第四章 太廟での取引
殿門が開け放たれていた。太廟の扉を開けるのは、年に二、三回程度、非常に稀なことだ。しかし、今は三十人余りの宦官と女官が二列に並び、入口を立ちふさがっていたその様子は、大楚先祖に捧げられる牛羊のようだった。五名の太廟礼官は地べたに這いつくばり、口の中で何やらぶつぶつ言いながら、鬼神に許しを乞うていた。彼らは侵入者たちを止める胆力も力もなかった。
二人の皇子は並んで小さな丸椅子に座り、顔に血の気が失っていた。上官皇太妃は彼らの前に立ち、若い女官の肩に手をかけて次々と伝令の報告を聞いていた。
「楚陽門には三百人以上の大臣が集まって騒いでいます。門の外にも大勢の民が集まっています」
「大臣たちは内宮に侵入し、太后の寝宮に向かっています」
「どこから情報を得たのか、大臣の一団は直接この太廟に向かってきています」
情報は次から次へと続き、皇宮は戦場と化したのように、敵があちこちから迫ってきているようだった。上官皇太妃は表情を動かさず、どんな情報に対しても簡単に頷き、答えなければならない時も、ただ一言だけだった。
「皇帝のご遺骨がまだ冷たくなっていないこと、太后の悲しみを大臣たちはもっと思いやるべき。門戸を固く閉ざし、皆さんは門番を厳守して下さい。太廟は先祖のいる大事な場所、彼らにここを突進する度胸がありません」
こうした情報に対して、東海王は明らかに別の意見を持ち、聞き終わる度に韓孺子を足で軽く蹴って得意そうにしていたが、うかつに口をきくことはできなかった。木箱持ちの女官が彼らのすぐ後ろに立ち、驚くほど力が強く、東海王は二発殴られてからずっとおとなしくなっていた。
夜が明けるころには、事態はさらに切迫していた。太后の寝宮は老臣たちに囲まれ、庭にひざまずいて声をあげて泣き、数年間で崩御した三人の皇帝を
東海王は
太廟の中では上官皇太妃だけが完全に落ち着きを保ち、他の者に門を固め、外の
「外の大臣は何をしています。先祖を祭っているのでしょうか?」
宦官の左吉は、皇太妃のそばにいながら彼女の落ち着きを分かち合えず、きれいな顔は二人の皇子よりも青ざめていた。
「これは
皇太妃は静かに言って、しばらく耳をすました。
「関東の大水、北郡の地震、長楽宮の火災……彼らは天下の陰陽不調、災害頻発の責任がすべて皇太后と私にあると思っているでしょう」
「ばかばかしい」
左吉は声を震わせて憤慨した。
「皇太后……他の計画がございませんか?」
皇太子妃が首を横に振った。
「景耀と楊奉はどうしたでしょう。二人は大臣たちを退けると誓いをたてたのに、どうして今になっても連絡がないのでしょうか?」
皇太妃は今回首さえ振らなかった。
殿外の読誦の声が高まるにつれて、東海王はいくらか大胆になって、韓孺子にささやいた。
「簡単なことだ。おれを引き渡すか、あるいは太廟におれを帝として立てれば、すべての問題は解決するよ」
左吉は入口に走り寄り、守衛の後ろに隠れてしばらく外を眺めていたが、やがて皇太妃の前に駆け戻った。
「とにかくこのままでは仕方がありません。外の大臣の中には私の知り合いが何人かいますので、交渉させていただければ、彼らをとりあえず太廟から退かせることができるかもしれません」
「お前が?」皇太子妃は少し驚いたようだった。
「それほどの知り合いではありません」
左吉はあわてて言い直した。
「名前を呼び合えるだけです。太廟を囲むというのは不体裁の極まりないこと。これをはっきり伝えさえできれば、彼らは退却するはずです。まったく、皇城の
「衛士は皇帝の命令しか受け付けない存在。今は玉座が空いたまま、彼らは誰に従うべきか分からないのも分かるわ」
