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 ルージュは自分で注いだ酒を一息に飲み干す。


「いい加減に馴れんと身が持たぬぞ。キュウビよ」


 そう、ぼやくように言った。


 なんのことかは分かっている。ただそれは一朝一夕には治せないものなのだ。


「分かってるわよ。そんなこと…」


 平常心を装ったつもりが思ったよりも卑屈な口調になってしまった。


「本当かのぅ…。お主がここにやって来てから十年。進歩していないように見えるがの」


「うぐ…」


 彼女の指摘に俺は反論できない。


 確かに俺は“女の子”に過剰に反応しているきらいがある。自身が自覚できるほどに――――


 俺は顔を上げ、ある物へと目を向ける。


 それからは鮮やかな紅色の瞳がこちらを物憂げに見返していた。その目は神秘的な光を讃え、透き通った宝石のようで、整った顔立ちをいっそう引き立たせている。



 (・・・――――――っ)



 無言で見つめるその鏡の中の少女は、ふいに視線を逸らした。我慢できなかったのだ。自分自身だというのに…。

 風呂場の壁にと貼り付けられている大鏡。それには“女の子”になった自分が映っていた。


 “自分”――――といっても、昔の面影はまったくない。それはもう“別人”なのである。


 艶やかで柔らかな金の髪。若々しく、染み一つない極上の柔肌。まだ成人していない少女の見た目だが、誰が何と言おうと美少女としか言えない美貌。

 赤色の紋様が描かれた“狐の耳”が頭の上でピコピコ動いてるのを見ると、なんとも愛らしい生き物かと思えてくるほどだ。まあ、自分だが…。


 (馴れるわけ…ないじゃん…)


 少し憂鬱そうな表情をしている鏡の中の彼女。しかしその少女は、そんな負の感情を払拭してしまうほど世の人々が羨むような美少女なのであった。

 そんな“女の子”が自分なのだ。とても…馴れるものではない。


 もともと俺は思春期真っ盛りの少年だった。彼女がいない歴=年齢の短い人生だったが、秘めたる想いは一丁前に持ってはいた。それが今や――この姿だ。


 もとから異性に対して抵抗感はあった。しかしながら、べたべたとスキンシップを敢行してくる妹のお陰で多少は軽減したと思っていたのだ。しかし、結局逆戻りだ。というより…酷くなっている気もする。


「根は深そうじゃな。これから旅立つというのに、先が思いやられるのぅ」


「うるさいわね…。それとこれとは話が――――ん…??」


 ふと言葉を切る。


「旅立つ…?」


「なんじゃその鳩が豆鉄砲を喰らったような顔は。面白い顔じゃの」


 キョトンと聞き返す俺に対し、彼女は続けて言う。


「ユノの輩が旅立つお主に“ぷれぜんと”を、と下界に降りて行くのを見ての。これはわしも見送らねばと思って訪ねた次第じゃ。“あの子”はほってきてしまったがのぅ」


「わたしまだ…旅立つなんて決めてないんだけど…」


「む? 行かぬのか?」


「――――っ…」


 面と向かって訊かれ俺は黙ってしまう。


 正直なところを言えば…行きたい。何もかもを放り出して会いに行きたい。だけど――もう俺はじゃない。


 自分の身体を見下ろしながら、俺は思いに耽る。

 仕方がなかったとはいえ、今や前世の俺とはかけ離れた姿だ。共通点なんてない。言ってしまえば記憶があるだけの赤の“他人”だ。


 朝からずっと心がモヤモヤしている。


 一体俺はどうしたいのだろう? 心は行きたいと叫んでいるのに、その一歩は踏み出せない。何故踏み出せない? なにが足枷になっているのだろう。――――そう考えた後に俺は一つの答えに辿り着く。



 (そうか…怖いのか。あいつと会うのが)



 姿が変わった俺を見て、遥がどういう反応するのか分からない。大体、死んだ俺が目の前にいると言っても誰が信じるというのだ。

 赤の他人の妄言だと思われるはずだ。もしかすると馬鹿にされたと思って怒りを買うかもしれない。まあそうだろう。亡くなった人のことを冗談でも言えば不謹慎極まりない。怒られて当然だ。しかし…まだ怒られるだけならいいのだ。それぐらいなら時間がどうにかしてくれるかもしれない。だが、それ以上に恐ろしいことがある。それは遥に―――されることだ。





