第六章 衣帯詔

 皇帝はとても楽で、韓孺子は何もしなくても、朝廷の運営と天下の安定に影響を与えない。皇帝もとても煩わしく、彼の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくで、数人から数万人に直接影響を与えることになる。即位はめったにない大事なので、その影響が特に顕著だった。何千何万人もの人々がこの問題に取り組み、その中でも礼部が最も重要な実行者だった。

 礼部尚書れいぶしょうしょは皇帝に即位の際の礼儀作法を直接説明する予定で、東海王の冒険計画はこの人物に使うことだった。

 「大臣は昔から皇帝を支持し、内宮が政を関与することに反対している。礼部尚書は何という名前だっけ……元九鼎げんきゅうていだ。明日君はこっそりと彼に御旨を伝え、朝廷の文臣に助けを訴えさせろ」

 「だめでしょう、このあいだ大臣たちが皇太后の寝宮や太廟を包囲した時も、あまり役に立たなかったじゃないか」

 「それは違う。この前は、大臣たちが自発的に動いたのだから、王命がなければ誰も実際に行動できず、何百人が口を動かすことしかできなかった。君の命令があれば、太后に反対する行動も正当な理由を得られるわけだ」

 「どうやって勅諭ちょくゆを出す、礼部尚書に直接話しかけるのか」

 韓孺子はちょっと心を動かされた。

 「もちろんだめ、君のそばには見張る者がきっといる。密詔みっしょうを作るのだ」

 「密詔?」

 「そうだ、それは——おれは本で読んだことがあるぜ。衣帯詔と言って、君が指示をベルトに書いて、こっそり元九鼎に渡せば、彼はすぐわかるだろう」

 「昔の皇帝がそんなことをしたのか」

 韓孺子は驚き、そのアイデアにもう少し興味を持った。

 「君は字ばかり習って、本は読まないのかよ」

 「お母さんから、いろんなお話を聞いたが」

 東海王は笑いをこらえて鼻を鳴らし、戸口のほうを振り返って、低い声で言った。

 「それは前朝ぜんちょうの話だ。史書には書いてあるよ。本朝の最初の衣帯詔は君が書けばいいさ」

 「何を書くんだ」

 「何もかもおれが教えることはないだろう。君が軟禁されたと書いて、太后を廃して、直ちに救い出せと大臣たちに指示すればいいよ」

 「太后を廃するのか」

 「しっ、静かにしろ、王宮は太后の耳目じもくでいっぱいだよ」

 外でまた足音がして、東海王は自分の蒲団にもどって、ひそひそ声で続けた。

 「今夜、衣帯に書いて、明日、元九鼎に渡せば、せいぜい三日で大臣たちは成就じょうじゅするだろう。そして君は禅譲ぜんじょうしろ。それを悔いるなら崔家に殺させてやる。それに皇帝専用の服に書かないと信用を得られないから、紙はだめだよ」

 韓孺子はまだいろいろと疑問が残っていたが、扉が開いて景耀が入ってくると入口に跪いた。ひざの下に何も敷かれておらず、何も言わず、最後まで二人に付き合う様子だった。

 この日、残された時間の中で、韓孺子は東海王と言葉を交わす機会がなく、たまに視線を交わすだけだったが、東海王がますます確信するようになっていくとともに、韓孺子の自信はますます薄れていった。しかし、韓孺子は母親のもとに戻りたくてたまらず、そのためならどんなリスクでも引き受けるつもりでいた。

 衣帯詔を書くことは容易ではなかった。斎戒期間を除いて、韓孺子の周りにはずっと多くの人がいた。夜寝るときでさえ、同じ部屋に誰かが一緒に寝ていた。時には宦官、時には女官、ちょっとでも音を立てると目覚めて様子をうかがってきた。

 翌日の朝に起きるまでに、韓孺子はとうとう衣帯に字を書く機会を得なかった。

 

 斎戒さいかい十一日目には、韓孺子の毎日の生活に一つ日課が増えた。朝起きると太后を会いに行き、挨拶をすることだった。

 侍者の左吉が自ら迎えに来て、太后にお定まりの拝礼をした後、若い宦官は変わったところを見せた。他の宦官と女官は皇帝との交流を避け、目を合わすことさえ憚られることだったが、左吉は微笑を浮かべ、親切なおじさんやお兄さんのように、そして長者らしいおだやかさと教訓の響きがある口調で話しかけてきた。

