十五、黒猫カーリーの祭り巡り
小生とディディがちょうどよい席を見つけて腰を下ろした頃、アムカマンダラ大路では御輿の練り歩きが始まって、ひとたびの絶頂を迎えていた。
小生は、ハヌディヤー通りの外れに座す四階建ての
牙象の後ろからは、宙を飛ぶジャンク船が続く。
プネー市の職人が腕によりをかけて作り上げた
さらにその後ろには小型の浮遊槽、ダウ船の群れが続いて、さながら海中の鯨とそれに連なる魚の群れだ。
そうかと思えば、次に姿を表したのは千変万化の仮面を被った巨人たちの行進だった。
「ディディ、おいディディ! すごいなこれは!」
「ああ。すげぇな」
小生はぴくりと尻尾を震わせて、思わずディディの顔を除き上げた。
自分から声をかけておいてこういうのはなんだが、まともな相槌が返ってくるとは思ってもみなかった。
“アムカマンダラの虹雨”というのを聞いたことがある。
アムカマンダラに降るといわれる伝説の雨で、地底にも関わらずそれは虹色の発色を伴って人々の上に舞い落ちるのだ。
まったくもって馬鹿げた話だ。
つまり小生が言いたいのは、ディディの様子はこの地底街に雨すら降りかねない様子であるということだ。
華々しい御輿行列にそぐわぬ真面目くさった顔。
そこらで仕入れた酒と
小生は思いつきの悪戯を口にしてみることにした。
「こんなにも壮大な祭りを、小生のような美しい猫と眺められるというのは、人間として誉れ高いものがあろうな?」
「ああ。まったくだ」
なんと。
小生はつぶらな目をまんまるにしてもう一度ディディを見た。
ついに小生のような美猫を飼い猫にしているということを自覚したのか。
小生が猫の中の猫であり、世界に二匹とない存在であることを。
そしてその小生を相棒にしているということの尊貴さを。
ついぞ思い知ったと、そういうわけか。
などと思い巡らせてみたものの、この男に猫を愛でる心の豊かさがあろうはずもない現実は知れたこと。
隣の痴れ者は、祭りを見ているようで見ていないのであり、酒と
どうせこいつの頭の中は、イサイが今日のこの祭りの日にどうするつもりなのか、ソソはどう動くのか、ゼバドがなにをしでかすつもりか、そんなことで一杯なのである。
もしくはそうでないとしたならば、ディディの考えていることはこうだ。
“なぜおれは、思い出したくもない昔のことを考えているのだろう”。
「なぜおまえは、思い出したくもない昔のことを考えているのだ?」
ディディの灰色の瞳が鈴のように大きく張って、瞼がぐっと見開かれた。
どうやら図星のようだ。
分かりやすいのだか分かりにくいのだか、よく分からない男である。
この男に小生より優れた連れ合いを持つ甲斐性があるとも思えない。
が、かつてディディと連れ合いであった者の話などは、小生とて面白くない。
妙にもったいぶって昔話をしたがらない態度も小生に失礼である。
されば、そろそろ飼い猫に秘密を打ち明ける時ではないのか?
ディディは大きく舌打ちをすると、例の三拍眼で小生を睨んだ。
「そういう余計な回転を働く脳みそを、その小さい眉間のどこにしまってやがるんだ?」
なんと。
今こやつは、小生の額の小ささを馬鹿にしたのか。
猫に向かって額の問題を口にすることは、猫社会における死を意味することを知らんのか。
例えようもなく無礼極まりない不遜な男だ。
しかしむべなるかな、それは分かりきっていたことでもある。
だからこいつと付き合っていくということは、小生が大人にならなければならないということなのである。
飼い猫に我慢をさせるとはとんだ猫不幸者だ。
今ここでディディの過去を探ってみれば、面白い話が転がりでてくるかもしれなかった。
人には過去を話してもよいと思えるときというのがある。
ディディにとって、今はその時のように小生には思えた。
されど今口にすべき言葉は、もっと別のものだと、小生は思った。
「小生のごとき絶世の美猫を隣において、その態度は許しがたい。改めよ」
ディディは一時毒気を抜かれたような顔になって、口を開けて小生を見た。
「抜かしやがれ、化け猫」
売り言葉には買い言葉だ。
小生も狙いすましたように言い返す。
「その化け猫と口をきいているあたり、おまえもよっぽどだな」
なにを、という顔のディディが、喉の奥をぐるると鳴らした。
その猫のような態度に、飼い主が飼い猫に似るということもあるのやもしれぬと思った。
小生は、ひとはだをふれたようなぬくい感じがした。
そういうやり取りだった。
これでいい。
一歩を踏み込めるような瞬間は、たった今暫し失われることになったのだろう。
だがそれでもいい。
秘密は秘密であるから美しい、とディディは語った。
小生もそう思う。
この世を回す大いなる真実がどこかにあるとして、それを見つけてしまうのは正しいことだろうか。
宝物を追いかけまわしているときを思う。
そういう時、小生はきっと笑っている。
それなのにイサイは、宝箱をこじ開けてしまおうとしているように思える。
どうしても秘密を知りたくてしようがないのだ。
秘密の答えがイサイにとってなんなのかは、小生にもわからなかった。
イサイが代償として差し出そうとしているものは、その箱よりも重いものに見える。
でも、人間という生き物はどこかしらでそれぞれの箱を持っているのではないだろうか。
箱を開いた先に、なにが待っているのかも分からないままに、そいつに挑みかかるように生きている。