『まるで曇天のような表情じゃのぅ』





「――――っ!!?」




 間近で聞こえた声に俺は毛を逆立てる。いつの間にか目前にまで近づいていたルージュは俺の顔を上から覗き込んでいた。ここまで接近されても気づけないとは我ながらどうかしている。俺が逃げるように後ろへ下ろうとしたところで…それよりも先にポンッと頭の上に手を置かれた。


「な…。なにするのよ…」


 ゆっくりと撫でる彼女の手は暖かく、そして妙に優しかった。それに俺は恥ずかしくなって身じろぎする。


「相変わらず良い撫で心地じゃのぅ」


「貴女ねぇ…。やめてくれる? もう子供じゃないんだけど」


「よいではないか。嫌ではなかろう?」


 と、彼女は湯の中で揺れている俺の尻尾へ視線を向ける。尻尾があることで感情が隠しにくくなったのはなかなかの痛手である。


「行けばよいではないか。お主にとってその人族は大切な存在なのじゃろう?」


「簡単に言ってくれるわね…」


「簡単な訳があるまい。人の感情なんて複雑すぎて神ですら投げ出す代物じゃろうよ」


「…はぁ? じゃあなんで――――」


「だからこそじゃ。諦めて行動を起こせばよい。結果は追って出てくるものじゃ」


 ルージュはその瞳に俺を映し、真剣なまなざしで言った。


「迷うことも悩むことも否定はせん。存分に唸ればよい。じゃが、そこで立ち止まることはするな」


「答えがでないまま動き出せって言うの?貴女は」


「そのとおりじゃ」


 彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべてそう言った。そんな溌溂と言われると思っていなかった俺は二の句を継げず押し黙る。


「答えは図らずとも出てくるものじゃ。動き出せさえすればな。その時にどういう行動をとるかはお主次第じゃが、始まる前から自分の感情に振り回され、動けなくなるのは愚の骨頂。“すたーとらいん”は切ってこそじゃろう?」


「どこで覚えたのよそんな単語」


「ユノのやつがよく言っていたからのぅ」


 くっくっくっ。と、喉を鳴らして笑う彼女を見やる。


 俺はなにも言えなかった。相変わらず、肝心なところで言葉が出てこない。十年たっても、身体が変わっても、このクソッタレな性格までは変わらなかったようだ。


 ルージュはだんまりな俺を見つめて何を思ったのだろうか。

 頑固な奴だと思ったのだろうか? 強情な奴だと思ったのだろうか?

 …しかし、彼女は撫でる手を少し強めるだけで、咎めることもせず穏やかな表情で俺を見ていた。


 ――――少し長めの沈黙。


 それで彼女は満足したのか、徐に立ち上がり湯船から出てしまう。


「ふむ。長居し過ぎたかの。邪魔したのぅキュウビよ」


 そう言って背を向ける彼女。その後ろ姿に俺は目をやる。これが最後の機会だ。なぜかふとそう思った。だから…



「後悔してもいいっていうの?」



 そう問いかけた。それは弱虫な俺の心からでた一世一代の問い掛け。



 その声にゆっくりと振り返った彼女は、やけにのんきそうな声でこう言う。


「そうじゃのぅ。後悔するのは確かに嫌じゃの」


 そこで言葉を一旦切り、改めて口を開く。その声色ははっきりしたものへと変わっていた。それはまるで確証を得ている答えかのように―――――


「じゃが、その“後悔”はお主の“想い”より大きなものなのか?」


 そう言った彼女の表情はいつも通りの余裕そうな笑み。それは幾度も見てきた師匠の…彼女の顔だった。


「…分かった風なことを言うわね」


「そりゃあ出会って早10年じゃからのぅ。わしらからしたら短い期間じゃが、相手のことを知るには十分な時間じゃろうよ」


 ルージュは言いたいことはすべて言い切ったようで、濡れた長い髪を煌めかせて背を向ける。最後に振り向かずに手を振ってから颯爽とその場を後にした。


 ようやく風呂場に静けさが戻る。と、俺は一つ大きな息を吐くと共に縁にもたれかかった。


 そこでふと…肩に何かが触れる。それは彼女が残した湯舟酒だった。入浴しながら飲む酒は危険と地球の記憶で聞いたことがある。が、今の俺は人と似て否なるもの。俺は興味本位で盃を取る。そこには行動を読んでいたかのようにすでにお酒が注がれていた。