皇太妃は特に意外な様子もなく、しばらく考えてから言った。
「行ってちょうだい。本当にうまくいくかもしれない」
左吉はぺこりと頭を下げると、
「左吉は保身のため逃げる気だ」
皇太妃は東海王を見やり、かすかに笑みを浮かべたが、何も言わずに振り返った。
相手されず、東海王は仕方がなく韓孺子に
「皇帝になりたいなら他の人よりも多く頭を使って、一を聞いて十を知らなければならないだぜ」
韓孺子は頷き、心では事が早く片付き、自分が宮廷を離れて母のもとへ帰れることだけを願っていた。正直なところ、今回の皇宮での生活は三年前に短く住んだひと月よりも印象が悪かった。
東海王の推測が当たったのか、左吉はなかなか帰ってこず、外の読誦の声も少しも弱まらなかった。
日が高くなるにつれて、本堂の中はそれほど陰気ではなくなった。東海王は突然立ち上がって叫んだ。
「いったい何を待っているのか。おれは玉座に就いた暁には皆を
木箱持ちの女官は何も言わず、ヒヨコを持ち上げるように、片手で東海王を丸椅子に引き戻した。
「放してくれ、おれはすぐに皇帝になる......痛い!」
東海王はあえぐこともできず、玉座についてから最初に殺すべき敵として女官を睨みつけた。
皇太妃は二人の皇子に向き直って宥めた。
「ごめんなさい、こんなことを体験させてしまって。帝王も人間ですので、お家騒動が起こるときは普通の家とあまり変わらないのですが、関わっている人が多くなります。玉座に就くのはお二人のどなたであろうと、それを正し、皇室の尊厳を回復するチャンスがあります」
「どなたであろうとだって⁉」
東海王は疑惑と怒りを抑えることができなかった。
「皇帝に相応しいのは私だけだ。皇太妃、あなたもちゃんと分かるだろう?崔家は決して孺子が皇帝になることを許さないだろうし、その名も顔もどれをとっても大楚皇帝に相応しくないんだよ?お前ら上官家の者ははいったい何を考えている、天下を大乱させるつもりか?」
韓孺子は座ったまま動かず、皇太妃は彼に笑いかけてから話をしようとした時に、門を守っていた一人が大声で叫んだ。
「攻めてきたぞ!」
この時になって、皇太妃はようやく顔色を変えた。彼女が太廟を守ることができたのは大勢の人ではなく、大臣たちの韓孺子一族に対する畏敬の念によるもので、タブーが破られれば、彼女も皇太后も崩壊するだろう。
皇子を見守っていた女官は木箱を開けて一本の短剣を取り出し、箱を床に置き、大股で皇太妃の前に出た。東海王は口を噤み、大臣たちが東青門の轍を踏まないよう、しっかりしてくれることを願った。
門を守る者たちの陣形が相手の一回の突進ですぐに崩れ、数人が大股で敷居を越えた。女官は両足を少し曲げて自分一人の力で敵を防ごうとした。
「剣を置け。私です」
楊奉は入り口の前に立ち、陽光を背に、五、六人の従者を従えている姿は、韓孺子に与えた二番目の印象であり、最初の冷たさとは正反対のものだった。
女官は皇太妃を振り返り、短剣をおさめて元の位置に戻った。
楊奉は皇太妃の前に進み出ると、冷静な口調で言った。
「話がまとまりました。奏文はすぐに用意できます。新帝が即位すれば、すぐに
「何の話がまとまったのですか?」
東海王は大きな声を出したが、返事はなかった。
皇太妃は大きく息をついた。
「油断はできない。南軍大司馬から
「進行中です。景公が見張っています」
東海王はさらに不思議に思った。
「南軍大司馬の崔宏は私の実の叔父ですよ。なぜ印綬を渡すのですか?」
やはり返事がなかったが、彼は自分ではっと悟ったように自分で納得した。
