十七、道化イサイの踊り狂い
これは、おいらの最後の舞台の話だ。
「ディディは
声が一瞬上擦って響いた。
おいらは次の言葉を繋げる前にひとつ息を吸い込んだ。
ここは重厚なシーンだ。
声がひっくり返っちゃ台無しだ。
減り張りはいつだって大事である。
お笑いみたいなものは、もう少し後なのだ。
細心の注意を払いながら、腹の底が震わせるようにして再び言葉を紡ぐ。
「その動き、流麗、華美。まるで水の流れるよう。
おいらは語りながら、ディディの動きを思い出す。
そう、ディディはあの時、アムカマンダラ大路のど真ん中で、魔法みたいに
閉じた瞼の裏で、黒い
滑るような足運び。
目の覚めるような腰の捻り。
鬱積を晴らすように伸びる体。
アムカマンダラを自由に舞う、本物の
その面影を追いかけるように、自分の体を投げ出し、強く切り返してまた踏みとどまる。
おそらくディディの動きの幾ばくも甦らせることは出来ていない。
それでも、おいらのやるべきは、この感動を伝えることだ。
今までのひょうきんな動きが滑稽であれば滑稽であるほど、この演舞は鮮烈に人の目に写る。
道化が人をぺてんにかける生き物だというなら、物語の舵を大きく切る事こそがおいらの最大の詐欺だ。
表現に果てはない。
物語を描き上げること、その細部の調律、演奏の技術、己の人間性、見る者の思いの動きと、伝えるべきこと。
全てが爆発して、おいらはその深淵に向かって沈んでいく。
見たことのないその目映いきらめきへ。
この世で最も静寂な虚空へ。
おいらは最後に、赤茶の布を騎士に見立てて右へ左へ投げ飛ばした。
そうして目の端に捉えた景色に、現実感の無さを覚える。
沢山の顔が、おいらを見ていた。
祭りの山場と言えるこの時に、中庭いっぱいに人々が大挙を成している。
彼らは、おいらの芸に魅せられて足を止めているのだ。
その心は童心に返って、おいらの動きに目を細めている。
今、この空間を支配しているのは“面白いこと”だ。
ただその感情に、人は心を任せている。
味のないスープのような型通りの毎日、そのくせいつでも頭を付いて回る煩わしいこと、そういうことから解放されている。
高揚感の渦。
たった今それを産み出しているのは、おいらだ。
これ以上に誇れることがあるだろうか。
感情のうねりに身を委ねて、おいらが暗い岩肌の天井を見上げた時だった。
胸に一人の少女の顔が浮かんで消えた。
そのことが、寸での所でおいらを現実に引き留めた。
危ういところだ。
片隅に冷静さが座していなければ、芸は独善的なものになる。
おいらは次の展開を即座に思い起こして、芸に戻った。
「ああ、素敵。あなたは世の理に愛されている」
おいらは、今度は女神パレルバチを演じる。
顔の脇に括りつけた美女の面を顔の前に滑らせるのだ。
「あなたこそ、わたしの愛を受けとるべきお方」
喉の裏っかわを使った澄んだ声。
こいつはおいらが芸を磨く中で身につけた技だ。
「ああ、パレルバチ! こんなに必死に舞ったのに!」
女神の次に現れるのは、哀れな道化──おいら自身だ。
道化は女神に夢中、長年追い求めて右往左往している。
けれどもそれをいとも簡単にディディにかっさらわれてしまう。
そう、この舞台の主役は黒風のディディじゃない。
道化だ。
道化は女神の気を引こうとディディのことを謳い上げるが、かえって女神はディディに好意を寄せる結果になる。
物語の立ち上がりは、ぶきっちょな道化のリュートと唄が彩る。
調律のめちゃくちゃな我が相棒は、大事な掴みを立派に果たした。
この話の下地は、よく芝居で取り上げられるような寝取られ物語である。
哀れな道化。
けれど物語はここからさらに展開する。
道化には、大事な娘がいる。
愛すべき娘、メナシェ。
彼女の存在がありながら、道化は女神の尻を追いかけてばかりいるのだ。
道化は、娘に脛を蹴飛ばされて悶絶する。
おいらは、幼い少女の面を被って思いっきり杖を振った。
それをくるくる回して、面を外したおいらがその直撃を受けてみせる。
その器用な一人芝居に、観客からはどっと笑いが起きた。
道化は、おどけるものだ。
けれど、ただおどけているだけでは、足を止め続ける観客は好奇心旺盛な子供たちに限られてくる。
あくまで“喜劇を演じること”をしなければ、人々の目を拐い続けることは出来ないのである。
そしてここからが山場だ。
ディディは、道化のそのあまりの憐れさを目の当たりにして、世界の秘密を語って聞かせる。
そう。
世界の秘密。
英雄ディディは、まだ黒風の名を帯びていなかった青年に向かって、世界の秘密を話したという。
それは、一体なんだろうな?
