翼ある日輪の帝国 農婦の物語
鹿紙 路
第1話
青い大麦が一面で揺れている。わたしたちはかがみ、歌いながら雑草を取る。
草のように不要なもの
怠け、妬み、嘘、空を見つめる時間
走れ、走れ 矢のように走れ
翼ある日輪が
山の向こうに翔けてしまう前に
男も女も、赤銅の色で肌を輝かせ、女は豊かな黒い巻き毛をまとめて、日除けの布を頭に巻いている。熱い草を踏み、硬いてのひらで猛然と草を抜く。
「ヤヨタ!」
少年の声がする。わたしは立ち上がって腰を伸ばし、自分を呼ぶ声のほうに目をやる。背の高い、ひょろりとした少年がこちらに駆けてくる。
「王子!」
侍従の数人が、慌ててかれを追いかける。馬や驢馬を連れた、十数人ほどの一団。傘を差し掛けられた騎馬の男がひとり。そうか、また――
わたしはひざまずいた。それに引き続いて、農作業を中断した村の面々もひざまずく。
「また世話になるぞ」
傘の下の男――アッシュル・アハ・イディナ王が、鷹揚にうなずく。
アッシリアの王は、占術師の占いの結果によって、ときに王でなくなり、身代わりを立てる。そのあいだ、かれは「農夫」となり、農村で暮らす。都にほどちかいこの村に大臣や官吏が立ち寄り、かれはいつもどおり政務を執るが、そのときは「農夫陛下」と呼ばれる。
身代わりとして宮殿にいるのは、占術師が選んだ男、そして王は、わたしの束の間の夫になる。
「ヤヨタ、またわたしのところに来てくれる?」
八歳の王子――アッシュル・バニ・アプリがしゃがみ、にこにこしてわたしの顔をのぞき込む。
「ええ、もちろん」
わたしはほほえみ、王子の頬を撫でる。常ならばけして許されることのない、あまりに不遜な行動に、王子は喜び、わたしに抱きつく。
「やった! たくさんお話してね」
少年は、侍従たちが支度したのだろう、爽やかなシトロンの香油の匂いがする。やわらかな上等の麻の服の手触り。わたしは王子と手をつなぐと、かれらを「農夫陛下」の別邸に連れて行った。
村のはずれにある、日干し煉瓦の建物は、ナツメヤシや杉、イチジクを植え、水路を通してある。昼の炎暑を避けて、王は木陰の臥台にくつろぐ。王子は麦を発酵させた炭酸水を飲み、伴ってきた獅子の仔と戯れる。わたしは給仕が滞りないことを確認しようとして、王に手招きされる。
「かけよ」
臥台のそばの椅子を示されて、わたしはうろたえてひざまずいた。
「畏れ多うございます」
「そなたは」
王は髭に覆われた頬を歪め、笑みをつくった。
「予の妃である。遠慮することはない」
二年前から、占術師の指示で王はこの村に滞在するようになった。その当初から、村長のいとこで、夫を亡くしたばかりのわたしを、かれの一時的な妃とせよという命令があった。困惑している間もなく、わたしと村のひとびとは、王をもてなすことに忙殺された。もちろん、相応の禄を賜ることで、とくにわたしの家は潤った。
しかし、アッシュル神の第一の僕である王を、夫のように遇するのには慣れなかった。そもそも、かれにはニヌアに正式な妃がいるのだ。一行のなかには、妃はいなかったが、妾であるとおぼしきうつくしい女性がふたりいて、その扱いにもわたしは苦慮した。
王は、大抵、この村に来たときにはひどく疲れていた。今日も、侍従たちを下がらせると、臥台でうとうとし始めた。わたしはかれをおおきな葉を組み合わせた団扇で扇ぐ。王子も中庭を出て行き、わたしたちはふたりきりになった。
「……やっと静かになった」
ぼそりとかれがつぶやく。
「起きておられたのですか」
落ちくぼんだ眼窩から、白目を目立たせて王は瞬いた。
「むろんである」
「はあ」
完全に寝息が聞こえていたと思っていたのだが。王は上体を起こすと肩をひねった。
「からだが凝り固まっている」
「……揉みましょうか?」
「……たのむ」
王はシャツを脱ぎ始める。わたしは給仕した軽食につけたオリーブの油壷を取ると手になじませ、うつぶせに横たわったかれの背を撫でた。王がそっと息を吐く。首、肩、背筋に触れて、どこが固まっているかを探る。死んだ夫は用水路の修繕を主な仕事にしていたので、仕事から帰るとわたしに揉み療治をよく頼んだ。わたしの療治はよく効くと誉められたものだ。その経験があったので、王が来たときにも申し出たことがあったのだが、王はそれを気に入ったらしい。
かれは、夫とはちがうからだの使い方をしている。夫のように重いものを持ったり運んだりはしないし、長い距離を歩くこともしない。じっと座り、聴き、話すことをこととしている。だから、腰や肩が凝り固まり、頭が痛むこともあるという。肉の筋をなぞり、血の道や気の流れの道を開くようにほぐしていく。手を取り、日常ではあまりすることのない姿勢を取らせたり、腱を伸ばしたりする。ただ手であたためることが効くこともある。ぐったりと身を伸べた王はこの上なく無防備だ。腹の底からふかく呼吸し、そのまま寝入ってしまうこともある。
療治を終えると、今日の王は仰向けになってゆったりと笑み、臥台の網をぽんぽんと叩いた。
「そなたも寝よ」
「……はあ」
間の抜けた返事をして、わたしは王に寄り添う。王はわたしの肩に額を寄せ、そのまま眠ってしまう。
「……父上、お眠りになった?」
ナツメヤシの向こうから、ひょっこりと王子が顔を出し、小声で訊く。
「ええ」
ふふ、と少年は笑い、こちらにやってくると、かれも臥台にのぼり、昼寝を始める。わたしは葉擦れの音と、少年と中年男の寝息を聴きながらまどろむ。朝の農作業と、昼のもてなしで、わたしも疲れている。あたたかい人肌がちかくにあると安堵を覚え、からだが緩む。
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