手術
「C- 1097。話がある」
なんの滞りもなく終わった点検の後、教授はそう言って僕を止めた。
「はい」
「座れ」
僕は言いなりになって椅子へ座り、教授と向かい合わせに座った。
ゆっくり教授の方を向くと、教授はいつもより僅かに穏やかな目つきで僕を見下ろしていた。
教授はきつく束ねた髪をほどき、眼鏡を外した。そこで僕は、初めて自分の顔が教授に似せて作られていることを知った。
髪の毛の質も、少し切れ長な瞳も、真っ白な肌も、教授と同じだった。
「昔話でもしようか」
無意識のうちに頷いていたが、僕は陽一のことが気が気でならなかった。もうそろそろきてしまうかもしれない。いや、監視映像で確認してから入ってくるか。
「でしたら、教授の昔の話を伺いたいのですが」
口からでまかせだったにも関わらず、教授はこくりと頷いた。
「将来安泰の完璧少女だと謳われてきた女は、一流弁護士の男と結婚した」
僕が気を紛らわすために飲んでいた水がこぼれて床に滴り落ちた。
「弁護士だったんですか?」
教授は無表情で頷いた。
「ニューヨークの資格もある同期では最も優秀な男だった。女は二人子供を生んだが、第二子の生まれた後に夫と意見が合わず、離婚に至った。完璧な女だったが、仕事とともに育児をすることはできなかった。女は次第に子供を愛せなくなっていった。子供さえいなければ、私は夫からの愛を失うことはなかったのだ。存在すらも疎ましく思った」
他人事のように語られる教授の過去は、第二子が中学に入ったあたりから崩れていっていた。子供をネグレクトしていると通報され、病院をクビになり、裏社会の研究へと走った。今でこそ表向きに脳についての研究をしているが、裏ではこのザマだ。子供は離婚した夫に引き取られたが、すでにひどく荒れた生活を送っていた。
この時点で僕は、同じような話を息子目線で聞いたことがあることを思い出した。
「一人になって女が覚えたのは、清々しさではなかった。自分は母親として失格だと噂され、子供を愛せなくなっていても、女はやはり母親だった。寂しくて、苦しくて、それを紛らわすために研究に打ち込んだ」
寂しい。
苦しい。
なんて無責任な言葉だろうか。
それだけ苦しめた子供を失って苦しいとは、どの口がいうのだろうか。
「その頃に、息子が私の元を訪ねてきた。息子が持ってきたのは病名の書かれた検査の結果だった」
教授は続けて僕の実験番号を呼び、口を閉じた。妙な沈黙だった。これから大切なことを告げる前置きの空白のようだ。
その時に僕が頭に思い浮かべたのは、今から来るはずの高校生男子だった。
しかしその言葉を僕が聞くことはなかった。
扉をノックする音とともに、研究員の女性が入ってきた。
「教授、娘さんがいらっしゃっています」
教授の手から、グリップボードが滑り落ちた。驚愕の表情を浮かべた教授は、ふらふらと部屋から出て行き、僕は実験室に取り残された。
スマホがラインの通知を知らせる。陽一からだ。
>作戦成功。今いく
<承知
教授は頭が良すぎる代わりに、人の考えが読めない。きっと彼女は久しぶりに再開した母親相手でもうまくやってくれるだろう。
返信を打って既読が付いたすぐ後に、陽一は部屋に入って来た。いつもの服装とは異なり、研究員の白衣を着ている。勝手にだれかの更衣室から持って来たのだろう。袖丈が全く足りず、つんつるてんだ。
「おはよう」
心なしか緊張した面持ちの陽一は、実験室の棚の指紋認証に指を押し当てて開けた。驚く僕に、俺の指紋で入れるように設定したんだ、と何事もなさげに言う。
「時間がない。久成は服脱いでそこに入って」
言われた通りに服を脱いで灰色の箱の中に入ると、陽一は緊張で青ざめた顔のまま、足元にあったチューブを手にとりあげると、迷いのない手つきで僕の体に取り付けた。白衣の裾を翻して机に向かう。
「感覚を麻痺させてから実行するから」
陽一の指がチューブが繋がっている先にある巨大な機械を指でなぞる。
「視力」
かち、と言う音とともに視界が真っ暗になる。目は開いているはずなのに、目の前にはただ深く暗い闇が広がる。
「次、聴力」
音が消える。暗闇の手がかりは、一切消えていく。
陽一が何を言っているのかわからなかったが、再び何かが消されたのがわかった。体が動かなくなっていき、最後に、思考も消えた。
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