おいらにゃそれは分からない。
英雄が見ていた世界をおいらが垣間見ることが叶わない以上、それを知るのはその名を受け継いだ者だけだ。
だからこれは、おいらの解釈だ。
おいらが知り得た世界の秘密。
おいらの前で美しく舞うように戦った黒風のディディが、おいらに教えてくれたことだ。
「本物、とは一体なんだと思う? このまやかしの太陽が照らす地底で、まやかしの毎日を生きているおれたちは、果たして真実の欠片でも胸に生きているのか? 一体どれだけの本当を、語ることが出来る?」
おいらは歌い手のごとく二本の足を開いて立ち、空気をまるごと掬い上げるみたいに声を響かせた。
朗々と反響する声に、広場の人々はしんとなっておいらを見つめた。
「おれは偽物であることを知っている。けれども、それは偽物の真実だ」
わん、と響くものは、もうおいらの声ではないみたいだ。
偽物の真実。
そう、偽物だからこそ分かる本当だ。おいらはさらに続けて訴えた。
「偽物であることを知っているなら、そこから生まれることは、本物だ」
おいらとメナシェは偽物の親子だった。
血が繋がっていなくて、おいらは何度もメナシェを裏切ったし、メナシェは最後においらと別れるその刹那、おいらのことを「イサイ」と呼んだ。
最後の最後まで突き詰めたところで、「親父」ではなかったのだ。
メナシェにとってのおいらは。
無理矢理にでも、親子になろうとした。
偽物であることを覆い隠そうとするように。
けれど、そんなやり方じゃ駄目だった。
でも、今なら。
今からなら、上手くいく気がするんだ。
偽物だったとしても、本物の
人は本物であることができる。
あの男は、多くを語らなかっし、そんな風に思っちゃいなかったかもしれない。
それでもおいらは強く思った。
黒風のディディは、本物の
だから、おいらは確かめたい。
例えば道化でも、本物でいられるだろうか。
おいらが全てを懸けてきたこの芸は、本物に成りうるだろうか。
それを教えて欲しいんだ。
どうしても、おいらは知りたい。
あの男みたいに、本当に人を楽しませる存在になれたのか。
おいらの芸は本物たりえたのか。
道化は立ち上がる。天を振り仰ぐ。
腕を広げて、喉も割けよと叫ぶ。
「教えてくれ、女神よ! おいらは、本物になれたのか!」
声が轟いた。
鼠色の建物がひしめくこの裏通りで、人々の表情の海がその色形様々な顔でおいらを見、そしておいらにつられるように天を見上げた。
そこには、水に溶けた錦のような靄が広がっていた。
灯台の鮮彩な光玉の灯りを受けて乱反射する、極彩色の霞。
アムカマンダラの雲。
地下の掃き溜めに住む者にとっては、なんら特別でもないその光景が、それでもその時のおいらには違って見えた。
それは気分の高揚から来る一種の幻覚かもしれない。
のぼせるようになっていた頭に、目がかすんだだけなのかも。
それでも、おいらの目には、地下に差すはずのない、日の光が差し込んだように見えた。
色の乱舞する霧が、全てを肯定するようにうっすら光ったように見えたのだ。
まるで、女神が微笑んだみたいに。
その時、冷たいものが頬に当たった。
ぽつり、とそれは右頬に落ちて、それから掲げた両の手に相次いで落ちた。
見渡す限りの虹色に、不思議な糸がすっ、と落ちてくる。
銀色の軌跡は、今度は幻覚でもなんでもなかった。
雨だった。
ここは間違いようもなく、地の底だ。
そこに、唯一降る雨がある。
アムカマンダラの
それは
アムカマンダラの虹雨が、突然降り始めた。
思いもよらぬ奇跡に、人々はどよめき、それはすぐに歓声に変わった。
