ポリフォニーはひび割れて

美木 いち佳

序曲『あなたは変わらざるわたしの喜び』

 主よ、人の望みの喜びよ。

 最後にと選んだバッハが、まだわたしの奥で蠢いています。生きた夢と死せる未来を乗せて、ゆったりと厚みを増して呉れます。

 鈍くなっていくのは血液の流れ、代わりに此処を駆け巡る讚美の詩。

 高く鳴っているのは旋律の群れ、わたしの中を満たし行く耽美な死。

「聞こえますか?」

 もはや耳を通す必要は無いのです。外の音という音は熱感と痺れを伴うノイズに防がれ、朗らかなこの敬愛を決して邪魔する事はありません。

「氷上さん!氷上愛紗ひかみあいささん!聞こえますか!?」

 既に棄てたものに、関心もありません。社会という、がんじがらめの世界における識別記号など、わたしはとうに手放しました。

「バイタルは…」

 だからどうぞ、わたしを送り出して。

「こればかりは…俺たちもとんと無力だな」

 彼はわたしの喜びで、慰めで、

「この子はまるで生を見つめていない」

 この心は、瞳に映る世界は、彼を求め続けるのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る