦なんだ。そして愛は、……僕達の子供、ということになっているんだ』
「黙れよ、クソったれ!」
僕は電話を叩き切った。
つまりこういうことだろ!? 二人は結婚していて、僕はいつの間にか彼等に親権を握られていて! おまけに僕個人の所有物だと思っていた遺産は、彼等から借り受けていたもので! 結局、最初から僕に自由なんてものは無かったんだ……!!
「くっそ、くっそ、何だよ!? 最初から最後まで、僕は手の平の上で踊ってたことかよ……!? ざっけんなよ、大人はいつもそうだ!! 子供のことなんて、何一つ考えないで自分勝手なことばかりほざきやがる!! 特に親なんて連中は質が悪い、子供は自分の所有物だって考えてるんじゃねえかってぐらい、適当な扱いをしやがるからな……! 今回だって僕の知らない間に、親が決まってて!? 玩具として自分達の金を渡して、必要になったら取り上げる。何だよそれ、どこの世界のコメディだよ、頭の中の回線が狂ってるんじゃねえか!? はははっ、あっはははははは!!」
もう何もかもがどうでもよくなって、おかしくなって。腹の底から込み上げてくる衝動に任せて、ただただ笑い続けた。
ふいに星夜を支えていたノゾムが立ち上がり、余裕のある足取りで僕に近づいてきた。最初は気にせず笑い続けていたが、彼女の纏う真剣な雰囲気に飲まれ、僕の頬は引きつっていった。
「な、何だよ」
とうとう彼女は僕の前に立ち、眼の中を覗き込むように視線をぶつけてきた。
「愛。私には三つ、誰であってもバカにしたら許せないことがあります。一つは自分の名前。一つは生きること。そして一つは――」
彼女は手の平を斜め上に振り上げ、そして空を裂くような速度で振った。それは僕の頬をぶち抜き、乾いた音が部屋中に響いた。
自分の頬に手を当ててみると火傷の跡のようにヒリヒリと痛み、おまけに口の中で鉄のような不快な味がした。
「自分の両親をバカにすることです」
頭の中が、鉄が熱されたかのように熱くなっていく。顔中も汗をだらだらと流すぐらい熱くなり、胸の中は水がせき止められたかのように苦しくなった。それはすぐに許容量を越えて、手近にあったものを彼女に投げていた。だが投擲したものは軽々と受け止められてしまった。それが余計に腹立たしくて、僕は怒りに任せて喚き散らす。
「っざけんなよ、ノゾムに僕の何が分かるっていうんだよ!? お前の親は親切だよな、見込みの無い娘に甲斐甲斐しく学費を払ってやってんだからさ。だけど僕の親達は違う、最初っから息子のことを息子だとさえ思っちゃいない、向き合う気すら無い! っざけんなよ、っざけんなよ、ちっくしょ……」
再び平手が飛んできた。視界が揺らいで体を支えきれず、ソファに倒れ込んだ。
「女々しいですよ。私だって、自分の親の顔を覚えてないです」
「……何だって?」
気が付いた時には、彼女の瞳はうっすらと潤んでいた。
僕は怒る気力を失い、ただ彼女の悲し気な顔を眺めるしかなかった。
ノゾムは涙を一粒零すと、我に返ったように自分の頬に手を当てた。もしかして彼女も、勢いに任せて怒っていたのかもしれない……。
「ご、ごめんなさい……!」
ノゾムはそう言い残して、部屋を飛び出していった。
「お、おい……!」
呼び止めようとしたが、すぐに伸ばした手は行き場を失ってしまう。
僕とノゾムは同じ苦しみを持っていた。なのに僕は自分が世界で一番不幸だというようなことばかり言って、彼女のことをずっと苦しめてきた。一体、どんな顔をして謝ればいいんだよ……。
僕は自分のバカさ加減に溜息を吐き、組んだ手に額を当てた。
「……あ、あの愛様……」
気遣わし気に声を掛けてくる星夜。だけど今、現在の自分の母親らしい彼女に傍にいられるのは嫌だった。
「悪いけど、出て行ってくれないか。今は一人でいたいんだ」
「は、はい……」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、部屋から出て行った。扉が閉まる寸前まで心配そうにこちらを窺っていたのが、余計に辛かった。
二人が出て行って、僕は一人ぼっちになった。
また逆戻りだ。あの一人で延々と同じことを繰り返し続けたあの日に逆戻りだ。
「……どうして、こんなことになってしまったんだろう」
独り言ちるも、答えてくれる人などいない。
ソファに背を預けて寝転がり、瞼の上に腕を乗せた。これで視界も自室そのものになった。
真っ暗な闇の中に、僕は引き籠った。
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