ぱらぱらと起きた拍手は、やがて大きな波になって中庭に沸き上がった。
興奮して声を上げる者、指笛を鳴らす者、踊り始める者までいる。
万雷の喝采を浴びながら、おいらは思わず立ち尽くした。
しまった、これじゃあ喜劇のオチがつかないぞ、なんてことを頭の片隅がいっていた。
本当はこのあと、娘と女神の両方を手に入れようと欲張った道化へ天罰が下って、なんて段取りがあったのだ。
けれど、それもどうでも良くなってしまった 。
嘘みたいな感動の渦が、そこにはあった。
人々の歓びで、中庭は溢れ帰っていた。
夢のような偶然が呼んだ、奇跡だ。
その渦の中心にはおいらがいた。
おいらはしばらく、呆気に取られて人々の歓喜と称賛を眺めていた。
色々なことの答えを、目の前の人々が教えてくれている気がした。
人生を懸けるだけの価値が、あった。
心地の良く肌に跳ねる雨の感覚を感じながら目を閉じた。
おいらは傘を持っていない。
地底に生きる人のほとんどがそうだ。
でも、あいつは大丈夫だ。
瞼の裏に、
誰よりも、その娘は可憐だった。
花のように愛くるしくて、笑顔は澄み渡った水のように無垢だった。
今この時、おまえの胸の内に喜びがありますように。
地上へ抜けるメナシェを思って、おいらはゆっくり目を開けた。
一隻のダウ船が丁度頭上を通り過ぎて行く所だった。
その浮遊槽はふと、おいらの上に影を落とした。
黒ずんで見えるそいつの縁から、なにかが身を乗り出した。
なんだろう、あれは。
おいらが目を細めた時、人影らしいその暗影は躊躇なく船縁から飛び出した。
あっ、と声を上げようとした時、氷の塊が砕けたような、甲高い音がした。
なにが起こったかを整理する暇もなく、人影がおいらのすぐ隣にどすんと落下した。
それが
「ディディ──」
「伏せろ、イサイ!」
ディディはおいらを振り返るなり、切迫した怒鳴り声をあげた。
その灰の瞳は見開かれて、おいらの背後を注視しているように見えた。
思わず、おいらは後ろを振り返った。
そしてそこで全てを理解した。
離れた居住区の窓に、きらっと光るものがあった。
弓につがえられた矢だ、と思ったとき、それはうなりを上げて急激に近づいてきた。
ディディがなにかを叫んだと思った。
でも、それから先はなにも分からなくなってしまった。
痛みだとか、苦しみだとか、そういうものが一瞬のうちに体の内を駆け巡ったような気がした。
体はおいらの支配を離れて、床に転がった。
景色が消えて、掠めた血の臭いも消えた。
おいらは真っ暗な断崖から落ちてしまったみたくなって、全てが失われていくのを感じた。
閃光のような速さで、メナシェの後ろ姿がふと浮かんで消えた。
誰かの声が、これで筋書き通りになった、といった気がした。
そうか。これは天罰か。
それじゃあおいらの考えた通りになって、これはちゃんとした喜劇になる。
おいらはぼうっとそんなことだけ最後におもった。
不思議に、肌に振りかかる雨の感覚だけが、残っていた。
刺さるように冷たく感じる。
誰か、お願いだ。
誰か。
その冷たいのを遠ざけてくれないか。
と、ふわっとしたものが雨を遮った。
布みたいなものがかけられたのかもしれなかった。
誰かの同情みたいな優しさが、小さく起きた風に感じられた。
「やっぱり、おまえ」
掠れた声が、失意のうちに絞り出すような調子でいった。
「
なんのことをいっているのかは、もうさっぱり分からなかった。
おいらはただひたすらに、闇の世界を落ちた。
地底のどの闇より、暗いとおもった。
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