第19話 嫉妬の無駄遣い
鋭い声に彩花は驚いて尻もちをついた。
(もしかして、わたし! いけない事をしたの!?)
フェンス越しに彩花を見ているのは間違いなく陸上自衛隊員だ。彩花は恐る恐る下からそっと視線を上に移していった。
黒いブーツ、陸自柄の迷彩服、迷彩グローブをはめた男の隊員だ。その隊員がすっと距離を詰めるように屈んだ。肩には無線機が付いている。
その無線機から声がした。
『搬出完了、どうぞ』
「了解」
『小隊長、確認は終わったか。どうぞ』
「現場で確認中だ。どうぞ」
(あーん、私……通報される!!)
『ふたまるひとはち、離脱。それまでに戻れるか。どうぞ』
目の前の隊員は腕時計を確認して、また返事をした。
「問題ない」
『了解っ』
(どうしよう。捕まっちゃう! 学ぶさん、ごめんなさーい!!)
無線を切った隊員が彩花をじっと見ている。彩花もその視線を痛いほどに感じ始めていた。もういい加減に顔を上げて、しっかりと謝らなければ……。そう思った。
「あのっ! ごめんなさい! 勝手に侵入して、勝手に写真を撮りました! ちゃんと消しますからっ……許してくださいっ」
彩花は正座をして、一瞬だけその男性隊員を見て素早く頭を下げた。
(ヘルメット被ってた……戦闘態勢の人じゃん。やだ……怖い)
「はぁ……。困ったなぁ」
男性隊員は呆れたように長いため息をついた。彩花はもう体を縮めてその隊員を見ることができない。
「3センチ、不法侵入だよ。一色彩花さん」
「えっ!」
自分の名前を言われて思わずガバッと顔を上げた。
フェンス越しに眉をハの字に下げた隊員。それは。
「ま、ま、ま、学さん!!」
そう。目の前にいたのは幸田学ニ等陸尉その人だった。
困ったように眉を下げた幸田が彩花を見ていた。錆びて茶色になったフェンスがなんとも言えない空気を醸し出す。
「彩花。怪我はない? こんなヤブの中で……虫に刺されるぞ。ほら、立って。あ、レンズ、こんな所にさすなよな。汚れんじゃん」
「学さん。怒ってないの?」
てっきり彩花は幸田に怒られると思っていた。許可なく敷地内を撮影してしまったからだ。
「3センチだろ? どーしようかなぁ……」
「え、何が3センチ……」
「このフェンスから彩花のレンズが3センチほど出ていた。明らかに不法侵入になる。その3センチをどう罰するかってね」
「フェンスから向こう3センチ……」
「1ミリだろうが数メートルだろうが関係なく、警務隊に引き渡す義務が俺にはあるわけだよ。一色さん」
「うっ……」
彩花は何も言い返せない。幸田が言うことに間違いはないから。
「ご迷惑を、おかけしました。私、おとなしく警務隊さんのお世話になります」
観念するしかなかった。
「彩花は素直でいい子だな。そんないい子を警務隊に引き渡すなんてもったいない」
「学さん、なに言ってるの」
「仕方がない、取引をしよう」
「やだ。学さん、悪い顔してる」
幸田は彩花に航空自衛隊の基地で得た情報を帰ったら詳しく話すようにと言う。
「え! それだけで許してくれるの?」
「彩花は俺の味方だよな? ようは陸上自衛隊である俺の味方でもあるよな?」
「もちろんよ」
「だったら、その情報を俺が買う。君は俺が空自に送ったスパイってことで今回は見逃すよ。言っていること、分かるよな」
「う、うん?」
「このことを他言したら、俺のクビも飛ぶ」
「いっ、言わない。絶対に言わない」
「よし。じゃあ大人しく帰るんだ。いいね? 帰ったら写真を全部見せること」
「はい。幸田ニ等陸尉」
「解散っ」
ビシッと彩花は幸田に向かって敬礼をした。お尻についた土を払って駆け足でその場から去っていく。
幸田はそんな彩花に吹き出しそうになりながら、必死に堪えて見送った。本当は問題になるようなことではない。撮られてはいけない場所なら、こんなに簡単にフェンスまで近寄れるはずはないのだから。
「まったくうちのお嬢さんは、有給休暇を取ってまで何をやっているんだか。やれやれ……」
自分が帰ったとき、彩花がどんな顔をして迎えてくれるのか。幸田はそれが楽しみで、残りの勤務時間は早く過ぎていきそうだと思った。
「それにしても、驚かされるよ。まさかフェンスに張り付いていたなんてな」
(こんなに、刺激的な交際になるとはな……)
様子を見てくるからと、置いてきた部下が心配してやってきた。
「小隊長、大丈夫でした? 彼女さん」
「なっ、なんで分かったーー!」
「えっ。だって、この界隈じゃ有名ですよって。うわっ、怒らないでください! いい意味で有名なんすよー!」
幸田には想像していなかったことだろう。
◇
夜、幸田がマンションに帰ると、鼻歌混じりの彩花の声が聞こえてきた。夕飯を作っているのか、いい匂いが玄関までした。
「ただいま」
幸田がそう言うと、彩花が「おかえりー」と元気な声でリビングのドアを開けた。
「カレーか?」
「うん! 海上自衛隊さん方式なんだけどね。金曜日だから」
にこにこ笑顔で言われて、幸田は幸せな気持ちになった。どんな方式だろうが、彩花がしてくれる事がなによりも嬉しいんだ。幸田はあらためて思う。
二人揃って手を合わせた。
「ちなみにここの駐屯地は月曜日な」
