第5章 クピド(恋の神)とマルス(軍神)



 ドン・シンドゥルフォは、展示会場近くの指定された場所でアナクロノペテーの組み立てが行われている間、マレシュベス大通りのコンコルド広場のホテルの敷地内に家族と一緒に身を寄せていた。

 言うまでもなく、科学者はシャン・ド・マルスで建設の指揮を執り、その間クララとファニータは部屋に閉じこめられていた。トルコ人のような嫉妬深い同胞が逃亡や誘拐を恐れ続けていたからだ。

 少女たちが出かけるときはいつも施錠された馬車の中で、劇場では格子細工のスクリーンの後ろの個室に座っていた。


 マドリードからの距離や、まもなく現代から旅立つという思い、甥のルイスをマドリードに縛り付ける避けて通れない軍事的な任務など、すべてのものへの警戒心が、ドン・シンドゥルフォの態度に相対的な冷静さを与えていた。

 恐怖心が薄れてきたある日の夕方、科学者たちの会議から一人で帰ってきてマドレーヌの左側の階段を登っていると、後ろからコートを引っ張られるのを感じた。

 彼は頭を振り返り、もう少しでコートを脱がされそうになったが、口元には甥の部下であるペンデンシアの手があった。コルドバ訛りで「Me da vu de la candel? (火をお持ちかな?)」とジャン・ラシーヌ(フランスの劇作家)の台詞を引用し、慌てたサラゴサ人のメディアニート(葉巻)に火をつけようとした。

「来やがったか!パリで何をしている?」

「政府の命により15人の仲間どセーヌ川に来だ。我々の隊と隊員の人となりを示じ、フランス人に学んでもらうだめに」

 そして実際、陸軍大臣はスペイン軍の各支部から代表者をこの博覧会に派遣し、彼らの制服と羨ましいほどの礼儀正しさと颯爽とした姿を披露させていた。

「甥もその中にいるのか?」賢人は自らの不幸を予感して尋ねた。

「それだげじゃない、彼が指揮を執ってる! 隊ば全員一致で彼を選んだ」

「何だと!」

「外交使節(注:ファニータ)は彼に言っだ。「あなた、パリの中隊に行けば、あなたは叔父のように醜い人でないと皆に証明できましょう」ど」

「無礼な! だが、私は何を企てているかを知っている。その意図は阻止されるだろう。

 私に宣戦布告する者に災いあれ! 私からの伝言だ、彼にそう伝えろ」

 そして二人がホテルに到着するや、シンドルフォはペンデンシアを引き離し、ペンデンシアは捨て台詞を放った。「仰せのままに、ドン・ムームー」

 彼は主君を探しに走った。読者の皆様は、その人がこの物語の冒頭で実験場に向かっていたフッサール騎士団の隊長だと、もうお分かりだろう。


「誰か来たの?バルコニーに誰かいなかった?」ファニータが叔父が姪の部屋に戻るや尋ねた。

「ステンドグラスの窓にも南京錠をかけているのに、誰が面会を求めるのかね?」ガルシア博士はいつものようにファニータを苦しめた。


 ドン・シンドゥルフォはこれ以上の説明をすることは不都合と考え、囚人たちの部屋に隣接する自分の部屋へ行った。

 しかし、彼が葉巻を吸うために大通りへ戻り出たとき、ペンデンシアが彼のコートに忍ばせていた紙の束をファニータが見つけた。

 ファニータもペンデンシアも、クピド(注:手紙を介す博士)は初対面時の会話でどういう人かわかっていたので、部屋の主がドアを開けっぱなしにしていたものであるから、巧みに手紙をつかむことができた。

 一人になった瞬間、彼らの手紙を読み始めた。

 ルイスはいとこへの愛にまつわる千の言葉をしたためており、冷酷な叔父の束縛からすぐに自由にすることを約束していた。

 ペンデンシアの手紙は、一目でわかるほど簡潔な文であった。手紙にはこう書かれていた。

<<心から いた 、私は なたの ばに る。死が  を かつまで>>

 兵隊のエピストルの書式に慣れたファニータは、彼が何を言いたいのかをわかっていた。

<<心から会いたい、私はあなたのそばにいる。死が二人を分かつまで。署名:ロケ・ゴメス>>

 次の日、ルイスは同じホテルの部屋をおさえた。

 幸い、最初に食堂に入ったドン・シンドゥルフォは彼を見て警戒し、他の者に気づかれる前に退却し、全員を階段に戻し、今後は別々の部屋で食事をするように命令した。

 保護者の警戒心は強まり、外出しているとき、常にベンジャミンが見張りのために後ろに残っていた。

 しかしそれは徒労に終わり、ルイスは当番のウェイターに賄賂を渡していたので、ナプキンに包まれた手紙が飛び交っていた。

 偽装はいつかばれるし、ウェイターは秘密を明かすであろうし、さすればファニータは料理を取りにテーブルに近づくことを禁じられたり、何があっても部屋に閉じこめられていたままかもしれない。

