3
エイネは夢を見た。過去の夢を。
少女が生まれたのはヘルディロから海を越えて遠く離れた国。今は無き王国で生まれた。その王国は酷く荒んだ国だった。
表向きは豊かな資源と豊かな暮らしをする者が多い国――という印象だった。魔法技術もほかの国に引けを取らないほど進歩しており、国の至る所に魔法を活用した道具が混在していたほどだ。
だが裏では、国がある政策を取ったことで大きな格差が生まれていた。いや、果たしてこれが格差と言えるのだろうか。
その政策とは、子供が二人以上生まれた場合、後に生まれた子供はすべて国が引き取り労働力とする。という内容だった。
勿論この政策が表沙汰にならないよう、国は親の記憶を操作したりして、その真実を常に隠してきた。
少女はこの国に住むとある一家の次女として生まれた。彼女は生まれてすぐ国に引き取られ、名前も与えられないままに育てられた。そして働けるであろう歳になったとき、国の地下にある魔石製造の工場で無理矢理働かされたのである。この時の歳はまだ十二歳であった。
来る日も来る日も、少女は無理矢理働かされた。休憩時間もろくに与えられず、僅かな食事と睡眠時間を与えられる生活に、まだ発達段階にある彼女の体は悲鳴を上げた。
いつしか思うように動くことさえままならなくなっていった。そして声を発する力も失われていった。
失敗も増えるようになり、何かミスをするたびに個室に入れられ、裸にされ、その体に無数の鞭を打たれた。その傷は今もなお、彼女の体に刻まれたままだ。
自分はなぜこんなにも不幸なのだろうか。おそらく、彼女と同じ境遇の人間ならば誰もが思い、考えることであろう。
だが少女は思うことも考えることもできなかった。彼女は徐々に感情を失っていた。
少女への仕打ちは次第に酷くなっていった。時には熱したナイフで体に切り傷をつけられたり、時には殴る蹴るなどの暴行を受けたり、挙げ句首を絞められて死ぬ寸前まで追い込まれるようなこともあった。
しかし少女は悲鳴も上げなければ、涙を流すこともなかった。
声を失い、感情を失った少女は人形のように扱われた。いっそ死んでしまいたい。そう思う余裕さえ少女には与えられなかった。
仕打ちに対し、彼女の体は限界を迎えていた。このとき誰もが口を揃えて言った。なぜ生きているのかわからない、と。
もう立ち上がることさえできなくなったある日のこと。彼女に残されたわずかな聴覚が、ある音を聞き取った。
悲鳴だ。
その日、世界を股に掛けて活動している結社〝ギルド〟の者たちが国に攻め入ったのである。そう、国の悪事が露呈したのだ。
国は一晩のうちに滅ぼされた。主権を握っていた王もそれを補佐する議会のものたちも全員殺された。魔石工場を取り仕切る者たちも全員殺された。
それだけじゃない。地上で暮らす罪も無い人々もこのとき全員殺されたのだという。生き残ったのは、抗う力を持つこともできず工場で無理矢理働かされた者たちだけだった。
少女はこの時個室でただひとり、横たわっていた。わずかな意識とままならない呼吸のまま、裸の状態で。当然体には無数の傷跡があった。中にはまだ治りきっておらず血を流す傷もあった。
もはや彼女の命はいつ消えてもおかしくはなかった。
そこにある女がやってきた。それがヴェルティナだった。
少女を発見したヴェルティナはなんとかしてその命を救おうとした。だが彼女の力を持ってしても救うことは出来なかった。体がすでに限界を超えており、肉体を動かす魂も消えかかっていたのだ。今生きていることが不思議な状態だった。
残された唯一の方法は、使い魔契約だった。使い魔契約とは、契約者と使い魔の間で契約を結び、両者間に魔力供給のためのパスを繋ぐことを意味する。
この契約、生きた人間で契約を結んで成功した事例は少なかった。そもそも生きた人間では契約するという行為自体出来ないに等しい。例外を除けば――。
それしか方法が無いと悟ったヴェルティナはすぐさま契約の魔方陣を描いた。
魔法陣に瀕死の少女を横たわらせると、彼女は言った。
「エイネ。あなた、これから幸せになってみる気は無い?」
と。
言葉はなかった。言葉を発するだけの力も、言葉の意味を理解する力も、少女には残されていなかった。だが彼女の体は最後の力を振り絞って答えた。言葉では無く、涙で。
ヴェルティナは頷くと、二人の間に契約を交わした。
少女はエイネ=ヴェゲグ=ヌングという名前を与えられた。
エイネはヴェルティナから多くのことを教わった。発声できるほどに回復した後言葉を教わり、魔法を教えられ、身を守るための体術も教えられた。そしていつしか、ヴェルティナの仕事を手伝えるほどにまで成長した。
その過程でエイネは感情を取り戻していった。ヴェルティナとの日々に、幸福を感じ始めたのである。次第に笑顔を見せるようにもなり、それに連れてヴェルティナとの仲も深まっていった。