「そうなんだ! じゃあ、結婚したら毎週月曜日はカレーだね。あ、でも一日二回はキツイよね」
「そうだな……え! けっこ、ゲホゲホ」
「学さん、大丈夫? ゆっくり食べて? ここ、お家だから誰も取らない」
彩花があまりにもさらりと結婚したらと言ったので、動揺した幸田は喉を詰まらせる。
「あり、がと。……なぁ、その。さっきのことなんだけど」
「さっき?」
「その、けっ……。けっ」
「けっ、がどうしたの? え! 毛が入ってた!?」
「ちがっ。何でもない! すごく美味しくてさ。感動してたんだ」
「なんだ。びっくりした」
幸田は結婚について聞くのをやめた。彩花の反応からして、結婚したらに特別な意味はなさげだったからだ。いや、聞くのが怖かったのもある。
(きっと彩花はなんとも思っちゃいなさ。あんまり真剣に迫って断られたらどうする。立ち直れないだろ……)
だから幸田は話を変えた。
「あ、そうだ彩花。空自の基地はどうだった。写真、撮れたのか?」
「あのね! 戦闘機の離発着を見たの! お腹とか背中とか見せてくれた。ベテランマニアさんたちがとっても喜んでたよ」
「へぇ。あいつらサービス好きだもんな」
「うん。手を振ったら振り返してくれたし、最後にね……。あっ見て、これ」
彩花は自分に送られた画像を幸田に見せた。イーグルライダーがクールに投げキスをしている写真だ。
「なんだよ、これ」
「Blowing a kissだって! 投げキッス?」
「誰に」
「うーん、皆さんが言うには私に? よく分かんないけど。あと、このパイロットの彼女なのかって間違えられちゃった」
えへへと、無邪気に笑う彩花。幸田はそんな彩花を見て笑い返すことができなかった。腹の奥底でなにやらグツグツと煮立っていたからだ。
「彩花。君はそのキスをキャッチしたのか」
「えっ」
さっきまで穏やかだった幸田の声が、微かに震えながら彩花に迫った。さすがの彩花もその不穏な空気を読み取る。
「学さん……怒ってる?」
「彩花。俺の質問に答えるんだ。その、イーグルドライバーが投げたキスを、君はっ……受け取ったのかと聞いている」
まるで部下に問いかけるような口調だった。彩花は考えた。自分の何がいけなかったのかを。
「答えるんだ」
「学さん。どういうこと? 分からない」
「分からないわけないだろう。簡単だよ。それをされて君は、嬉しかったのか」
これはあきらかに幸田の嫉妬だ。彩花がそれに気づいたかは分からない。けれど、彩花は思ったことを正直に話し始める。
「私、パイロットさんはすごいなって思うの。かっこいいだけじゃなくて、技術や知能や体力なんかも並外れてるって知ってる。それにサービス旺盛な人は確かに多いと思う。いつもカメラで追い回されてるし、広報的な意味でも頑張ってくれてるのかなって。確かに、手を振ったら振り返してくれて……。それはちょっと嬉しかったよ」
「そう……」
「でね。それが学さんだったらって考えるとね……」
そこで彩花は一旦話を切った。幸田が今までにないくらい寂しげな顔をしていたからだ。それでも、これだけは伝えておかないとと、再び口を開いた。
「学さんだったら私、もっと嬉しいよ。どんなにかっこいいパイロットさんがニッコリ笑っても、学さんの笑顔には勝てないよ」
「それはないだろ。向こうはファイターパイロットだぞ。女の子はみんな好きだよ」
ちょっと自信をなくした幸田は、読めない表情で答える。
(俺、なに妬いてんだよ。バカだろ……。こんなことでいちいち嫉妬してたら、この先どうするんだよ)
「ごめん。学さん、パイロット嫌いだったの忘れてた」
「え?」
「でも、この人ブルーインパルスじゃないから! F‐15を操るイーグルドライバーなんだって! ほら、おなかにミサイル持ってる。悪いやつを倒してくれる人たちだからっ」
幸田は彩花の説明に口をぽかんと開けた。そんなことは見ればわかるし、少なくとも彩花よりはその辺に詳しい。それに問題は、そこではない。
「というか、さ。そのイーグルドライバーが元凶なんだって……」
「見てー。私はあんまり撮れなかったんだけど、ほら! ブフォォーって! ねぇ! 迫力あるでしょ! なんだっけ、これ……えっと」
「ハイレートクライム」
「そう! それ! ふふ。かっこいー。このお尻見てぇ。かわいい……はぁぁん」
(そうだった。彩花は【人】よりも【機体】が好きだった……)
「俺、恥ずかしいやつだなー」
額に手を当てて「あぁぁ」と唸る幸田を彩花は知ってか知らずかケラケラと笑う。
「あっ、でも、指揮をとる学さんはとってもかっこよかった。あと、今日の戦闘服で肩に無線付けてたのも、素敵だった。あーん、写真撮ればよかったー」
ほんのり頬を赤く染めて、またしても無意識に幸田の劣情を煽るようなことを言う。
「あーもう、我慢できない! 彩花、ご飯はまたあとで」
「えっ、待って学さん。えっ……んんんんーーっ」
彩花が興味を示す人とは、唯一、幸田だけなのかもしれない。例えそれが、肩に無線がついていたからだとしても、戦闘服だったからだとしても。
(俺自身が彩花の被写体なんだ!!)
と、言うことです。
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