ゴーゴーストーリー
女良 息子
01「まるで悪夢のような」
「……!」
全身を包む冷たさと肺を締め付けるような息苦しさに、サトー・ロータローは自分が水中にいるのだと知った。
口から漏れた泡が浮かんでいく方向を見ると、光が差し込んでいた。おそらく、そちら側に水面があるのだろう。
必死に足をばたつかせ、両手で水をかく。
そうして顔を水面から出し、空気を取り込むべく口を開いた。呼吸が出来たのはほんの束の間。すぐに波が押し寄せ、再び水面下に戻されてしまう。
元水泳部であるロータローは泳ぎに多少の自信があるが、こんな不意打ち気味な入水の直後では、まともに泳げるはずがない。
──マズイ、マズイ、マズイ!
危機的状況に陥ったことによるパニックと共にロータローの脳内にあったのは、「なぜ自分がここにいるのだろう?」という疑問だった。
彼の記憶で最も新しいものは、いつも通り就寝すべく自室のベッドの上で瞼を閉じた瞬間だ。
実は自分は今もベッドの上で寝ていて、悪い夢でも見ているんじゃないだろうかと思いたくなるが、肌に染みる冷たさや水を吸った衣服の重さが、今までどんな夢でも感じたことがないリアリティを告げている。
口に入る水のしょっぱさが味覚を刺激することから、ロータローは自分が水中は水中でも海中にいるのだという補足情報を得た。いま一番知りたくない情報だった。
「ふっ、はっ、ひっ、だっ……誰か……誰、かぁっ……!」
途絶え気味な呼吸をしながら、周囲に助けを求める。
とはいえここは海のど真ん中。
そう都合よく助けが訪れるわけがない……はずだった。
突如、ロータローの周囲が暗闇に包まれる。なんとかして顔を上げると、船がすぐそばを通りかかっていた。
とても大きな船だ。この巨体の影が落ちたせいで、急に真っ暗になったのだろう。
まさに渡りに船である。船体の所々に痛々しい傷が刻まれているが、逆にそれが貫録じみていた。溺死寸前のロータローにとってはこれ以上なく頼りに見えた。
ロータローは息を吸うと、
「助けてくれえええええええええ!!」
と叫んだ。肺の中の空気全部を絞り出したんじゃないかと思うくらいの大声だった。
それから少しの時間が経過する。SOSに返事の声は無く、小波の音が響き渡るだけだった。
心配になったロータローは再び口を開いた。
「お、おいっ! 誰かいないのかよ!」
「うるさいねえ」
船の上から声がした。女の声だった。
甲板から人影が身を乗り出して、こちらを覗き込んでいる。逆光になっているため、その全貌ははっきりとは見えない。
「今日は波が穏やかで、海鳥一羽飛んでないんだ。耳を澄ませば遠くの島の釣り人のアクビが聞こえてきそうなくらい静かだよ。海の上の生活で、こんな日が来ることは滅多にない。だというのに、アンタはなんだい?」
不機嫌という感情が滲み出ている口調で女は問いかけた。
「荒波で船がぶっ壊れたのか、何かのトラブルで船から放り出されたのか、それとも生身で海を横断中の大バカ野郎かは知らないが、こんな所で騒ぎやがって……溺れるんならもっと別の場所で溺れときな」
「俺だって溺れたくて溺れてるんじゃねえよ! ベッドの上で横になったと思ったら、次の瞬間にはここにいたんだ!」
「はあ? なんだいそりゃ。アンタ、作り話のセンスがないねえ」
「嘘じゃねえって!」
ロータローは抗議を続けようとしたが、波が顔にかかって中断される。
どうやら船が近づいたことでさっきより波が荒くなったらしい。体もだいぶ冷えてきた。これ以上水中にいるのは危険だ。
「と、とにかく助けてくれよ! このままじゃ溺れ死ぬって!」
「うーん、そうだね……おい、野郎ども!」
女は手を一回鳴らし、後ろを向いた。
