16. 敵わないな。

 夜、ヒカルは仕事着であるシャツを着たまま2階の居住スペースで万年筆を持って悩んでいた。

物音一つしない部屋では、万年筆のかりかりという音だけが彼の鼓膜を揺らす。

 真っ暗な部屋に、1つだけのデスクライト。

椅子を回して後ろを見ると、目を開けているのかすらわからない。

 ヒカルはその唯一のライトを消して机に突っ伏す。

腕の下にある手紙に書き付けられた自らの文字に焦点が合わず、ぼやけた黒い塊だけが視界に入った。

しばらくそれを眺めていると、目に痛みが広がりどんどん疲れていくような感覚がして目を閉じた。


 ピピピ、ピピピ……


「う……」


 ヒカルは右手を勘だけで机に這わせた。

指先に冷たいプラスチックの感触がしてその冷たい面に沿って指を上に動かすと、さらに冷たい金属の感触がした。

それを押してアラームの音を止めた。

 開院10分前。

普段ならクリニックの外の看板を出し終わっている時間だ。

何度もアラームが鳴っていたのに気付かなかったようで、きっとこれは3回目のスヌーズだろう。


「ヒカル、起きてるか⁉︎」


 マコトがノックも忘れてドアを思い切り開けた。

彼はヒカルの仕事着姿と今にも下りそうなまぶたを見ただけですべてを理解した。

はあ、とため息をつき、


「風呂入ってこい」


 と朝だからかかすれ気味の低い声で言って部屋から出た。

 ヒカルは何も答えず、ゆっくりとただ頷いた。


 風呂で髪を洗っているときもヒカルは物思いにふけっていた。

 その物思いとは、昨晩書いていた手紙のことだった。

手紙の宛先は、“浅野あさの愛海あみ”、タクミの母親だ。

 考えているうちに開院5分前になっていた。

ヒカルは自らの思考から抜け出して、時間とのみ向き合うように努めた。


 髪が少し濡れたままクリニックへ降りた。

エプロンを着けて診察室に向かうとき、ちょうど隣の診察室からマコトが出てきて、目が合う。

 寝坊を怒られるかと思い身構えるも、マコトは肩に手を置いただけで何も言わなかった。

 マコトにはヒカルが悩んでいることまでお見通しだった。

今朝見たヒカルの寝起きの顔や、頬に付いたシャツの跡などから、普段は寝付きが良く、いわゆる“寝落ち”ることのない彼がベッドでないところで寝ていたことがわかった。

ヒカルが“寝落ち”るのは何かに悩んで悶々としていたときしかない、とマコトは知っていた。

 マコトには敵わないな。

 ヒカルはそう思って、休憩時間に手紙のことを彼に相談しようと決めた。


 昼、先に休憩に入ったマコトを追いかけて、ヒカルは弁当を持って休憩室へ入る。

 途中見回ったカワムラの部屋からは、またタクミとソウの笑い声が聞こえた。

今までは多くても2日置きにしか来ていなかったソウが今日も来ているのはタクミのためだろう。

それほどタクミと話すのが楽しいのか、もしくはタクミが可哀想に見えたのか。

真意は本人以外誰にもわからない(もしかしたら本人にもその真意はわかっていないのかもしれない)が、何にせよタクミが楽しそうでヒカルは嬉しかった。

 休憩室にイノウエはいなかった。

そういえば今日彼女は休みだ。

 マコトの正面の、革がところどころ剥がれて黄色のスポンジが見える椅子に座り、弁当の輪ゴムを外した。

この休憩室にある椅子はどれもこんな調子で、勢いをつけて座ってしまうと尻を強く打つ。

 黙々と食事を口に運ぶマコトをちらと見た。

ただ弁当を凝視していて、ヒカルが何か言うのを待っているように思える。


「マコト。俺、タクミくんの母親に連絡をしてみようと思うんだ」

「何て言うんだ? 仕事を休んで来いと?」


 マコトは弁当から目を離さず、ヒカルが思っていたよりも冷たくそう言った。


「いや、ただの近況報告だよ。最後に少し、来院の依頼を書くつもり。その文章を一緒に考えて欲しいんだ」


 いつの間にか顔を上げていたマコトと目が合った。

初めは変わらず冷たい瞳をしていたが次第にその瞳に光が宿っていき、いつも通りの優しいマコトになった。

何でも受け入れてくれ、ヒカルを支えてくれる彼に。


 ヒカルの思うがままに書いた手紙をマコトに渡すと、その翌日には赤ペンで修正されたものが返ってきた。

それはもう手紙が真っ赤に見えるほどの修正の量だった。

 ヒカルは万年筆で清書をし、モモンガにその手紙を括り付けてすぐにタクミの母親へと送った。

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