「なるほど、上官家が南軍大司馬になりたいということね。叔父は承知したが、そのかわり、私は皇帝になれるということですね!」
相変わらず誰からも返事がなく、韓孺子は顔を上げて楊奉を見ていた。母は誰も信じるなと言ったが、彼はこの宦官に自信を持っていた。何かが自分の上に降りかかってくる、と彼は思ったが、本当にそれを望んでいるのかどうかは分からなかった。
また本堂に駆け込んで来た者がいた。今度は汗みどろになった左吉だった。
「大臣たちが妥協して、秩序正しく退出しています」
「左公にご苦労をかけた」
皇太妃の労いの言葉を聞いて、左吉は満面に笑みを浮かべ、
東海王はしきりに自分が皇帝になるのだと呟きながら女官に威嚇するような視線を送ったが、女官は少しも怖がらずに、視線を走らせて警戒を続けていた。
それから半刻ほどして、東海王が居ても立ってもいられないところへやっと景耀がやってきて、殿内に入るなり皇太妃と二人の皇子に向かって跪いた。
「皇太后から
東海王は大笑いしながら地面に飛び降り、
「かしこまりました」
皇太妃は答えてから数歩進み、向きを変えて皇子たちに跪き、短剣持ちの女官も跪き、剣を地面に置いた。
「ちょっと地味すぎないか?今後は正式な式典があるよね?」
東海王は聞いた。
「松皇子にはご先祖を
楊奉は言った。
「どこの松皇子だ?おれは東海王の
東海王は聞きながら韓孺子を振りかえた途端、突然分かった。
「そんなはずがない。母上や叔父たちが承知するはずがない…...景耀、お前はおれがきっと皇帝になれると言ったから、おれはお前と一緒に皇宮に入ったのだよ」
景耀は地面に這いつくばって、冷ややかに言った。
「老奴はそんなことを言った覚えがありません」
女官は音もなくやってきて、東海王の腕をつかんで跪かせると、本堂では韓孺子だけが丸椅子に座ったまま呆然としていた。
しばらく待ってから、楊奉は膝で前を進めて丸椅子の前に進み出た。
「陛下は先に祖先を祭ってから即位なさってください」
「お母さんを皇宮に入れたい」
韓孺子がようやく口を開いた。
楊奉は笑みを浮かべ、さらに低い声で言った。
「今はまだその時ではありません」
「じゃあ、僕に何ができるの?」
「陛下は何をなさりたいのですか」
楊奉は聞いた。
韓孺子は左右を見まわし、土下座を強要されて不服そうにもがいている東海王を指さした。
「彼を宮中に残してほしい」
「陛下のお望むままに」
「おれは残らない!おれは家に帰る! 」
東海王はすべての人を憎むように泣き叫んだ。
韓孺子は椅子に座ったまま動かなかった。楊奉は皇太妃を振り返ると、皇太妃は頷き、先に立って入口のほうへ退いた。東海王を含め、他の人たちも全部退いてから、椅子の前に跪いたまま楊奉は十三歳の皇子を見上げた。
「陛下が何かおっしゃりたいことがあったら、老奴におっしゃってください」
「僕は殺されるのか」
楊奉はあっけにとられて、分からないふりをした。
「人は皆いずれ死ぬことになります」
「『殺されて死ぬ』という意味」
楊奉はこれ以上とぼけることができず、困ったように聞いた。
「陛下……どうしてそんなことをお考えになるのですか」
韓孺子は入り口の東海王を見た。
「誰もが自分の強みを持っている。僕の強みは殺されても誰も気にしないということよね?」
楊奉は驚いた。誰もが皇子を見間違えた。ようやく安定を取り戻した
「皇帝は殺されない……本当の皇帝なら」
楊奉は答えた。
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