「こんな大海原のド真ん中で溺れているアホな人間が、我ら『彷徨えるシットローズ号』への乗船を希望しているんだが、どこか手が足りてない仕事はあるかい?」
威厳のある声で女は言う。その佇まいから、彼女がこの船のキャプテンのような役職にいることが窺い知れた。
女は振り向いた体勢から戻り、再びロータローを見下ろす。
「何もないのに船員をひとり増やす余裕はないからね。この船に乗るなら、客人として対価を払うか乗組員として働くことが条件だ。見た所アンタは何も持ってなさそうだし、必然的に後者になるね」
それは逆に言えば、船にロータローの働き場所がなければこの場で見捨てられるということだ。
「ねえアンタ、何か得意なことはないのかい?」
「得意なこと?」
「船で働く上で役に立ちそうなアピールポイントってやつさ」
「そんなこと急に言われても……」
「「「キャプテーン!」」」
船の中からいくつかの声が湧いた。
「こちら機関室! 人手は十分足りてる!」
「こちら厨房! 新人が入る余地は無し! ていうか船員が増えると、そのぶん飯が減るから困る!」
「こちら操舵室! 海の真ん中で溺れてるようなやつに任せられる舵はねえ!」
「こちら戦闘班。よわっちい人間なんか百人いても役に立たないっすよー」
「というわけだ、じゃあな」
「待て待て待て待て待て待て! 待ってくれ!」
ロータローは必死で引き留めた。
ここで助けてもらわないと確実に死ぬ。
生存本能が脳の回路をフルで働かせ、口を必死に動かした。
「雑用でも何でもするから乗せてくれ! 頼む! ……あ! さっき、得意なことを聞いたよな!? それなら泳ぐことが得意だ! 元水泳部だからな!」
「海で生きるアタシに言っても自慢にならねえよ、そんなモン! ていうかアンタ、現在進行形で溺れてるじゃねえか!」
──ああ、終わった……。
ここで見捨てられたら、後には死しか待っていない。
気が付けば、ロータローの視界に広がる海面に三途の川の水面が重なりつつあった。胸中が絶望で染まっていく。
と、その時だった。
「ヘイ、キャプテーン!」
船の中から新たにひとりの男の声がした。
「そこで溺れてる奴って人間なんだろ? だったら引き取りたいってキロリッターの姉さんが言ってるぜー!」
「なんだって?」
女は驚いたような声をあげた。
それから何やら「そうは言ってもなあ」「いや、でもキロリッターは金払いがいいし」と呟いていたかと思うと、女はどこぞから取り出した一本のロープを投げ、ロータローの付近の海面に落とした。
「上ってきな!」
「え」
「何やってんだい! こないなら置いていくよ!」
どうやら自分は助かるらしい。
そのことをようやく理解したロータローは慌ててロープを掴み、海水でかじかんだ手で上って行った。
やっとの思いで甲板に降り立つ。海中で体力を酷使した疲労感と助かったという安心感からどっと力が抜け、その場に膝に手を付き、荒い息を吐いた。
「ったく、疲れて礼のひとつも言えないなんて、情けないねえ」
「あ……ああ、ありがとう」
ロータローは謝意を述べながら顔を上げた。
女の顔はもう逆光で隠れていない。
年齢は二十代の後半から三十代の前半あたりだろうか。
腰まで届く長い赤髪がウェーブを描いていて、威圧感のある瞳が百八十センチに届かんばかりの高さからこちらを見下ろしている。黒と赤を基調とした船乗り風の服を着ており、同系統の色合いをしているコートをマントのようにして肩にかけていた。
一般的に美人に属する顔立ちだと言えよう。……顔面の右半分の肉が腐り落ちて頭蓋骨を晒していなければ、の話だが。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ⁉」
ホラー映画に出てきそうな女の顔を認識したロータローは絶叫した。先ほどのSOSですら出なかったくらいの大声だ。