 だが、この程度では手紙のやり取りは止められなかった。手紙を備えつけのピッチャーの底に張り付けたり、菓子袋に縫い付けたり、合言葉でやり取りしたり、そのなかでクララは最終的に、ペンデンシアがレストランの犬を仕込み、ドン・シンドルフォがルームサービスの領収書を受け取る際にドアを開けたとき彼の足の間に潜り込ませ、手紙を隠したクルミの殻を持たせてやり取りする方法を選んだ。


 こうすれば手の打ちようがない、アルゴス(注:ギリシャ神話の巨人)の百の目をもってしてもこの偽装の猛勢に対処することはできない、と思われた。

 だが、まもなくアナクロノペテーに人が住めるようになると、ドン・シンドゥルフォは管理者であることを口実にそこに住居を構え、2人の武装警官を常備させて、発明者本人以外の者に装置へ近づかせないようにした。

 衛兵の無節操さがルイスの嘆願や買収を受け入れなかったとすれば、彼の側近たちの企ては、余計に手紙のやり取りの支障をきたすだけであった。

 まもなく旅行者たちが土地の見取図を把握できているアンヴァリッドへと出かけると、彼は乞食のボロ布に身を包み、木の足と偽のあごひげをつけて、大通りの真ん中に現れたが、物乞いがまだ禁止されていることを知っていたので、番屋に数時間立ち往生することになった。

 ほとんどの場合、彼らの計画は露呈してご破算だったので、ドン・シンドゥルフォは、今後は馬車でのみ外出することを決めた。

 ペンデンシアは馬車の運転手を装ったが、フランス語でマドレーヌ協会への道を行くよう指示されたとき、言語に弱い彼はペレ・ラシェーズの墓地に連れて行ってしまったので、ばれてしまった。

 最後の最後に、彼は彼の同胞が出席している教会でスイスの警備員と結託して、儀式の間に信者の供物を集める係員としてポストを占有し、クラリータ(クララ)に手紙を届ける準備をした。しかし、彼は腰に手のひらをつけ太い太鼓の棒を持ったまま席を行き来することに慣れていなかったため、おり悪くも、彼の剣がドレスに絡まってしまい、彼のカツラが紳士の聖書の上に落ち、三角帽子が別の信者の頭の上に落ちてしまった。この時点でジグは終了し、ドン・シンドゥルフォは一行を引き連れて突然立ち去り、アナクロノペテーに戻った。それ以降、そこは事実上の牢屋となった。


 この大惨事の翌日は、クララを想うルイスにとってすべての希望が目の前で消えうせた絶望の日であり、助っ人と15人の仲間たちにとっては、自分たちの策略の成果を得ることができないまま遠征の終わりが近づいていることを嘆く日であった。

 隊長の唯一の慰めは、展覧会の講堂の外にある中央アーチの下の回廊から子供たちと一緒に100メートルの高さにそびえ立つアナクロノペテーを眺め、巨大な墓のような荒涼とした威厳を感じることだった。

 ある夜、いつものように隊の誰が最も正確に新しい電信を含む中空弾を発射できるか、隊の誰が電話線をこめたケーブルを発射するために最高距離の弾道をはじきだせるだけの知識を持つかを考えていると、曇り空は天の滝が地上に降り注ぐような土砂降りになった。

