アザミの棘の子守歌

風早 りん

序章

 昨日、「心臓組」の友達が、白衣の男たちに連れて行かれた。あの子はもう二度と戻ってこないだろう。今まで何人もの友達が、そうやって消えていった。次は自分の番かもしれないと少女は思った。


 少女自身は「心臓組」にも「腎臓組」にも、「小腸組」や「肺組」や「眼球組」のいずれにも属していない。白衣の男たちに言わせれば、彼女はきわめて健康なので、そんな組分けは必要ないのだそうだ。そのうち〈お客様〉との調整の都合がついて、お呼びがかかりさえすれば、己の体のいずこなりとも提供して人さまのお役に立てるのだ。


 白く冷たい廊下を、少女は裸足でぺたぺた歩いた。先ほど女看守に鞭で打たれた背中が痛い。白衣の男たちの目を盗んで、女看守はしょっちゅう子供達を鞭でひっぱたいたり、指先に針を差し込んで爪を剥がしたりするので、子供達はみな彼女を非常に恐れていた。


 何処へという当てもなく、少女は白い施設の中をさ迷い歩いていた。まだ記憶もないくらい小さい頃からこの施設で暮らしてはいるが、自由に出歩くことは許されていないので、少女はこの施設の全容をほとんど把握していなかった。


 今は昼食後の昼寝の時間なので、子供達はみんな大部屋で眠っている。少女は女看守の目を盗んでこっそり大部屋から抜け出してきたので、気づかれないうちに早く戻らなければならなかった。


 ある大きな部屋の前で、少女は足を止めた。恐る恐る部屋を覗いて、思わず目を丸くする。


 そこには彼女が見たこともない、黒光りする大きな機械が鎮座していた。機械の前と後ろには、大きな鉄の輪が一つずつついている。その輪は真っ黒なぶ厚いゴムのようなもので覆われていた。前後の鉄の輪の間には座席らしき部分があり、そこに座ってつかまれるよう、銀色に光る取っ手が二つ伸びていた。


 これが一体何をするための機械かはわからないが、その独自の形状の力強さ、圧倒的な量感に少女は思わず見惚れた。


 ぽかんと口を開けて立ち尽くしていると、機械の二つの取っ手の間に付いている小さな板に波状の光が走り、そこから若い男の声が漏れ出てきた。


「おい」


 少女は飛び上がって、おどおどと辺りを見回した。


「ここだよ」


 声は確かに機械から聞こえてくるようだった。少女は恐る恐る近づいた。


「その足音からすると子供かな。どうした?出歩いて大丈夫なのか?」


 穏やかな優しい声で問われて、少女は小さく呟いた。


「お外に咲いているお花を見たかったの。先生達に見つかったら怒られるから、お昼寝の時間にこっそり抜け出してきたの」


 男の声はあっさりと言った。


「本当はこんな所から逃げ出したいんだろ?逃げろよ、今のうちに。このままここにいると、お前さん殺されるぞ」


「でも……逃げても殺される……」


 少女は低いかすれた声で呟いた。一瞬、まだ幼い彼女の顔が諦念に沈み、老人のように見えた。


「逃げずにここにいたらいずれ必ず命を落とすだろうが、しかし逃げれば、生き延びる可能性だって少しは出てくるんだぞ」


 機械からは飄々とした声が淀みなく聞こえてくる。


「実は俺もこの施設から逃げたいんだ。ここの連中は、俺を悪い目的に使おうとしている。だが俺は一人では動くことができん。俺を運転してくれる人間が必要なんだ。どうだ嬢ちゃん、一緒にここを逃げないか?」


 少女の瞳に生気がよみがえった。


「お兄さんと一緒なら、行く……!」


 彼女は元気よく言った。「彼」と一緒なら、不思議と何も怖くないような気がした。


 その時、背後で小さな足音がしたので、少女はぱっと振り向いた。そこには大部屋で寝ていたはずの仲間が五・六人ばかり、ぼんやりした目をしてつっ立っていた。昼寝の最中にいなくなった少女を心配して、探しに来たらしい。


「みんな……」


「どうした?お仲間がそこにいるのかい?」


 機械は気さくな調子で、少女の後ろの子供達にも声をかけた。


「ちょうどいい、お前さん達も一緒に来るかい?俺の車体はでかいから、子供だったらかなりの人数を乗せていけるぜ。ちょっとばかし乗り心地は悪くなるかもしれないがな」


 しかし少女の予想に反して、仲間達は誰一人として、一緒についてくるとは言わなかった。彼らは顔を見合わせて、おどおどと小声で言った。


「逃げても、絶対すぐに捕まるよ。捕まったら今よりもっと酷い目に遭わされるよ、きっと」


「僕たち、この施設の中しか知らないもん。外の世界に出ても、生きていけっこないよ」


機械は半ば答えを予想していたのか、それ以上説得はしなかった。


「そうか……まあ、いいさ。選択肢を与えられた上で、どう行動するかはお前さん達の自由だからな。さて!」


 機械は少女に向かって、調子を変えるように言った。


「嬢ちゃん、俺の二本の取っ手の間に、光がちらちらしている板があるだろう?その板の左側に、赤いボタン……いや、赤い出っ張りがあるはずだ。そこを押せ。今、座席とハンドルの位置を低くしてやるからな」


 少女が言われた通りにすると、座席と銀色の握りの部分が、するすると音もなく下がった。少女は魔法でも見るような思いで目を丸くした。


「座りな、嬢ちゃん」


 促されて、彼女はおずおずと座席に小さな尻を乗せ、機械にまたがった。


「右手の取っ手を握りながら、左足のところにある出っ張りを蹴りあげるんだ。蹴ったら、右の握りを手前にひねりな」


 言われた通りにすると、機械からいきなり耳をつんざくような爆音が上がったので、少女は取っ手を握ったまま飛び上がりそうになった。機械はゆるゆると前進する。右手をさらに手前にひねると、速度が上がった。


「上手いぞ、嬢ちゃん!行くぜ、しっかりつかまってろ!」


 少女を乗せた機械は、一気に部屋を飛び出した。


 少女の瞳は、こちらをぼんやりと見つめている仲間達の顔を最後にちらりと捉えた。ほうけたように生気を失った表情、意思のないにごった瞳。彼らはもう二度とここから抜け出せないだろうことが少女にはわかった。


 廊下を疾走していると、爆音を聞きつけて白衣を着た男たちがあちこちから飛び出してきた。


「何をしてる、止まれ!止まるんだ!」


 一人の男が両手を広げて立ちはだかる。だが少女には機械の止め方などわからない。彼女は悲鳴を上げながら体を倒し、夢中で機械にしがみついた。機械はそのまま疾走し、男を思い切りはね飛ばした。


 少女には振り返る余裕もなかった。


(出口……!出口はどこ?)


 廊下の奥に透明な扉があり、その向こうに外の景色が広がっているのが見えた。少女は無我夢中で、機械を真っ直ぐその扉に向けた。


「嬢ちゃん、振り落とされるなよ!」


 機械がうなり、速度を上げた。少女が目をつぶった瞬間、硝子が割れる音とともに、粉々になった破片が辺りに飛び散った。


 機械は扉を突き破って、外に飛び出していた。


(まぶしい……!)


 太陽の光が目を刺し貫く。少女は身を伏せて、機械の取っ手だけは放さぬよう必死にかじりついていた。施設の外は赤茶けた荒野が広がっている。


自由を求めて、少女と機械はだだ広い荒野をどこまでも疾走していった。

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