第4話 少女の今

MM地区支部 医務室


「じーーー」

少女は椅子の上に鎮座するカケルと鼻と鼻で触れてしまいそうなくらいの距離で見つめ合う。

ただ鼻がつくよりも先に、イリスの手が前に出てしまうのではないのかというくらいにそわそわとしている。


先手を取ったのはカケル。

椅子から軽快に飛び降り、イリスに静かに近寄る。イリスも触りたい気持ちと引っ掻かれるのではないかという恐れが合わさり、更にその手は揺れに揺れ動いていた。

そして彼女のスネあたりに来たところでその肉球で彼女に触れ、撫でるように動かした。

「ねえマリアさん!!猫ちゃんに撫でられちゃった!」

はしゃぐイリスの頭を撫でるマリア。

穏やかなその顔は、年若いながらも母親のようであった。


「わ、私も撫でていいですか……!!」

「フン!」

撫でろ、と言わんばかりのポーズ。真奈も恐る恐る手を伸ばし、その柔らかな毛に触れた。

そしてそのまま吸われるように彼女もイリスと共に笑みを浮かべながらカケルを撫でて撫でて撫でくりまわしていた。


その傍、彼らは彼らで準備を進める。

「じゃあ藪先生、私はこの辺の器具とか片しておきますね」

「ああ、助かるよ恵那ちゃん。全くできた弟子を持ったものじゃ」

MM地区支部のメディックでありエージェントの"葛城恵那"が機材を後ろで片す中、彼は資料を手に椅子に腰掛けた。

「それで、メディカルチェックの結果は」

「イリスちゃんの体調についてだが……"今は"安定しておる」

藪はマリアの問いに決して偽ることなくハッキリと答える。

「つまり、今後どうなるかは分からない、と」

「あの子の体には遺産という大きな爆弾が残ったままじゃ。精神や肉体に大きな負荷がかかればまた暴走する可能性は大いにある。ただ逆に何もなければあの子はすくすくと育っていけるじゃろうな」