「ば、ばばばばば化物⁉」
「あン? なんだい、人の顔見て悲鳴をあげるなんて失礼なガキだね」
女は顔の原型が残っている方を顰めた。
「文句があるなら今からでも海に戻しちまうよ、コラ」
「まーまー、キャプテン落ち着いて落ち着いて。この人間、たぶんアンデッドを見たことがないんでしょ。仕方ないですって」
女の背後には何人かの船員が集まっており、その内のひとりが宥めるように口を挟んだ。彼の顔には血の気が無く、真っ青だった。
「ひっ!」
思わず目を逸らす。その先に立っていた水夫は、まるで幽霊みたいに体が半透明になっていた。
「うわっ!」
次は頭に短剣が深々と突き刺さっている船員が視界に入る。
「ぎゃあ!」
骸骨がこちらを見てケタケタと笑っていた。
「ひええ!」
視界に映る船員たちは全員、化物じみた格好をしていた。
それに、何というか全体的に生気が欠けた雰囲気を漂わせている。
「な、なんだよここ……」
目の前に広がる悍ましい光景に脳の処理能力が限界を迎えたロータローは、怯えて一歩退がろうとする。しかし、濡れた体から落ちた水滴が、いつの間にか足元に水溜まりを形成しており、足を取られてしまった。
ずるっ──と。
爪先で黄金長方形の螺旋さながらの美しい軌道を描きながら、ものの見事に滑って転ぶロータロー。受け身など取れるはずもなく、後頭部をモロに襲った鋭い痛みに意識を持っていかれた。
「うわっ! お、おいっ!大丈夫かおまえ⁉」
「ったく、ドジだねえ……いや、さっきのバチが当たったのかね」
こちらを心配する船員たちの声と女の罵倒が聞こえてくる。
意識が遠ざかっていく感覚は、夢の世界に入眠する感覚と似ていた。
「キャプテーン、どうしますかコイツ?」
「まあ死にはしないだろ。放っておきな。そのうち目を覚ますさ」
いくらなんでも人情というものが無さすぎるのではないだろうか。
いや、顔の半分が無くなっても生きている女がそもそも『人の情』を持っているのかは怪しいところなのかもしれないが。
意識が完全に途切れる寸前、青い空が見えた。
そこには太陽がふたつ浮いている。
……ふたつ?
太陽って、ふたつあるものだったっけ?
──ああ、やっぱりこれは現実じゃなくて悪い夢なんだ。目を覚ませば、自分の部屋に戻っているはず……。
そんな希望を抱きながら、ロータローは意識を闇に落とした。
◆
引きこもりのきっかけは些細なものだ。
ある日、ふと「頑張るのってめんどくさくね? どう考えても非効率的じゃん」と思い、その考えに従って水泳部に退部届けを出した。
一度なにかを諦めればそれは連鎖するものであり、そのまま学校を休みがちになり、気が付けば引きこもりになっていた。
こうして立派な省エネ人間、あるいはダメ人間が完成したのである。
その結果が海のど真ん中に転移だなんて、まるで天罰のような気もするが……それはさておき。
ロータローは目を覚ます。
背中の感触から自分が何かの上で横になっていることを知った。周囲を水で包まれている感覚はない。
──ほらな、やっぱり夢だったんだよ。
安心して瞼を開く。
視界に映ったのは、こちらを覗き込む骸骨だった。
「ぎやあああああああああああああああああああああああああ!」
「わああああああああああああああああああああああああああ⁉」
「いや、なんでお前も驚いてるんだよ」
「やっと目を覚ました奴が急に叫んだら、驚くに決まってるだろ! あー、びっくりした!」
人間の心理とは不思議なもので、感情が乱されたとしても、自分よりも激しい感情の只中にいる相手を目にすると一気に落ち着きを取り戻すものらしい。そんなことが書かれていたネット記事を思い出すロータローであった。
