第一節 不思議な少年と優しき少女
1
ユリージア大陸北西部。そこにはヘルディロと呼ばれる国があった。大陸内五つの国の中で三番目に大きく、人口も多い国だ。
世界の中でも裕福な国であるヘルディロだが、それでもやはり、個人の間には貧富の差があった。
ヘルディロで最も貧しいとされている辺境の村ニギロでは、今日も朝早くから農作に勤しむ者が多い。村での暮らしにうんざりとした多くの若者は、既に金のなる仕事を探しに首都ブリアンテスに越している。そのため村に残っているのは、貧しくても今の暮らしが気に入っている若者か、都会へ行っても仕事の当てなどない年配の者たちだ。
それ故か、村の雰囲気はとても和やかであった。皆が皆、友人あるいは家族のように仲良くし、協力し合うことで暮らしていた。
そんなニギロに暮らす者たちの中に、合計年齢最年少の家族がいた。少女一人と少年一人の家族だ。少女の方は幼い見かけの反面、もうすぐ二十になる。少年の方は、生まれてまだ六年しか経っていなかった。
その彼らが住む木造二階建ての家。その二階の寝室で、朝になってから大分経っているにも関わらず未だ寝ている者がいる。名はエイネ=ヴェゲグ=ヌング。一応はこの家の、現在の家主である少女だ。
エイネは非常に朝に弱く、現在日が昇り切るまで二時間という時間であるにも関わらず、まだ起きていない。昨晩は遅くまで本を読み聞かせていたのもあってかよく眠っている。
そんな彼女を起こさんと寝室へ急いでいるのが、もう一人の住人のソラであった。
「エイネ! 朝だよー!」
扉を勢いよく開け、ソラはエイネの腹部目掛け飛び込んだ。
直後、「ぐえっ」という、情けない悲鳴がエイネの口から漏れ出る。
「ほらほら、朝だよー。もう村の皆も起きてるよー」
お構いなしにソラは、甘える猫の如く腹の上を、左へ……右へと転がる。
腹に与えた衝撃と、その鬱陶しさから、エイネは顔を顰めている。「んん~」と呻いている辺り、まだ寝ていたいのだろう。その証拠に。
「もうちょっと寝させて……あと少し……」
などと言っている始末だ。
「もぉ~! おーきーろー!」
未だに寝ようとするエイネに、馬乗りになってこれでもかと頬を引っ張るソラ。対する当人は全くの無反応で、されるがままだ。挙句寝息まで立て始めた。
「エイネってば!」
今度はぺちぺちと頬を軽く叩いた。
しかし起きない。一体どれだけ眠れば気が済むのか、疑問である。
「今日は一緒に花畑まで出かけに行く約束だったじゃん!」
「ん~?」
ソラの言葉に反応し、エイネは微かに目を開けた。
そんな約束したっけかな? エイネは眠ったままの頭を捻り、そして思い出した。
そう、昨日の晩御飯の際、お弁当を作り、二人で近場にある草原に行こうと話していたのである。
「楽しみにしてたのに……」
ソラの顔が、暗く、今にも泣きそうな表情に変わった。
するとエイネは馬乗りになっているソラの体を、無理矢理自分の隣に寝かせた。そして抱き締めて、頭を優しく撫でる。
「そうだった。ごめんね、ソラ」
「もう、いっつも遅いんだもん」
口を尖らせるソラ。しかしその頬は赤く染まっている。
暫しの間、頭を撫でる時間は続いた。そうしている間に、エイネの頭はいつも通りに戻っていた。
ベッドから起き上がると、エイネは大きく背伸びをした。こうすることで、体に残る怠さが抜けるのである。
「あの、エイネ。服が……」
「ん?」
ソラが少し顔を反らしていた。というのも、エイネはボタン式の寝巻を着ていたのだが、寝相からか幾つかのボタンが取れていたのである。はだけた衣服からは、エイネの白い美肌と胸が露わになっている。
「あちゃあ、ボタンが千切れてる。後で縫っとかないと」
特に気にすることなくそう言うと、寝巻を脱ぎ捨てる。ついでに下も脱ぎ、肌着一枚の状態になった。
「ん? どうしたの?」
そこで漸くソラの異変に気づき、首を傾げた。顔を真っ赤にして萎縮している姿が、彼女の目には不思議に映っていた。
エイネの体の節々には、幾つもの傷が残っている。どれも痛々しい物で、一緒に風呂に入るとき、ソラは決まって目を反らしていた。
だが今回はそれとは違う。彼も一人の男の子なのだ。その上多くの本を読んでいる。極めつけは今朝読んだ本が、感受性豊かな少年に育った彼に今まさに、女性の肢体を眺めて例えようのない気分を味わわせていた。
「顔赤いわね。熱でもあるの?」
そんなことは露知らず。エイネは服も着ず、近づいてソラの額に自分の額を当てた。
思わず生唾を飲み込むソラ。彼自身、これまで感じたことのない感覚に戸惑っていた。胸が騒がしく高鳴っている。
「え、えと、大丈夫! 先、下に行ってるね!」
我慢出来ず、慌てて退くと、ソラはそそくさと部屋から飛び出した。
「どうしたのかしら……?」
訳が分からず、一人取り残されたエイネは首を傾げた。
「まあ、いっか」
気にしても仕方ない。そう思い、エイネは身支度を始める。