「じゃあ、あいつに平穏な日常を送らせてやれば大丈夫なのか」

「それは我々大人の責任だな」

「守るのだ。いつか我々を必要としなくなるその日まで」

藪の言葉は彼らから希望を奪うことはなく、むしろ彼らにその使命を再度思い起こさせた。

彼もそれを見る事で少し安心したように言葉を続けた。

「まあだからと言って箱入り娘の様に外に出してやらんのも可愛そうじゃからの。今日は思いっきりみんなで遊ぶのが一番、と医師として言わせてもらおう」

穏やかな口調で資料を閉じた医師。

ただやはり皆もまだその事実を飲み込み切れてはいなかった。


「みんな怖い顔してどうしたの……?」

心配そうに皆の顔を覗き込むイリス。その言葉で初めて彼らも自分たちの表情の強張りを認識した。

「気にする事はない。特別な話でもないからな」

「最近部屋にこもりっぱなしでね。ちゃんと外に出ないと注射だって言われたのさ。だから今日はどっかに行こう。注射は嫌だからな」

「……!!はい!!」

不安げだった表情も吹き飛ばして晴れやかな笑顔を浮かべるイリス。

「私、ちゅーかがい?に行ってみたいです!!」

「ナワバリだぜ。案内してやんよ」

「中華街はいいところだ。美味しいものもいっぱいあるからな。肉まんもあるぞ」

「ほんと!?」

少女の中で思い起こされる富士山を見たあの日。サービスエリアで食べた肉まんを思い出しただけで口元からはよだれが滴り、すぐに気付いてその袖で拭っていた。


「あ、あの……私達も行っていいですか……?」

そろりと手を上げる真奈。

「ああ、もちろん。せっかく来てくれたなら尚更さ」

「勿論すよ。黒鉄パイセンの妹さんですしおすし」

「その子らは優秀じゃ。もしイリスちゃんに何かあっても大体は対処できるはずじゃから連れて行くといい」

「やった!!凛ちゃんにも声かけてきますね!!」

喜びを露わにする真奈。ドタバタと駆けながら医務室を出て行く様子はイリスとどちらの方が歳上か分からないほどに無邪気だった。


そしてドアが開いた瞬間、彼ら、MM地区支部のチルドレン達の姿が見えた。

「わーーー!!イリスちゃーーん!!」

「聖ちゃん、ストップ、ストップだよ」

少女と目が合うや否や猛スピードで頭を撫で始めようとした聖を羽交い締めにする千翼。

その後ろに続いて甘宮とアイシェが入ってくる。

「支部長、光君が見つけた人って……」

「ああ、ヴァシリオスの部下だ」

「とは言っても目下の危険はないだろう。それよりも————」

「マスターキュレーター、ですね?」

マリアの言葉を代弁する様にアイシェがその名を口にした。

「流石、情報が早いな」

「先ほど、彼のものと思われるレネゲイド反応が日本にて確認されたという情報が入りました」


資料を手渡すアイシェ。

写真などの人物を特定する資料はなく。ただ、彼が持ち込んだと思われる遺産のデータはそこに記されていた。

その中で一つ、マリアの目を引くものがあった。

「"ディオニューシアの極光"……だと……?」

ギリシャにおける祭りの名を冠する遺産。

「確か、オーロラの発生とともに電子ネットワークを破壊する……」

「ああ、確かにギリシャから失われたとは聞いていたが……」

それはエレウシスの秘儀に連なる存在。

ありとあらゆる通信手段を広域で無効化する遺産。ありとあらゆる生活手段を電子機器に頼っている現代でそれはあまりにも強力な兵器にもなりうる。

マリアとアイシェもエレウシスの秘儀の調査の時点で名前は知っていた。

ただエレウシスの秘儀に並ぶ脅威を持った遺産がこの国に持ち込まれた事実。それも、イリスを狙う存在の手にあるというのだ。


「アイシェ、マルコ班に連絡を。直ちにMM地区に集結させるんだ。私は————」

「隊長はイリスちゃんと中華街を楽しんできてください」

アイシェが遮る。マリアが反論するよりも早く、矢継ぎ早に言葉を続けた。

「マルコ班が到着するのは早くても夕方になります。それに、万が一それまでにマスターキュレーターの襲撃を受けた時に対応できるのは隊長と皆さんだけです。ですから今日一日は私に任せて、隊長はイリスちゃんと一緒にいてあげてください」

半ば強引に押し切られた様な気もしたが、彼女がこうも主張するのなら聞かねばならぬだろうと思えた。

「……分かった。アイシェ、お前に任せるとしよう」

「ええ、マルコの副官として全力で努めます」

笑顔の敬礼で答えたアイシェ。

マリアは改めて彼女が副官なことを良かったと思い、小さく笑みを浮かべていた。


「じゃあ、私たちは私たちでマスターキュレーターやナタリアさんについて調査しましょう!良いですよね、支部長?」

「ああ、任せたよ葛城さん。私も頼れる部下を持てて安心だ」

「まあうちの支部、エージェントは私しか居ませんから!」

朗らかな声で皆を取りまとめる葛城。

「じゃあ指揮の方お願いしますね、葛城さん」

「えーーー、私もイリスちゃんと行きたかった……」

千翼はいつもの通り生真面目に、聖はわかりやすくガッカリしていた。

「垂眼くんはイリスちゃんと楽しんできてね!!」

「おうよ!そっちは任せたぜ!」

そして甘宮と垂眼も拳を合わせ互いの信頼を確かなものにしていた。


「へっ、さっさと行こうぜ。ノロノロしてたら日が暮れちまう」

「ああ、そうだな。今日はみんなで楽しむとしよう」

「うん!!いこう、タレメ!!みんな!!」

少女は古太刀を背負い、小さなポシェットを肩から下げて軽快に歩み出す。

「うおっ!?早いよイリスさん!?!?」

「まったく、はしゃぐと怪我をすると言っているのに……」


少女は背中の刀など無いかのように軽やかに歩き続ける。

決してまだしがらみは消えねど、彼らの目の前には確かにあの日守り通したイリスの"今"が、幸せが存在していた。


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