蒼き嵐の黎明
笛吹ヒサコ
第一部
第一章 嵐、来る
甲冑のエンバーマー
天窓から差し込む光が、作業台の周りを明るく照らし出している。ところどころ剥がれて欠けているタイル張りの作業台は、まるで底の浅い大きな流し台のようで、その上に金属パイプの柵が横に覆い被さっている。
今、その作業台には、全裸の老人が横たわっていた。
長いこと病に苦しんできたと、彼を連れてきた息子は言っていた。後ろめたそうに言い訳がましく。
それが関係しているのだろうか。老人の足の筋肉が極端に衰えて、土気色の皮膚を骨が今にも突き破りそうだ。爪はひどい巻き爪で、出血したあとがいくつかあった。
実際、臀部にはひどい床ずれがある。それから、服の上からではわからないような場所には、いくつものアザ。
この老人は、病がもとで寝たきりになったあと、長いこと家族からロクに面倒をみてもらえなかった上に──。想像するのはたやすいこと。
この推察は正しいかと、老人に問いかけたところで、彼は答えない。永遠に。
老人は死んでいるのだから、当然だ。
日の光が届かない部屋の暗がりから、ガシャガシャという金属音立てて人影が老人に近づいてくる。
ワゴンを押してきた人影は、鈍色の甲冑をまとっていた。
バケツをひっくり返したようなヘルメットにある横長の穴から、中の顔をうかがうのは難しい。二つの円筒形の人工魔石タンクを背負っている甲冑の指は、遺体を傷つけないようにとボロ布で覆われてる。
老人のかたわらにワゴンを止めると、甲冑は作業に取り掛かった。
まずは、老人の体をくまなく洗っていく。作業台の下から引っ張り出したホースの水と洗剤で、こびりついた垢などを落としていく。異臭を放っていた床ずれは、特に丁寧に。
洗剤を洗い流すと、今度はメスを手にして、老人の胸に突き立てる。そのまま、下腹部までまっすぐ切り開く。ドロリと溢れ出た赤黒い血液が、甲冑の指先から手首まで赤く染めていく。大きく開いた体から、まずは心臓だけを丁寧に取り出し、素焼きの壺に納める。それから、他の内臓を次々と取り出していく。腸や胃袋などなど。すでに生命活動を終えているとはいえ、いまだに生々しいそれらは、作業台のすみに無造作に積み上げられていく。空っぽになった体内を、ホースの水で洗う。まるで、魚を下ごしらえするように。
甲冑をまとっているとは思えないほど、作業はスムーズに進んでいく。ガシャガシャとした金属音に、時おりシュッという音が混ざる。白っぽい灰気ガスが肘などの関節の隙間から排出される音だ。蒸気とよく似た灰気ガスは、すぐに周囲の空気に溶け込んでいく。鳥肌が立つほどの強烈な冷気だけをしばしの間だけ残して。
エンバーミング液をふりかけた内臓をボロ布で包んで体の中に戻す。ボロ布は、ここに運び込まれたときに老人が着ていた服だ。
開いた体を縫い合わせて、手際よく閉じていく。
丁寧に体を拭き、背中が大きく切り開かれた黒のシャツを着せて、黒のズボンも穿かせる。
傷つけないように慎重に抱き上げると、用意しておいた棺の中に納める。
金属のヘラでボロ布の切れ端を口の中に押し込みげっそりとコケた頬を膨らませる。ヘラの向きを変えて鼻にも詰める。まばらな白髪を後ろになでつけて、赤みを抑えた口紅を乾いた唇に塗った。
そうして、満足気にひっくり返したバケツのような頭が上下する。
「これでよしっと」
ヘルメットの中で反響した声は、意外にも柔らかく響く。
台車に乗っていた棺は、ガラガラと音を立てて部屋の外に運ばれていく。
広い隣室には、この国の守護神である冥界の女神の祭壇がある。
黒檀の祭壇に棺の中の頭が向くように、台車を止めた。
甲冑のエンバーマーは、棺を残してその場を離れる。
かつてここには、多いときは十の棺が並ぶこともあった。それなのに、今は棺はたったの一つ。この二、三年は、まったくない日がひと月以上続くことも増えてきた。
しばらくして、棺のそばに少女がやってきた。
両手で抱えているのは、老人の心臓が入った壺だ。うやうやしく祭壇に置いて蓋を外し、祭壇の燭台に火をともした。
「暗く険しい死出の旅路につくこの者の魂に、蒼の
胸の前で両の掌を上に向けて祈る。冥福はもちろん、
たとえ屍人化するほどの強い遺恨であろうがなかろうが、未練をなくして冥界に旅立つべきだ。そう教えてくれたのは、師匠でもあるじいちゃんだった。
しばらくして顔を上げると、今一度遺体の仕上がり具合を確認してから、小さな踵を返す。
作業場である
国境に近い山の中腹にある集落の、そのさらに外れにポツンとモルグはあった。暦の上では初夏ではあるものの、このあたりでは春どころか冬の名残がまだあった。
新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで吐き出した彼女は、深く澄んだ蒼い瞳をかげらせる。
「もう、終わっちゃった」
正確には、明日の昼に遺族に遺体を引き渡し代金を頂いて、仕事完了だ。
魔王討伐の英雄である現国王が民に火葬を義務として、もう二十年近く経つ。おかげで国内の現役のエンバーマーの数は四分の一まで減ってしまったという。
彼女がこの仕事をほそぼそと続けていられるのは、火葬場まで遠い山間の集落に住んでいるからだ。
なんとなく空を見上げて、彼女は顔をさらに曇らせた。村外れのモルグの北側に位置する東西に伸びる尾根を、黒い雲が縁取っていた。風向からしても、確実にこちらに向かってくるだろう。
「さっきまでいい天気だったのに、まったく」
今日の仕事は終わっている。
予定はまったくないけれども、天気が崩れるというのは、それだけで憂鬱なものだ。
ましてや、季節外れの嵐。
季節外れの嵐には、気をつけなさい。人生を一変させてしまうこともあるからと、繰り返し語り聞かせてくれた懐かしい人を否応なく思い出す。
憂鬱に、深い寂寥感が入り混じる。
とはいえ、いつまでも何もせずに立っていられない。頭を振って、無理にでも気持ちを切り替える。
嵐が来るなら、備えなければ。仕事は終わっても、生き延びるためにやるべきことはたくさん残っている。
「お腹、空いたなぁ」
母屋に向かう足取りは、とても重い。
季節外れの嵐はすぐそこまで迫っていた。
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