それから少しして、ヴェルティナは仕事を引退した。ヴェルティナはニギロに移り住むことを選び、勿論エイネもそれについて行った。村での生活に馴染むのにさほど時間は掛からなかった。
そしてニギロに住むようになってから二年経ったある日。エイネは最愛の少年との、最初の出会いを迎えたのである。
◇
「ん、んぅ……」
何かが動く気配がして、エイネは目を覚ました。
「ふわぁ……なんか懐かしい夢を見た気がするわ……」
珍しくエイネの方が先に起きたようだ。彼女の隣ではまだソラが寝息を立てていた。
(昨日は遅かったものね。それに泣いたりしてたし、疲れたのかしら)
いつものようにそっと髪を撫でると、エイネは起き上がった。
「ん、んんー!」
エイネは残った脱力感を抜くように大きく体を伸ばした。
と、同時にソラも目を覚ました。
「あ、ごめん。起こした?」
体を起こすとソラは目を擦りながら、首を横に振った。
「まだ寝ててもいいのよ?」
「ううん、エイネと一緒に起きる」
口をもにょもにょと動かして、ソラは大きな欠伸をした。どうやらまだ覚醒するには至っていない様子だ。
それが愛らしかったため、エイネはくすくすと笑いソラを抱きしめた。
「ふふふ、もう可愛いんだから」
途端、ソラの意識は覚醒した。というのも、彼の顔がエイネの柔らかい胸に押し当てられたからである。
「――っ!? え、エイネ!?」
なんとか離れようと藻掻くが、エイネの力はソラよりも強く、離れることが出来ない。されるがままにソラはエイネの体をしばし味わうこととなった。
「あ、ごめんごめん。可愛かったからつい」
少し苦しんでいることに気づき、エイネは力を緩めた。
慌てて離れたソラの顔は真っ赤に染まっている。
「きゅ、急にびっくりするじゃん!」
「ごめん。許して、ね?」
手を合わせて許しを請うエイネ。
対しソラは膨れっ面のまま顔を反らした。というのも、エイネを直視できないためであるのだが。
「ごめんってばぁ」
エイネはソラの背中に抱きついた。それが却ってソラに追い打ちを掛けているとも気がつかずに。
ソラの胸は大きく跳ねるように動いていた。それだけ彼が一人の少女のことを意識しているということなのだが、果たして彼が自分に秘められた感情に気がつくことがあるのだろうか。
一方のエイネも自分の行動に我ながらなにをしているのだろうなどと思っていた。ただ例えようのない不思議な感情に押されての行動なのだが、彼女もまたそれがなんたるか気がついていない。
「もう、気にしてないから」
「ほんと?」
「うん……気にしてない」
「そっか。ありがと」
二人は頬を赤く染めていた。
ふとあることを思い出し、彼らは同時に言葉を発した。
「おはようソラ」「おはようエイネ」
全く同じタイミングに、二人はしばし見つめ合った。そして二人は同時に笑った。
「朝ご飯食べようか、ソラ」
「うん!」
二人は手を繋いで下の階に下りていった。
下の階に行くと、テーブルの席に座って待っている者がいた。
「あ、ベルさん。おはようございます!」
「いや、なんでいるんですかベルさん」
そう、ベルさんことクリンベル婦人である。
「あらおはようソラちゃん、エイネちゃん。手なんか繋いじゃって、仲良しねー」
「おはようございます。じゃなくて、なんでいるんですか。鍵掛けてたはずなんですけど」
「あんなのわたしにとっては掛かってないのと一緒よ」
「いや、そうかもしれませんけど」
「鍋、取りに来たのよ」
言われてエイネは思い出した。昨日の夜、スープをもらった際鍋を借りたままだったと。それでここに来訪したのだろうと考えて――
(いや、この人毎日うちに来てたか)
と考えを改め直した。
「でもよかったわ、ちゃんと仲直りできたみたいで。むしろ前より仲良くなったんじゃない?」
「そんなことはないと、思いますけど」
婦人の指摘になんだか照れくさくなり、エイネは少し顔を反らした。
それを見て婦人は微笑むと、台所へと歩んでいく。
「今から朝ご飯でしょう? ご一緒してもよろしいかしら?」
「断っても一緒に食べるつもりですよね?」
「もっちろん! 昨日一緒に食べれなかったし!」
「せっかくだからボクもベルさんと一緒に食べたいな」
ソラにこう言われてしまっては断ることなど不可能。エイネは諦めるようにしてため息を吐き、しかしその顔は笑いながら承諾するのだった。
婦人が用意してくれた朝食は、いつもソラが出しているものと変わらない、簡単なものだった。それでも婦人が作るのだから、絶品は間違いない。
「わぁ、おいしそう」
並べられた料理に、ソラは目を輝かせていた。
(この子ほんと食べるのが好きよね)
そんな姿にエイネは微笑むと、彼女もまた婦人の料理に目をやった。
婦人が作ってくれたのは簡単な料理たちだ。誰にでも作れるものだが、味付けの工夫ひとつでその美味さは変わってくる。