 (お見通し…か)


 俺はそれを何食わぬ顔で一気に飲み干す。




 ―――うげ。苦い。めっちゃ苦い。




 お酒は昔から苦手だ。と言っても、飲むのは正月の御神酒ぐらいなものだったが。


 俺は思い出したように脇に置いてあった木箱を手に取り蓋を開けた。そこには彼女が言っていたように“いなり寿司”が綺麗に並べられていた。それを手にとって口に運ぶ。小さくなった口では流石に一口では食べられなかったが。


「美味しい…」


 誰に聞かすともなくただただ呟く。

 嫌がることが分かっていてこれをわざわざ用意したのだろうか。彼女の性格からしたらあり得る。だがもしかしたら…なにか違う意味もあったのかもしれない。しかし、確証はないが確実なことはある。それは…


 (俺の背中を押すために来たんだろうな…)


 ルージュは俺からしたら大先輩に当たる。俺が悩むことはそれこそお見通しだったのだろう。だからこそ、俺を心配してここまで来た。ホント―――――



「お人好しめ…」



 その皮肉めいた呟きは誰の耳にも届かずに静かに消えていった。





   ◆◆◆





 ・・・・・・・・・・・・―――――――




 赤色のドレスを着た彼女は夜闇に臆することなく、寧ろ機嫌がよさそうに鼻歌交じりに歩を進める。



「――――む? なんじゃ。今日はもう戻ってこんと思っておったぞ」




 帳の下りた森の中。月明かりすら遮る深緑の森へ彼女はふと声を掛けた。



『べっつにぃ~。ただ予想よりも早く終わったから寄ってみただけだよ』



 暗闇から音すらたてず、霞のように現れた異国風の少女。


「その様子だと上手く行ったみたいだね?」


「さあの。背中を押しはしたが、後はあ奴次第じゃからのぅ」


「そっか」


 と、短く呟いた少女はルージュが歩いてきた方向に目を向ける。


「ホントは…――――気ままにゆっくりと過ごして欲しかったんだけどね」


「仕方がなかろう。あ奴が目覚めた時点でこうなることは分かっていたのじゃろう?」


「まあ…ね」


 歯切れの悪い返事。いつもの底なしに明るい彼女には珍しいことだ。


「貴女にも悪いことを押し付けちゃったしね。今更だけど」


「はっ。たしかに今更じゃのう。それよりもなんじゃその負い目があるような言い方は。お主らしくもない。別にわしは後悔なんぞしておらぬぞ」


「いや~。さっすが“神竜”さま。言うことが違うねぇ」


 彼女は陽気そうに言う。それは少しわざとらしかった。


「ふん。“神竜”としてのの役目。まっとうさせてもらおう。――――後のことはお主らに任せたぞ。“あの子”のこともよろしく頼むぞ」


「うん任せて。よろしくね」


 ルージュは彼女の言葉に笑みを返すと、迷いのない足取りでその横を通り過ぎていく。


 既に闇が支配する森の中。そこから羽ばたいた大きな影が上空に昇って消えていく。


 それを目で追っていた彼女は小さく息を吐くと視線を逸らして夜空を見上げる。そこには満天の星空が広がっていた。


「分かり合うって…難しいね」


 と、ポツリと呟く。そして、出てきた時と同じ様に霞のように姿を消した。





 こうして人知れず行われた密会は誰の目にも留まらず、静寂な闇に消えた。

 これから巻き起こるであろう彼女たちの物語。それはもう既にスタートラインは切られていた。

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