 「百善の孝行を第一として、天下の民のために示さなくてはなりませんが、陛下は母君ははぎみのために孝行をなさいますか」

 「もちろん」

 韓孺子は宮の外に離されている実の母親のことをいつも思っていた。

 「陛下のお母上はどなたですか」

 韓孺子は答えなかった。

 左吉はしばらく待ってから微笑した。

 「陛下の母君は復姓ふくせいが上官、現在の皇太后であらせられます。陛下は母后ぼこう、あるいは太后たいこうと呼んでもよろしいでしょう」

 「僕の母親は......太后」

 韓孺子はどうしても「母后」という言葉を口にすることができなかった。

 左吉は無理を言わず続けた。

 「太后は陛下のただひとりの母親であらせられます。神々とご先祖さまをのぞけば、陛下の跪拝きはいを受けられるのは太后だけです。太后の地位が高いからではなく、陛下は天下に孝道を示す必要があるからです」

 「うん」

 韓孺子は答えた。

 「太后以外の誰も、年老いても、身分が高くても陛下の臣民であり、決して陛下と対等に考えてはなりません。上官皇太妃、東海王も例外ではありません」

 「うむ」

 「陛下にはほかに母親がおられるのですか」

 韓孺子は頷いたが、すぐまた首を振って、低い声で答えた。

 「僕には母親が一人しかいない、それが今の皇太后だ」

 韓孺子は心ではやはり宮外の実の母親のことを考えていた。

 左吉は満足した。

 「孝は心から発するもので、表裏一体ひょうりいったいでなければ他人をあざむくことはできても、自分と神々を欺くことはできません」

 韓孺子はやっと皇太后に会えると思ったが、左吉の指示に従って、寝室の戸口の外で稽首けいしゅし、挨拶の言葉を口にしただけだった。

 「太后にご挨拶を参りました。ご機嫌麗しくお過ごしください」

 そう声を掛け終わると、部屋から女官が出てきて、丁寧に適当な返事をして、挨拶の儀式はこれで終わった。

 皇帝を住処に送る途中、左吉は状況を説明した。

 「このところ太后は過労で体調を崩されております。陛下は間もなく正式に即位されることになりますので、この際に陛下のお気持ちに影響を与えたくということでございます」

 左吉が何と言おうと、韓孺子はうんうんと頷いているだけで、何も言うことはないし、嘘をつく気もなかった。

 太后の住まいは慈順宮じじゅんきゅうといって、皇帝のは泰安宮たいあんきゅうになるはずだったが、新帝はまだ大婚が済んでいないということなので、慈順宮に近い小さな建物に住むことになった。韓孺子はこの段取りに文句はないが、寂しい気がして、東海王が懐かしくさえなった。

 東海王はすぐ隣に住んでいるが、二人とも自由に歩くことはできず、公式の場でしか会うことができなかった。


 今日の午前の公式行事は礼部官員による演礼えんれいの講義だった。礼部尚書れいぶしょうしょ》の元九鼎げんきゅうていは六十歳を過ぎた老人で、やや肥満気味だったが、それだけに重々しく、副官二人と太学博士十人を連れてきて、それぞれ即位の儀式の段階を説明し実演した。

 わずか四年足らずの間に、大楚には二人の皇帝が即位し、韓帝は三人目になるので、礼部官員はこの方面の経験は豊富で、新帝の負担をできるだけ軽くする配慮を取った。韓孺子がすべきことは、重い朝服を着て太廟を出発し、二つの宮殿を経て、玉座に正座して、文武百官ぶんぶひゃっかんの朝拝を受けることであった。

 韓孺子は一度の説明で流れを覚えてしまったが、役人たちは心配でこれから数日間、毎日午前中に実演してくれるように頼んだ。できる限り正確さを求め、何歩を歩くまで計算して、それらの細部はすべて深い意味を持つもので、皇帝の将来を予言するものということだった。

 韓孺子は自分の父や兄が即位の時に何かを間違えたのかを聞いてみたかった。

 

 礼部に対抗するためか、宮中からは大臣の倍もの侍従じじゅうが派遣され、新帝は景耀と左吉で左右から守られているので、演礼の老大臣たちは人をへだてて話すことしかできなかった。

 韓孺子はたとえ衣帯詔を書いたとしても、どの役人にも渡すことはできない。東海王は宦官の従者の列について歩き、嫉妬と期待に満ちた感情を抱きながら、時には目で合図を出したが、韓孺子が反応しないのを見て焦った。

