帰還
次の日から、美波が部室に来なくなった。
「やっぱり藤子ちゃんの言う通り、辞めちゃうのかなぁ?」
すみれが小さく、ひとりごちた。
同好会の頃から見てきた、謂わば初期メンバーのようなものであり、また根っからのファンのようなものでもある。
屈辱まではいかないまでも、耐え難いところはあったのかも分からない。
「無理なら仕方ないって…美波さんだっていろいろあるんだろうし」
言葉を拾ったのは優海である。
「でもね、みんなそれぞれ、このチームに対して深い愛情を抱いてるってのは分かった」
私たちって、幸せなチームにいるのかも知れないね──優海は言った。
「そういう意味では、藤子ちゃんの意見通り誰も欠けたらダメな訳だし…難しいなぁ」
優海は腕をこまぬいた。
一方で。
それまでほとんど意見らしい意見を出さなかった雪穂が、何日かして、急に美波の教室へあらわれた。
一年生と三年生は階が違うので、まずそれだけで行くのに勇気も要ったかもしれないのだが、そういったくそ度胸のようなものは、雪穂は持ち合わせていたようであった。
奇事、と言っていい。
「あの…美波先輩?」
「えっ…ゆ、雪穂ちゃん?!」
廊下まで出ると、
「アイドル部、ホントに辞めちゃうんですか?」
「うーん、さすがに居づらいかなってのがあるとさぁ」
日頃はサバサバして、
「乾みなお」
などと揶揄されるほど男勝りなはずの美波も、このときばかりは、どうしたことか歯切れが悪い。
「私は美波先輩がいないと困ります」
「なんで?」
「上手く説明出来ないんですけど…なんかいるとホッとするんです」
「だからって別に困らないと思うけど」
「美波先輩は困らないかも知れないでしょうけど、私が困るんです!」
雪穂が語気を強めたので、周りの視線が集まった。
見るからに小悪魔っぽい美少女の雪穂が、姐御肌の美波と何やら話し込んでいる光景は、下手をすると女同士の痴話喧嘩にも見られてしまいかねないやり取りではあろう。
しかも。
黒目がちな雪穂の、少しとろんとした眼差しで見つめられてしまうと、美波でもドキドキする。
雪穂は美波の目を凝視すると、
「夏休みの合宿…来てくれますよ、ね?」
雪穂が繰り出す上目遣いのウィンクに、
「う、うん」
たじろいだ美波は思わずうなずいた。
「じゃあ、また一緒にいられますよ…ね?」
「う…うん」
雪穂の言葉のチョイスはたびたびあらぬ噂や誤解を招くのだが、これでは完全に間違えた認識になってしまう。
それは美波も悩ましい。
「…良かったぁ」
雪穂は美波の手を握ると、
「必ず来てくださいね、美波先輩」
雪穂はようやく、ホッとした様子を見せた。
「…まったく、雪穂って小悪魔だよねぇ」
「?」
「こないだのリラ祭もそうだけど、雪穂は女優さんになれそう」
「私はアイドルのままがいいなぁ」
美波はすっかり、雪穂の振る舞いに蕩かされたようなところがあった。
「あれは小悪魔にたぶらかされたね、完璧に」
などとののかにからかわれたが、ともあれ退部だけは避けられた格好となった。
しばらくして。
部室に再び、美波があらわれた。
「なんか、雪穂が来いって言うから…」
美波はなぜか帽子をかぶっていたが、照れ臭そうにうなじを掻いた。
おもむろに帽子を取ると、
「…!?」
肩胛骨まであった髪を、何とショートカットにしてあるではないか。
「…髪切った?」
思わずののかが訊いた。
「何そのタモさんみたいな訊き方」
澪は思わず、ののかの表現があまりにもハマったので、笑い過ぎで澪は椅子から崩れ落ちた。
「十年ぶりにショートにしたさ」
ショートカットにすると、美波の健康的な雰囲気がより強まって、むしろ爽やかな色気が加わったように見えた。
「これはますます雪穂と怪しい関係って疑われるよね…」
優海のシャープな指摘に、再び澪が笑い出した。
立てない。
「こ、…腰抜けた」
どうやら力が入らないらしく、すみれが手を差し伸べてようやく澪は起き上がれた。
期末テストも終わり、夏休みが始まると、メンバーと顧問の清正はバスで小樽の水族館から目鼻の先にあった、宿泊施設での合宿に向かった。
午前中は宿題を片付け、ランチのあとダンスをレッスン、夜はミーティング…という毎日が始まり、八人のアイドル娘たちは、ときに息抜きで近くにあった祝津の海岸で遊んだり、バスで小樽の中心部へ出て買い物をしたり…といった、至ってありきたりな女子高校生らしい時間も過ごした。