本人にとってはその箱自体が、驚くほど重い宝なのである。
ディディにも、そういうものがあるのだろうか。
小生は大きく息をひとついて、ディディの横顔を見上げた。
「おまえが“ディディ”になる前に何者であったか、それは聞かずにおくとしよう。聞いたところでどうせおまえは答えはせんからな」
「けっ。よく分かってるじゃねえか」
「当然だ。小生はおまえの、飼い猫だぞ。おまえが本当は誰であったとしても」
小生は流れすぎていく巨人の練り歩きを見送りながら、言葉を洩らした。
「それは、変わらん」
アムカマンダラ大路の両脇には人垣が出来ていて、それは巨人行列が過ぎ去った所から順にばらばらと形を崩して道いっぱいに広がった。
巨人の後を追いかけていく者や道を行き交う者も多いが、大声を張り上げて商売をはじめる者もいた。
道端で商売をするのは大抵が、大道芸人である。
祭りは、第二部がはじまったと見える。
あちこちで興行が開かれて競うような彼らの見世物に、通りは流れを滞らせてゆくのだ。
御輿行列は魔神熊の暖簾を潜ってハヌディヤー通りに入って来た。
浮遊槽の群れに引っ張られるようにアムカマンダラの雲が極彩色の裾野を伸ばして、小生たちの周りにも渦巻いては流れていく。
ふと、ディディを見上げると、奴は呆けた顔で小生を見ていた。
その灰色の瞳を見返してやると、ディディはついと目を逸らした。
「なに、勝手抜かしてやがる。てめぇを飼った覚えなんざねぇ」
おまえは憎まれ口を言わんと息ができんのか、などと喉まで出かかるが、ディディが珍しくばつが悪そうな顔をしているのが見えて、小生はそいつは飲み込んでやることにした。
「おまえになくとも、小生には飼われている覚えがあるのだ。いい加減、観念をするがいい」
小生は代わりにそう言い切ると、再び群衆を見下ろした。
ディディは、自らのことを盗人という。
ディディはディディではないからだ。
至極わかりづらいやりくちで、ディディはそれを言い続けている。
けれども、その人となりをよく知る者であればあるほど、こいつを黒風と呼ぶ。
この地底で、確かなことなどというものは幾つもないのだとおもう。
誰しもが嘘を真実と思い込もうとしている。
偽りの太陽や偽りの星空を見上げるように、イサイとメナシェが親子であろうとしたように。
興奮のるつぼにある通り沿いから、少し離れたところで、小さな歓声があがった。
ディディはふと立ち上がると、耳を澄ませるような顔になってざわめきを探った。
ハヌディヤー通りの東西を繋ぐ網目模様の裏通り。
立ち並ぶ
そこに、不自然なほどに人が押し寄せていて、一人の道化が彼らの注目を集めているのが見えた。
その動きは、一人のものとは思えないほど目まぐるしく、異様な動きは人の目を集める。
手品を駆使して一盛り上げしたかと思えば、精巧な鈍い動きで人々の目を釘付けにする。
ディディは、遠くに動くそれを少し暗い瞳で眺めていた。
イサイが今日のこの祭りで興行を催すことは、どうやら耳敏い情報通とイサイの信仰者には周知のことであったようだ。
彼らはああして格好を忍んでまでハヌディヤー通りの建物群の密林の奥へ駆けつけた。
きょうび玉石を見極むにも難儀するこの大都市で、個人の名の力のみであれだけ人が集うことがあるのだろうか。
鬼神足のイサイの実力を、小生は思い知る。
あれだけの人が集まれば、アムカマンダラの
そして、そうなってしまえば広場に逃げ場はない。
イサイは、決死だ。
幼いメナシェの青く真っ直ぐな瞳を、ただただ小生は思った。
ディディは瓢箪を煽って飲み干すと、そこらに放り投げた。
縮れた
そうして、
「その
「こうするのさ」
ディディはそいつをはためかせて着込むと、最後に
アムカマンダラを騒がせた
「おいでなすった」
呟いたディディの視線の先をやると、今や人だかりで溢れる裏通りの建物のひとつに、背の高い男がするりと姿を消すところだった。
「ソソのところの
いいながらディディは素早くあたりを見回した。
「居住区の中を通って背後からばっさりやるつもりだな。ソソにしてみりゃ、誰がやったか分かりやすく殺すのが最善なんだろう」
ディディが目をつけたのは、裏通りを横断する綱渡り芸に精を出す
居住区の屋上から屋上へ縄をかけ、色とりどりの服を何重にも着込んだ丸っこい男がその上で均衡を取っている。
ディディはそこへ向けて駆け出した。
小生にいえることがあるとすれば、と、ディディの背中を見ながら思う。
このろくでなしと行動を共にしていると退屈しないということだ。
ディディは命を狙われるイサイの元へ向かう。
その胸中はともかく、見ている者を退屈させないのは大事なことだ。
とくに、
ディディは、綱渡りの端に辿り着くと、
丸い
「ソソにこれ以上、楯突いていいのか?」
小生は一応と思って尋ねてみる。
「ばれやしねえさ。今はただの
ディディは迷いなく縄の上を駆けていくと、太った歌舞伎者を飛び越えた。
下からその様子を見上げていた往来が大きくどよめく。
それにも構わず、ディディは冗談のように体の感覚を釣り合わせて縄の上をあっという間に渡りきった。
あとには、ついに加減を狂わせて情けなく縄にぶら下がることになった
まったく滅茶苦茶な男だ。
小生は呆れて、けれど少しだけ笑うと、まだ揺れの収まらない縄に一歩目を踏み出した。
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