僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

Perfume1. アロマセラピストは幸せ?

1-1. アロマセラピスト。

 チリンチリン……ドアの鈴の音とともに、広瀬ひろせ光琉ひかるの目に太陽が強い刺激を与えた。

 その刺激に慣れるにつれて、雲ひとつない真っ青な空が視界に現れてくる。鳥も遠くで機嫌良さそうに鳴いていた。


「今日もすごく良い天気だ!」


 そう言ったとき、車道を挟んだ歩道を歩く小学生の列が見えた。

 先頭の子供は道に敷き詰められたブロックの隙間を縫うようにして小石を蹴って運んでいるようだ。まるであみだくじのようで、ヒカル自身もその溝を使って遊んだ記憶がある。

 ヒカルは列の最後にいる子供が目に付いた。『サイエンス』と書いた教科書に目を落としている。

 彼はこちらに気が付くと、にっこり笑って手を振った。

 ヒカルもそれに応えながら、同じ教科書を使っていたなと懐かしく思う。


 教科書から記憶が繋がって、今はともに“クリニック”の院長として勤務する牧浦まきうら真琴まこととの、十歳ごろの思い出が蘇る。

 ヒカルの一つ歳下のマコトは、スクールの廊下で唐突に、


「『国民はとある過ちを犯して嗅覚を失ってしまいました。その代わりに、嗅覚と特殊な能力を持つ人々が稀に生まれ、彼らがアロマを使ってほぼすべての病を治療出来るようになりました』」


 とヒストリーの教科書の一文を読み上げた。この一文は嗅覚を持つ“アロマセラピスト”と呼ばれる人々であれば暗記させられているはずだ。

 ヒカルとマコトはその稀なセラピストである。

 マコトはきょとんとした顔で真ん丸な目を向け、


「どうして匂い分かんないのに匂いで治療出来るの?」


 と尋ねた。

 正直に言うと、ヒカルはその答えを知らなかった。しかし歳下のマコトの前で「分からない」と言いたくないというプライドが彼の言葉を濁す。

 その様子を見ていたヒカルの担任教師が笑って、ヒカルに代わって答えた。


「まず人間の鼻の嗅上皮と呼ばれる部分に匂いの成分がついて、その中にある嗅細胞というところでその成分をキャッチして『匂いが来ましたよ』という信号を出すの。それが神経を伝わって脳にある嗅球という場所に行き着く。その信号がそこから脳のあちこちに伝われば私たちのように匂いを感じ取れる。けれどほとんどの人は信号が嗅球までで止まるの」

「それでもセラピーの効果はあるの?」

「嗅球から直接身体全体に信号が行き渡るように神経が繋がってる、と今では言われてる。とりあえずあなたたちは人間が獲得したその特性を生かしてたくさんの人を救うために生まれてきたのよ」


 アロマの効果が弱かった頃は、身体に刃物を入れて内臓を触っていたらしいわよ?

 先生は指をわざとらしく不規則に動かしてそう言った。彼女の思惑通りヒカルたちは身を震え上がらせる。

 うふふと笑って、ヒカルたちの肩に優しく手を置いて去っていった。

 その手がやけに重く感じて、彼らは目を見開いてから手のあった場所に視線を移す。


「……人間の鼻には嗅上皮っていうのがあってね」

「先生の言ったことそのまま言ってもだめだよ」


 無理な知ったかぶりは即座に遮られる。知らなかったことを恥じるヒカルと、彼の赤面を見て笑うマコト。

 その日は帰りのバスで二人でサイエンスの教科書を見て勉強をして帰った。


 突風が吹いた。思い出の中から現実に引っ張り出される。

 もう小学生の姿はなく、その場所には向かいの建物の平面的な窓についた黒い柵があった。茶色の壁と黒の柵という地味な風景に彩りを添えるように、赤い葉を持つエアプランツの鉢が柵に掛かっている。

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