第29話 笑顔を守りますっ!

 あれから二年の月日が流れ、今年もあの夏祭りが近いてきた。

 学が参加した例のダンスは、新任隊員から選ばれた人物だけの特権だと知ったのは、彩花のお腹が膨らみ始めた冬の頃だった。


 そう、あの花火が打ち上げられた夜に幸田家でも花火が打ち上がったのだ。さて、何発で打ち切りになったかは伏せておくとしよう。


 赤ちゃんが、やってきた。



◇◇◇



 パパパッ パッパパ パッパパッパ パパパー!!!!!!


「ひっ、デカっ! やべぇ、時計どこだ!」


 パパパッ パッパパ パッパパッパ パパパー!!!!!


「うわぁぁ、まずいって。窓、開いてんじゃん! ちょ……彩花っ、彩花っ! あれ? どこに行った。だいすけー!」


 季節は初夏に移りはしたものの、まだクーラーはいらない。少しだけ開けた窓から、心地よい風が入ってくるから。

 が、しかし。何時なのかわからないが、突然鳴り響いたのは起床の方ではなく、呼集ラッパの方だったのだ。だからこそ学は焦っていた。官舎の鉄筋コンクリートに反響して、ラッパ音が筒抜けだ。よりによって呼集ラッパとは、体に染み付いた隊員たちが飛び起きてしまう。しかも、目も合わせられないほど上の階級の、幹部自衛官も住んでいるというのに!


大輔だいすけ! いい子だから出ておいで。パパのところに出ておいで! だいすけぇー!」


 彩花を起こすのは諦めた。一日中、元気のいい息子を相手にしていては、体力だけでなく精神面もくたくたになる。しかも昨夜は夜中にクズっていたから、起きられないのも無理はない。

 学は寝室から飛び出して、リビングをくまなく見渡した。一歳になったばかりの息子は、まだ歩くよりも這う方が得意だ。だから学も姿勢を床におとす。床に体を伏せて顔だけ上げる、第四匍匐前進だ!


(どこにいる……俺から逃げられると思うなよ? なんだこのティッシュ! 新たな罠かよ。はっ、いた!)


「発見!」


 スリスリスリスリ〜と音もなく目標に接近。本物の匍匐前進、しかもフローリングということでスピードは加速した。すばやく息子を抱き上げ、放置された目覚まし時計を止めた。


「確保っ……音、停止! はぁぁ……だいすけぇ、おまえ朝が早いな。昨夜、ママを困らせていただろう? もう少し寝てろよ」

「うーああーっ!」

「ご機嫌でなにより」


 改めて時刻を確認すると、まだ起きるには早すぎた。息子を抱いたまま学はベランダに出る。遠くの空がやっと、白み始めたばかりだった。


「まだまだ皆さんお休みなんだ。大輔ももう一回寝ような」

「いーあぁぁっ!」


 日本語らしい言葉はまだ出てこないのに、イヤだと否定する言葉だけは何よりも先に覚えた。ママやパパよりも、この小さな子にはイヤだは重要な単語である。


「しーっ……静かに。ほら、どこの家もねんねしてる。お空もまだ暗いだろ?」

「あー! んー!」


 大輔が興奮して指差すのはA棟のベランダ。この騒ぎで起こしてしまったのか、パラパラと灯りがついていた。


(まずっ……)


 学は思わず身をかがめた。今さら隠れたところで、どうにかなるわけではない。みんな幸田家から漏れてくる音だと知っているのだから。


「うあーっ!」

「わかった、わかった。んじゃ、散歩でも行くか……家にいるよりは、マシ……かな」


 散歩という言葉は知っているぞ! そんなふうに息子の大輔は体を上下に揺らして喜んだ。学は再び寝室に戻って、パジャマからジャージに着替えた。大輔も着替えると手をバンザイしている。


「はいはい。その前に、オムツ換えてからだぞっ。こらっーっ……新しいの履いてないじゃないか」


 オムツを外したら、気持ちよくってあんなもの履いてられない。意気揚々と逃げ出した息子の背中がそう語っていた。それでもノーオムツで外に出るわけにはいかない。学は素早く大輔のお尻を拭いて、パンツオムツを履かせた。


「こんなこと、日に何回ヤッてるんだろ。そりゃ、疲れるわ……」


 自分のいない昼間は、彩花ひとりで元気すぎるチビを相手している。しかも、洗濯や掃除、ご飯まで作っているんだから頭が上がらない。せめて時間まで寝かせてやろう。そう思って息子を外に連れ出した。


