40. ローズウッド。

 第二診療室、つまりマコトが使う診療室に、熊のような大男が入った。のしのしと歩く音が聞こえてきそうだが、彼はその体格を隠すようにひどく猫背で申し訳なさそうな格好である。


「タケヤマさん? おひさしぶりです」


 そわそわしながら何度も会釈して注意深く椅子に腰を掛ける。

 彼の勤めるサイタマからクリニックのあるトウキョウまではある程度距離があるはずだ。


「以前緊張しすぎって指摘いただいてからリラックスを心掛けていたんですけど、どうも上手くいかなくて。アロマでどうにかならないかって思ってこちらに伺いました」

「リラックス効果のあるアロマありますよ。それを出す前に診察しますね」


 それから聴診器などいつもの行為をして、緊張以外は何の問題もないとわかった。


「ローズウッドというアロマを処方します。名前にローズと入っていますが、マメ科の植物なんですよ」


 ときどき彼が披露する豆知識を、タケヤマは興味深そうに頷いて聞いていた。

 看護師のいる部屋のスクリーンに、パソコンを用いてアロマの瓶を持って来るようにという指示を表示させる。移動せずに指示が出せるので便利だ。

 すぐにアヤノが瓶を持って入室する。彼女はこの日がひさしぶりの出勤だが、朝に延々と謝罪してからは以前と同様の働きぶりを見せている。

 木の香りの中にほんのりとローズが香るローズウッドのアロマをマスクに垂らしてタケヤマに装着する間、彼は初めて見るアヤノを凝視していた。

その視線に気付いた彼女は自己紹介をする。


「まだ高校生なのに自分の意思で働いているなんてえらいなあ……そういえば君はメープルシロップは好きかい?」

「はい、甘いものよく食べます」


 タケヤマは微笑んで、バッグから縦長の紙を取り出す。ちなみに微笑むとは言っても、彼はほぼ無表情なのでアヤノは彼の表情の変化には気付けていない。


「これ今日のお礼というか、まあそんなものです。ぜひまた、この子も一緒にお越しください」


 それは切り取り線が4本入った、『メープルシロップ採取券』なるものだった。

どうやら以前行った採取体験を無料ででき、さらにあのときの倍の量メープルを持って帰れる特典付きのサービスチケットのようだ。

 有効期限は来年の秋。あと1年ほどある。

 アヤノはタケヤマが何者かを知らないのでマコトに視線を投げ掛ける。

彼の仕事と、サイタマのメープルシロップ採取体験のことを話すと彼女は目を輝かせた。


「私も行きたいです! 皆さんの休みが合ったら行きましょう!」


 クリニックで働かせてくださいと言ったときと同じくらいの熱意だ。


「ああ、行こうな」


 そう言うと彼女はにっこり笑い小さくガッツポーズをして、ご機嫌な様子で退室した。

 ガッツポーズは失礼だろう、と思ったが、タケヤマはそのとき目を瞑っていたので何も言わないことにした。

 彼は嗅覚がないはずなのに、目を瞑ってマスクの香りに集中している。ときどきいるのだ、薄々ながら香りを感じられる人が。


 クリニックを出て行くタケヤマは心なしか肌の調子が良くなったように見える。ダンディな低い声で「また来ます」と言い残した。

 昼休憩のときチケットいただいたよ、とヒカルに言うと、彼は今すぐに行こうと言い始めた。

 しかし今は年末。全員が休める日はしばらく訪れないし、そもそもアヤノはまた学校生活に戻っていく。

 せめて来年度だなとマコトは思ったが、ヒカルが駄々をこねそうなので何も言わない。


 ヒカルは休憩室にあるコルクボードにチケットを張りながらマコトの様子を窺っていた。

 彼は最近時間があれば分厚い本を読んでいる。

 何度か昨日泣いたのだと明確なほど目を腫らしてクリニックに来ていたが、この頃はその目を見る回数も減ってきた。

 どうやら彼はハルエの旦那とどうにか隣の花屋を続けられないか、更に言えば息子に経営をさせられないか模索しているようだ。

起こってしまったことを悲しむだけでなく、家族に手を差し伸べて最も良い選択をしようとし続けるその姿勢にヒカルは少なからず影響を受けている。

 ヒカルは伯剌西爾行きの話を進めており、あのときの講師と何度か連絡を取っている。

海外との連絡は時間がかかって大変だが、年明けには行ける予定が立った。


「マコト、ここの文法がよくわからないんだけど」

「これが主語でこれが動詞、倒置法になってる」


 エイゴが得意なマコトに聞いて、更にエイゴ力をブラッシュアップしている。

 マコトはヒカルより歴史に関しても良く知っているのであまり質問することはないが、意外に脆い彼のメンタルを気に掛けるのがヒカルだった。

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