 午後になっても二人は静室で斎戒を続け、景耀と左吉で入れ替わりに跪いて付き添ったが、楊奉はやはり現れなかった。

 翌日、左吉の監視がいくらかゆるみ、いったん静室から退出して何をしているのか分からなくなると、東海王はその機会をとらえて、韓孺子に飛びかかり、手を差し伸べてきた。

 「どういうことだ?衣帯詔は?なぜぐずぐずしている」

 「無理だよ」

 「どの部分が無理なんだ?君はバカか?わざと転んだりとかできないのか?」

 「字が書くことができないよ、部屋にはいつも誰かいる」

 「なんてこった」

 東海王は呆れたように自分の頭を二度叩いた。

 「もしかして、君は周りには召使いがいたこともなかったの?君は主人なんだから、命令出せよ。冬は川へ魚をとりに行かせ、夏は蛍狩りに行かせ、夜中には台所へ食べ物を探しに行かせ...…そういうことをやるのが彼らの仕事だよ。まさか召使いも朝まで寝ていなければならないとか思ってないよね?君は——」

 宦官左吉は静かに入ってきて微笑した。

 「東海王、ここに太祖の衣冠が祭られています。その様子はよくありません」

 東海王は気まずそうに蒲団に戻った。

 「朝食を食べていなかったせいか、ちょっと眩暈めまいがしてひざをついてしまったのですが、太祖は本族の子孫にとても優しかったそうですから、許してくれるでしょうか?」

 左吉が戸口にひざまずいたまま問い詰めなかったので、東海王はほっとしたようにおとなしく午後を過ごした。

 難題は韓孺子に残したままだった。もちろん彼には召使いがあったが、それほど多くはなかったし、母の王美人はこれらの召使いたちに対して、これまで一度も変な要求をしたことがなかったので、東海王にとってたやすいことであっても、韓孺子にはちょっと困ってしまった。

 韓孺子は長いこと考えていたが、やがて夕餉ゆうげをすませてから、あることを思いついた。

 彼は字の練習をすると言い出したので、部屋にいた二人の宦官は言うことを聞いて、すぐに紙を敷いて墨をすった。韓孺子は字があまりきれいではなく、一枚一枚書いては捨て、とくに気に入らないものはズタズタに引き裂いた。二人の宦官はまた紙の一切れも落とさずに拾い上げた。

 部屋にはそれほど紙が置いてなく、紙がなくなりそうになると、一人が紙を取りに出ていったが、韓孺子は何気ないふりをして、もう一人の宦官に命令を出した。

 「お茶を持ってきてくれ」

 「陛下はお休みになった方がよろしいのでは......」

 宦官は躊躇した。

 「水の一杯でもいいから、喉が渇いたよ」

 韓孺子はできるだけ東海王の口調を真似ようとした。

 もう一人の男も身をかがめて退出すると、韓孺子は紙にいくつ文字を書き、その部分を素早くちぎって小さく折り畳み、左手のひらに握りしめた。

 部屋にある衣類の一枚一枚を専属の人間が管理しているので、「衣帯詔」など書いて使うわけにはいかなかった。

 事は思ったよりもうまくいった。二人の宦官はすぐに戻ってきたが、何も気づかず、韓孺子は水を飲んでからベッドに入ったが、一晩ほとんど目を閉じなかった。


 翌朝の着替えとその後の入浴が一番面倒だった。彼は裸になって一組の宦官と女官の世話を受けなければならなかった。紙包みは小さかったが、隠すことが難しかった。手のひら、襟、帯、袖口……韓孺子はこの小さな秘密を転々と移って、なんとか発見されずに済んだ。

 それから礼部尚書元九鼎に渡すことだが、これがさらに難しくて、韓孺子と大臣との間には常に少なくとも二人の宦官が隔てられていて、接触する機会がなかった。

 東海王はまだ侍従の列についていたが、目のやりとりで衣帯詔が書かれたことを察して、韓孺子よりも焦っていた。午前中の公演が終ろうとした時、東海王が敷居につまずいて前に飛び出し、隊列をバラバラにさせた。

 韓孺子はついに礼部尚書に倒れる機会を得た。

 東海王は立ち上がってひたすら謝罪したが、儀式を行う役人や多くの宦官たちにとっては小さな事故ではなかった。しかし、誰も東海王を責めることはできず、一団は跪いて謝罪し、正式に即位する時に同じ轍を踏まないように解決策を話し合った。


 午後の斎戒の時間になると、東海王は機会を伺い、待ちかねたように言った。

 「うまくいったのか」

 韓孺子は頷き、彼はすでに紙包みを礼部尚書の帯にしまいこんでいたので、元九鼎はきっとそれに気づいていたに違いないが、何もなかったように装う様子は吉兆のようだった。

 「大事はすんだ。待っていろ。おれたちはもうすぐ太后の手から逃れられるぞ」

 東海王は自信たっぷりに予言した。

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