寝ている姿勢から上半身を起こし、瞼を閉じる。息を深く吸い、大きく吐いた。心音は正常、もうさっきのように不安定な精神ではないはずだ。
自己のメンタルの診断を終えたロータローは、再び目を開いた。正常な視界には、相変わらず骸骨が映っている。
逆方向に視線を向ける。そこには窓があり、その向こうにはふたつの太陽が浮かぶ空が広がっていた。
「もしかして、これは……」
流石に二度も続けば、目に映るものを夢だと思い込むのも無理がある。
見慣れぬ空とファンタジーみたいな怪物たちのことを思いながら、ロータローは呟いた。
「いわゆる異世界転移というものをしてしまったのでは?」
「いせか、いてんい? なに急に意味不明なこと言ってんだおまえ? 頭でも打ったのか? ……って、さっき打ったばかりだったな! あっはっは!」
骸骨は大きな声で笑った。顔に肉がついていないのに、豪快な笑顔を錯覚するくらいの笑いっぶりである。さっきの悲鳴といい、おどろおどろしい見た目に反して割と感情が豊かなタイプなのかもしれない。
室内を見渡す。そこにはロータローと骸骨以外誰もいない。色んなものが雑多に置かれており、木箱を並べて作られた即席のベッドの上にロータローは寝かされていた。
ときおり部屋全体が僅かに揺れる感覚は、ここが海の上であることを示している。
「キャプテンが言った通りにあのまま甲板に放っておいたら邪魔だったんでな。結局、手の空いてたオレが、目を覚ますまで見といてやることになったんだよ。大変だったぜ? お前をここまで運ぶのはよ」
「それはどうも、ありがとな……ええと」
名前を呼ぼうとしたが、ロータローは骸骨の名を知らない。流石にそのまま骸骨呼びするのも躊躇われるので、言葉に詰まった。
そんなロータローの心情を察したのか、骸骨は名乗った。
「スメネシだ。呼びにくいだろうし、スメなりメネなり好きなように呼んでくれ」
「そうか。俺は蝋太郎。砂塔蝋太郎だ。じゃあ改めて、ありがとな、メネ」
「いいってことよ。……そんじゃ、オレはお前が目を覚ましたって報告してくるわ。お前はそうだな……キロリッターの姉さんに会いに行っとけ。たぶん、船尾の客室にいるだろうから」
「キロリッター……っていうと、あの……」
ロータローの命の恩人だ。キャプテンの女と船員たちの会話を思い返すに、キロリッターがロータローを引き取ると言わなければ、彼は今頃海の底に沈んでいただろう。
「ったく、羨ましいよなあ。あんな別嬪さんに拾ってもらえるだなんて。俺も肉と皮があればアタックしてるんだが。……いや、今からでもイケるか?」
「そんな綺麗な人なのか⁉ っていうか、この船ってお前たちみたいな……その、ええと、ほとんど死体みたいな見た目をしている奴以外もいるのかよ」言葉を選ぶロータローだった。
「姉さんは客人として乗っているからな。正確にはこの船の乗組員じゃねえんだよ。それに、あのヒトは綺麗なんてレベルじゃねえ。ウチみたいなシケた船に乗ってなければ、こんな世の中でも顔だけで一生分の金が稼げるくらいにはバケモンじみた美しさだ」
「うお、うおおおお……」
思わず鼻の下が伸びる。
命の恩人であるキロリッターの情報を聞いて、そんな下卑た反応をするのはどうかと思われるかもしれないが、それでもロータローが健全な青少年(引きこもりを健全と言っていいのかは議論の必要があるかもしれないが)である以上、そうなってしまうのも仕方ない。
「ま、精々死なない程度によくしてもらいな」
スメネシは最後に何か言って、報告に向かうべく簡易ベッドから離れたが、期待に胸を膨らませているロータローの耳に届かなかった。
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