夕方になると、見晴らしの良い鰊御殿の駐車場に集まって夕焼けを眺めたりするのだが、七色に変わった夕陽の空に、白い羽を桃色に染めた鳩の群れが、悠揚迫らず積丹岬を目指して羽ばたいてゆく。
脚力をつけるために日和山の岬の灯台を目指しダッシュをしたときなどは、例の捻挫で少し足を悪くした藤子がタイムキーパーとなって順位をつけたりした。
ダンスの出来る唯とテニス部出身の美波、専門的なトレーニングの経験がある優海とすみれは早かったが、澪とののか、雪穂は体力に差があるのか、どうもスピードが上がらない。
すると、
「しっかり腕を振って、腿を上げるようにすると早くなるよ」
スポーツの知識がある美波のアドバイスを受けて走ると、タイムが少しだけ速くなった。
合宿も終わりに差し掛かった七夕──北海道は八月七日である──の夜、ミーティングが終わると、
「あの、…ちょっといいかな?」
藤子が手を挙げた。
「どうしたの?」
基本的に藤子は積極的な発言はしない。
人から訊かれれば的確に答えるが、かといって余計なことは言わない。
その藤子が、自分から発言するのは椿事であろう。
「私ね…マネージャーになろうかと思うんだ」
「…マネージャー?」
爆弾発言に一瞬、理解ができなかった。
が。
普段おっとりした雪穂が即座に反応した。
「藤子ちゃん、正気?」
「うん」
冷静に藤子はうなずいた。
ずっと考えていたことらしかった。
「私ね、合宿で気づいたんだけど…タイムキーパーとか事務とかやって、こっちが向いてる気がしたの。それに私、ダンスちょっと駄目になってきてるし」
例の捻挫のあと、藤子は左の足首に違和感を抱えるようになっていたらしい。
「だけどみんなのことが大好きだから、それならマネージャーになろうって」
藤子の言葉の端々には、固い決心が漂っていた。
実のところ藤子には、言い出したら引かない面があって、達観と言えるほどまで俯瞰できるだけに、決めたら動かない頑固さすらある。
黙って、みな聞いていた。
しばし沈黙があったのを破るように、
「…藤子、なんで我慢してたの!」
たまらず唯が叫んだ。
「あんたって昔からいつも、なんで我慢ばかりするの?」
昔からそうじゃない、と唯は、幼なじみらしく小学校の給食でプリンが出たときの話をし始めた。
「ガキ大将にプリン取られて、普通の子なら泣いちゃうようなシチュエーションなのに、藤子ったらうちで食べるからいいよって。ホントは悔しいくせに絶対に泣き言なんか言わない」
逆にそうした藤子だから、アイドル部に安心感と落ち着きを与えていたのかも知れない。
そんな藤子がマネージャーになる…という意味がどれほどであるか、それを唯は、痛いほど分かっていたらしい。
「だからどれだけ、悔しくてつらいかを分かるから…だから…」
抑え切れなくなったのか、唯は目を憚ることをしようともせず、声を放って
みな人間が本気で泣くのを、初めて見たような気がした。
翌朝。
「おはよー」
いつものようにさりげなく、しかし気丈に振る舞う藤子に、澪とののかはぎこちない返事しかできない。
澪も思わず、
「好きなことを好きなようにやろうとすると、こんなに苦しいんだね」
あまり弱音を吐かない澪の本心に、ののかは、
「だから達成感が半端じゃないんだよ」
「…えっ?」
澪は向き直った。
「だからさ、私たちは藤子の分まで頑張らなきゃいけないんだって」
ののかは本心を悟られまいとして、つらいときほどわざとおどける癖がある。
しかし今のは本音かもしれない、と澪は感じたのか、
「うん!」
明るく返した。
合宿の最終日、全員で日和山の灯台まで来ると、
「ね、みんなで写真撮ろ!」
澪は清正に、デジタルカメラを渡した。
清正はさらに近くにいた鰊御殿の警備員に、
「すいませんが、シャッターお願いできますか?」
「もちろん」
そうしてメンバー八人と清正で数枚、メンバーだけでさらに数枚撮影すると、
「札幌に戻ろう」
澪はカメラを手に、メンバーと共に坂を降りてバス停へ向かった。
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