「あー、あゆくぅぅ」

「え? あ、歩きたいのか」


 イヤだの次に覚えた言葉は「あるく」だ。男の子は身体能力が高いのか、お座りもつかまり立ちも割と早くできた。一歳の誕生日を迎えた頃には手を上げて、よちよちふらふら歩き始めたのだ。


「公園についたらな」

「いーあぁぁー!!」

「しーっ……」


 エントラストで響く我が子の声の甲高さに、学は慌てて肩に担いで走り出した。自衛官の学にとって、たかが9キロちょっとの重さなんてなんのその。野営で担ぐ20キロの荷物を思えば錘にもならない。


「キャーッ、キャハハ。うーあー!」


 頭の上で怖がるどころか大喜びの大輔は、顎までヨダレを垂らしていた。


「ついたぞ。よし、好きなだけ歩けー」


 ひょいと、公園の地面に下ろすと、大輔はよっちよっちと揺らながら行進を始めた。バランスを取るためなのか、歩く時はバンザイスタイルだ。


「そのうちすぐに走り出すんだろうなぁ。こりゃ、訓練を怠ってられないな」


 朝日が差し始めると、息子の体が金色に包まれた。なかなか神秘的だと学はスマートフォンを取り出した。家で待つ彩花に見せてやりたい。


「あ……なるほど、そういうことか」


 学は何枚かその愛らしい姿をスマートフォンに収めて、ポケットにしまう。今度は手を目の前に出して、指で四角いフレームを作った。そこから見える限られた空間に、息子の背中と木々の影が揺らめくのが見えた。同じ目に見えた世界なのに、こうして範囲を制限されると別世界に思える。


「彩花はこんなふうに世界を見ていたんだな……なんて広い世界なんだ」


 制限されたはずのフレームの向こう側は、なぜか自由で無限の可能性が見えた。


「おーい、大輔!」


 大輔は、呼ばれてくるんと振り向いた。相変わらずのバンザイスタイルで歩んでくる。口を開けて満面の笑みを浮かべてやってくる。


「うわぁ、すげぇヨダレ。興奮しすぎだろう」


 学は自分の首に掛けていたタオルで拭いてやる。


「ママのカメラ、そろそろ出してやらないとな。ずーっと、ケースに入ったままなんだ。おまえに手いっぱいでそっちのけさ。なぁに、すぐに思い出すよ。大輔もかっこよく撮ってもらえるぞ」

「あーうー」

「よーし、ママの所に帰ろう」


 カメラなんて興味がなかった。それが、一人の女性と付き合うようになって、カメラが視界にあることが当たり前になった。いつもファインダーから覗かれる側だったから気にもしなかった。


 そこから見える世界が、こんなに広いってことを。



「ただいま」

「あーあっ」


 まだ、寝ているのかもしれない。静かに靴を脱いでリビングに続くドアを開けると、部屋の灯りは煌々としていた。


「おかえりっ。汗かいたでしょう。シャワー浴びてきて。その間にご飯の準備するから」


 すっかり妻、そしてママの顔になった彩花に、学は目を細めた。


(子供の存在って、すごいよな。彩花もすっかり頼りがいのあるお母さんだ)


「うん、大輔と浴びてくるよ……て、なにこれ!!」

「うん? ああ、ふふふ。起きたら一人でつまらなかったから久しぶりに見てたの」


ーー


『通信中隊、幸田学ニ等陸尉! 国民のっ、笑顔を守ります!』

『顎引いて! そう』

『飛びまーす!』

 カシャン


『通信中隊、幸田学ニ等陸尉! 国民のっ、笑顔を守ります!』

『顎引いて! そう』

『飛びまーす!』

 カシャン


ーー


「ちょ! リピートやめろってぇ」

「だって、大好きなシーンなんだもん」

「あああっ、前言撤回! まったく、ぜんぜん変わってないんだよ彩花は」

「なんのこと?」

「とにかく止めるぞ」


 学がリモコンを取ろうとするとどこにもない。おや? と、思いながら周囲を探す。すると、なぜか音量がどんどん大きくなる!


「おいっ、どうなってる! あー! 大輔っ、けつ! ケツのしたー」


 ドドドドドーッと、一気にボリュームは上がって、部屋中に、いや、官舎中に学の決意表明が響き渡った。


『通信中隊、幸田学ニ等陸尉! 国民のっ、笑顔を守ります!』


 お腹を抱えて笑う彩花を見て、大輔もケラケラと笑う。間違いなく、そこに笑顔があった。


 幸田学二等陸尉、通信部隊の小隊長。

 笑顔を守る真面目で誠実な自衛官。




「学さんっ、大好きーー」


 ちゅ……♡



【おしまい】

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