「さあ、召し上がれ」
「いただきまーす!」
ソラが真っ先に料理を口に運んだ。
「んー! おいしい!」
続けてエイネも口に運ぶ。確かに美味い。
「ベルさん、これおいしいです」
「それはよかったわぁ。さ、どんどん食べて」
婦人も加わり、朝食はいつもより賑やかなものとなった。
食べ終えた後、食器を片付けながらエイネはあることを考えていた。貯蓄していた食料の底が見え始めてきたのである。
「そろそろ買い物にいかないとかなぁ」
食料を揃えるには、村の中だけでは難しい。そのため食料を買う際には基本的に隣町ドゥエセへと出かけなければならなかった。
ニギロからドゥエセまでは徒歩で二時間。周囲を広大な森に囲まれているが故の弊害である。特にドゥエセまでの道は、夜になると真っ暗闇になり迷いやすくなるためにあまり遅い出発では危険が及ぶ。
「今出発すればまだ間に合う……か」
今日は珍しく朝に起きれたのが幸いしている。普段は予定として組み込んでいないとなかなか朝に起きることなど難しい。
「ソラ、悪いけどこれ片付けたら隣町に出かけてくるからお留守番してて」
「ボクも行きたい!」
「駄目よ。帰り遅くなるかもしれないから」
「やだ! ボクも行く!」
どうしたものかなぁとエイネは頭を悩ませた。いつもは素直に「お留守番してる」と言っていたけど、やっぱり最近あまり言うことを聞かなくなったような気がする、と。
「結構歩くよ?」
「大丈夫、ボクもう子供じゃないんだから!」
まだまだ子供よ、とエイネは苦笑した。
「どうしても行きたいの?」
「うん、エイネと一緒にいたい」
ここまで駄々をこねるのも珍しかった。これはおそらく昨晩のことも原因にあるな、とエイネは思った。昨晩、どうもソラは一人でいるのが不安な様子だった。その影響が今にも出ているのだろうと。
無理もない。彼は今、孤独になることに恐怖を感じているのだから。
こうあっては観念するしかなかった。
「わかったわよ。じゃあ一緒に行きましょ。まったく甘えん坊さんなんだから」
エイネはからかうように笑って、ソラの頭を数回優しく叩いた。
「むう……甘えてないもん」
ソラはぷいっと顔を反らした。
片付けを終えて、エイネは身支度をしに部屋へと戻った。
替えの服を出して、着ている物をベッドの上に無造作に投げ捨て、ふとエイネは自分の体を眺めた。
(ヴェルティナに頼んで残してもらったけど、やっぱ治してもらえばよかったかなぁ)
過去を忘れないために残した痛々しい傷跡。今更ながらに、この傷を残したことを後悔しているエイネ。
(けどあの子、この傷だらけの体を見ても綺麗って言ってくれたんだよね)
昨晩の脱衣所でのことを思い出して紅潮する。
「と、急がないといけないんだった」
慌てて服を着ると、机の引き出しを開けた。中には一振りのナイフが、ベルト付きの鞘に仕舞われている。護身用にと、隣町に出かける際には常に持ち歩いている物だ。
これを太ももに付けると、エイネは部屋を後にした。
下の階に戻ってくると、ソラが椅子に座ってぼーっとテーブルの上を見つめていた。その視線の先には、ソラが作った、形の崩れた花冠が置かれている。
「ごめん、お待たせソラ」
声を掛けられ、ソラは顔を上げた。
「じゃあ、行こっか」
エイネは壁際に置かれた荷車を引いて外に出た。
外は雲一つ無い快晴の空だった。晴れやかな天気に恵まれた、絶好のお出かけ日和と言えよう。
二人は手を繋いで、村の門を潜って森の中に入っていく。昨日花畑に行く際に通った道とは真反対の方から出てドゥエセに行く。人が通れるよう舗装されているとはいえ、生い茂った木々の枝葉が太陽の光を遮っている。夜になれば暗闇の森になるのは、これが故であろう。
歩いている最中、森の動物たちが何匹かソラの方に寄ってきた。彼もまたそれに答えて抱きかかえたり、優しく撫でたりしてふれあう。勿論、時間も押しているため手短に、ではああるが。
森の動物は皆、ソラにとって友達のようなものだ。ベル婦人が飼っている猫たち同様に、彼らはソラのことを好いている様子だ。そこに例外は無く、危険だといわれている動物でさえソラに懐いているのである。
(ほんと、いつ見ても不思議な光景よね)
エイネは微笑みながら、懐かしい気分になっていた。ヴェルティナとこの森を歩いた時もまた、同様の光景が生まれていた。
(あの人に何回も聞いたっけ。どうして森の動物と仲がいいのって)
結局その答えはわからず終いであったが、それでもこの光景に憧れたものである。
「ほら、今はお友達とあまり遊んでる余裕はないわよ?」
「うん、わかってる。ごめんね、みんな」
動物たちに手を振ると、二人はドゥエセへと足早に向かうのであった。
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