「もじ洪水が起きれば、恐ろじい水害になるのでば」と、側近は建物の側溝から溢れ出る洪水の音を聞きながら言った。

「恐れることはない」主君は彼を安心させた。

「排水溝は、おそらくこの建物の構造で一番優れている箇所だ。

 君はパリのこの区域の地下の建設計画を知っていたか?排水渠にかけたお金はこの金庫の中身以上だ」

「それって」とペンデンシアは叫んで、目を見開いた。

「あのあたりにも下水溝があるのでずか?」

「その通りだ!見ろ、下水溝はアナクロノペテーの先端に沿って走っている」

「本当でずか!でしだら勝ったも同然です、下命をくだざい」

「何が言いたい?」

「ああ、誰もがナポレオンどか私のような天才軍師としで生まれたわけではありまぜんが」

「君の考えを説明してくれ!」

「簡単なことでず。ドン・シンドゥルフォが防御のための尖塔やバリケードを建てるのなら、 機雷のように地下から強行突破するのでず。みんな...…下水溝へ行こう!」

 熱狂的な歓声がコルドバ人のアイデアを歓迎した。

 下水溝は明らかに愛の最後の砦だった。

 意気揚々と地下計画を調べてみると、アナクロノペテーの中心部に通じるだけの数メートルの横断トンネルがあることがわかった。

 パリの下水道の管理者を買収するのは簡単なことだった。その人物はスペインとの国境に近いアラゴン渓谷の出身で、カルロス4世に傾倒していたので、ルイスは必要な経路を通るために彼に十分な金額を支払うことを惜しまなかった。

 時間はわずかだが、10と7人のスペイン人で立ち向かう。その半分はアラゴン人とカタルーニャ人で、特に日頃から将軍あるいは他の将校の命令を何かしら受けている軍人であれば、心配や問題はなかった。

 つるはしとショベルで道が作られ、トンネルは材木で支えられ、驚くことについに一日がかりで通路ができ、ドン・シンドゥルフォがトロカデロで講演をしている間には、16人のマルスの子たちが隊長につるはしの最後の一撃をまかせ、彼らは標的の真下にたどりついた。

 穴から出てきた彼らは、健康な若者の背丈ほどの長方形の囲いの中にいることに気がついた。

 それは、パレード会場の湿気からマシンを守るために設計された台座だった。

 侵入者たちの計画は、アナクロノペテーの床を叩き割ることだったが、驚いたことに、船の底には、船倉をきれいにするために、電気で作動する水平ギロチンのような扉があり、おそらく1階への通気性を高めるために、地下からの攻撃を想定せずにうっかり開いたままにしていたのだ。

「行くぞ!」と誰かが叫んだ。階段を上り、廊下を渡り、部屋の中に飛び込んでいくと、あらゆる可能性に備えてあらゆる種類の武器を携えた大勢の男たちが目の前に現れ、恐怖に悲鳴を抑えることができなかった捕虜(注:クララとファニータ)たちに遭遇した。

この一瞬に何があったかを言葉では説明することはできないが、愛を知る読者の皆さんにはただ感じていただきたい。

「逃げねばならない、愛しい人よ」、切羽詰まる中、ルイスは開口一番いとこに向かってこう言った。

「ああ、できません」と彼女は答えた。

「私の運命に何があろうと、覚悟を決めています。今際に誓った母への約束を破ることなど」

 謙虚で従順な娘の鮮烈な決意の前では、あらゆる方法での嘆願、懇願、そして涙は何の役にも立たなかった。

すべての希望は失われたように見えたが、壁を突き抜けるほどの群衆の歓声が近づき、クララは騒ぎの原因を尋ねた。

 ルイスが叔父の発明品がどれほどの熱狂をかきたてているかを説明すると、それまでは守護者の科学的な取り組みに関心のなかった不幸な囚人たちは、二人に黙って危険を伴う旅を強要する怪物に対して、怒りに満ちた罵声を噴出した。

「こんなこと耐えられない!」と、孤児のクララは言葉に詰まった。

「あの科学者の悪魔が!」マリトネスは言った。「私たちはじっとしていられないわ、バカじゃないのよ!」

「そうでず!遠くに連れてゆかれるならなおざら、とどまることなどできまぜん」

「逃げねばならない」とルイスは繰り返し、歓声が近づいていることを警告した。

「自由になろう。われらの愛を隠すためでなく、正当な法の下にある愛を守るために、法廷に嘆願するのだ」

 この冷静な観察は効果があった。時間は貴重なものであった。暴君が近づいていた。

「好きにしてください!」ドン・シンドゥルフォの若い被後見人は断固として叫び、彼らは一緒にトンネルに向かった。

 しかし、開口部に到達したとき、そこは閉じられていた。

 陥没して退路を断たれてしまったのだ。





※作中のジャン・ラシーヌの引用は『アンドロマック』からのものと思われる。代名詞にギリシャ神話からの引用が多分にあるのは、そもそもラシーヌの演劇が作品全体の底にあるからであると考察できる。

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