夢界童国
薪原カナユキ
第1話
チックタック、チックタック。
頬が緩む甘い薔薇の香りに、一刻一刻と時を刻む古時計。
体は温もりと柔らかな何かに包まれ、浮き上がる意識を再び闇の底へと誘ってくる。
閉じた瞼は開くことさえ億劫で、耳に入り込んでくる針の音を聞いていても、時間の感覚は曖昧だ。
ずっとここにいよう。
ここは天上の楽園で、目が覚めてしまったら、そこから先は――
「………………っんむ?」
一回、二回と時を告げる古時計。
ゴーンゴーンと鳴り続ける時の音は、女王の数でなりを潜める。
もぞもぞと鈍る体を惰性で動かし、伸ばした右手が何やら柔らかいものを掴みとる。
自分のもとへ引きずり抱えると、それはマシュマロのように柔らかい羽毛の枕で、一瞬の誘惑に堕ちるも気を取り直して前に進む。
天上の楽園からは、大した時間をようさずに抜けた出す。
少し冷えた空気に体を震わせて、どうにか楽園を体から離し起き上がるも、頭は回らずその場へ座り込む。
さながら起動中のコンピューターで、枕に
「…………のじゃぁー」
気の抜ける鳴き声が口から漏れる。
何度も何度も、
冷たい床の感触に、小さな背中をはね上がる。
それでも脳が起きないのか、ふらふらと抱いていた枕すら床へ落とし、定まらない思考の赴くままに動いていく。
主が起きたことにより、静かな炎を灯すシャンデリア。
「……ぅんー」
おぼつかない足取りで洗面所へ行き、栓の付けられた台へ水を溜めていく。
ある程度の量に達したのを確認したら、それを使って顔を洗う。
濡れた顔をタオルでふき、どうにか目を覚ました部屋の主は、ふと正面の鏡へ目を向ける。
彼女の
始めから存在していないとでも言うように、一片たりとも姿を写し出していなかった。
「どうしたものかのー」
本来なら異常事態のことを、特別気にすることもなく彼女は洗面所を後にする。
次に向かうのは、私室にある化粧台。
着ているパジャマをベッドの上へ脱ぎ捨てて、代わりに私服をクローゼットから取り出していく。
晒された肢体には包帯が巻かれ、その痛々しさは自ずと"
黒を基調とした椿色のセーラー服。
トップスは手首にウサギのボタンが取り付けられ、右腕部分には赤い糸が交差状に縫われている。
下のAラインスカートは、トップスと同様に青い糸が装飾として縫われていた。
服装を選ぶ彼女の気分に反応し、腰から生えている雫滴る黒翼も、小刻みに感情を表していく。
「……くっ」
選んだ私服を着終わり、変になっている部分が無いか手でパタパタと確認する彼女は、ある部分を触れた途端に表情へ陰を落とす。
ペタペタと胸部を触り、なんでなのじゃと呟く彼女は映りもしない鏡が置かれた化粧台に座り、身仕度を再開する。
初めに愛用の椿油を使って、自前の長い長い銀髪を丁寧に
「……こやつ、生きてるのじゃ」
途中、手から落とした和櫛の挙動に生命を感じ、しばしの沈黙があったが何事もなかったかのように身仕度を進めていく。
鏡に写らない彼女は手の感覚だけで完成度を確かめ、何度も試行錯誤を繰り返す。
一度ではうまく出来ず、落胆と喜びを繰り返し納得のいく出来になったのか、彼女は笑みと共に小さく頷く。
「こんなものかのー」
使った小道具を化粧台へ戻し、とてとてと小走りで別の場所を目指していく。
通りすぎるテーブルの上には、家族の写真が置かれており、ほんの少しだけ彼女の口角が持ち上がる。
夢を治める
茸に囲まれる深緑の狐は、一人黙々と何かを口にし続けている。
船こぐ蒼き猫又は、家族に囲まれ安堵の表情で体を丸め。
機械仕掛けの紫苑の帽子屋は、彼らの傍らで両腕を組み優しく寄り添っている。
そして椿の如き紅の鬼は――
「行ってくるのじゃー」
向かう先は赤い赤いハートの扉。
そっと触れるだけで開け放たれる夢への扉は、白き光を部屋へもたらし埋め尽くす。
青く彼方へ広がる蒼穹が。
白き大海をなす夢幻の雲海が。
赤き音を奏でる彼女を迎い入れる。
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