壁に沿って並べられた二つのタンス。その内左の物に、彼女の衣服が入っている。その中から紺色のワンピースを選ぶと、下着を着ることなくそのまま腕を通した。
次に鏡台の椅子に座り、所々寝癖で跳ねた髪を櫛で梳く。引き出しに仕舞われた白いリボンで、整った白銀の髪を、後頭部の高い位置で一纏めにした。
そして最後に彼女が手にしたのは、ベッド脇の小机に置かれた、青色透明の結晶である。ペンダント状になっているこれを首から下げることで、粗方の身支度は終えた。
「これでよし、と」
独り呟くと、エイネは寝室を後にする。
彼女たちが住む家は二階建てだが大きくはない。部屋の数は大きく分けて四つ。寝室、風呂場、キッチンとダイニングと少ない。そのため二階から階段を降りるとすぐ、ダイニングに差し掛かる。ダイニングからはすぐ、外へと通じる玄関が目につく。余り大きな構造でないための一工夫である。
ダイニングでは、ソラが足をブラブラと振りながら椅子の上に座って待っていた。テーブルには、朝食の皿が並べられている。メニューはパン、ベーコンエッグ、スープ、サラダという簡単な物だが、これら全てソラ一人で作った物である。何分朝に弱いエイネと一緒に暮らしていることから、簡単な料理を覚えざるを得なかったのだ。
エイネは料理の品々を眺めて、微笑んだ。″自分のために作ってくれた″というのが嬉しいのである。
「ほら、早くしないと日が暮れちゃうよ」
「もう、分かってる」
頬を膨らませるソラ。どうやら先ほどからそう経たない内に落ち着いたようだ。勿論、そのことをエイネが知る由もないのだが。
席に座ると早速、エイネは食事を始めた。誰でも作れる簡単な物であるというのに、ソラが作ってくれたと考えるだけで、エイネの口には頬が落ちそうな程の旨みが広がった。
「ソラ、美味しいよ。ありがとうね」
「あ、うん。良かった」
落ち着いているとは言え、今日のソラはエイネの事を変に意識していた。食べる仕草から何まで、目が離せずにいる。
「あ、そうだ。ソラ」
そんな時ふと、エイネが食事の手を止めた。
「ん? どうしたの?」
何かあったのかと、ソラは首を傾げる。
するとエイネは、満面の笑顔で。
「おはよう」
と言った。
エイネの言葉とその表情に思わず面食らうソラ。暫しその笑顔に見惚れ、だがすぐに笑うと。
「うん、おはよう。エイネ!」
と、負けないほど眩しい笑顔で返すのであった。
◇
エイネの朝食が終わり、二人はピクニックへ行くための準備をしていた。エイネはお昼に食べる物を、ソラは必要な物をそれぞれ用意していた。
パンに具材を挟みながら、鼻歌を歌うエイネ。ソラとピクニックというのが楽しみで、嬉しくて堪らない様子だ。もっと早くに起きれば良かったという後悔の念も混じってはいるが。
「エイネ、これでいいかな?」
バスケットを手に、ソラが顔を覗く。
「うん、それでいいわよ」
「敷物の色は?」
「んー、白いやつでいいんじゃない?」
「えー、汚れないかな?」
「汚れたらちゃんと洗うわよ」
会話を交わしながら、エイネはテキパキと手を動かして料理を作り、箱の中に詰めていく。その色とりどりの食べ物を見て、見かけに寄らず食いしん坊のソラは唾を飲み込んだ。
「これでよし!」
箱の蓋を閉め、布で箱を包むと、エイネは手を叩いて言った。
「あとは……ソラ、飲み物は何がいい?」
「リンゴのジュースがいい!」
「リンゴかぁ……」
ソラの要望に、エイネは腕を組み考える。今は丁度、リンゴを切らしている。
「んー、というか」
よく考えてみると、今は果物類が何もなかった。これではジュースを作ろうにも、そもそも材料がない。
(明日は買い物に行かないと……かな)
苦笑して、エイネはソラの方を見た。先ほどまで出発の準備をしていた彼はしゃがんでいる。何をしているのかは、机に遮られていて見えない。
何をしているのだろう。そう思い覗き込むと、エイネはギョッとした。ソラはなんと猫を抱き、撫でていたのである。
「ちょ、ソラ。あなたどこから」
聞かずとも、答えは知っている。この村に猫がいて、ソラが行く場所と言えば一つしかない。そこの猫を一匹連れてきたのだろう。
「あ、見つかっちゃった」
「見つかっちゃった、じゃないわよ。ダメじゃないの連れてきたら」
「だって可愛いし」
ソラの返答にエイネは額に手を当てて嘆息する。
ベル婦人は二人が最もお世話になっている人物だ。ソラのことをこれでもかと可愛がり、同時にエイネのこともまるで妹を見るように接している。そんなベル婦人は大の猫好きとしても有名だった。
「あのねぇ……うちでは猫飼えないって言ってるじゃない」
「知ってるよ? だからこうして、たまに遊んでるんだよ?」
叱りつけを意に介さず、ソラは言った。抱き上げた猫の右手を上げたり、左手を上げたりして遊んでいる。その表情は実に楽しそうだ。
エイネは呆れたように肩を竦めた。これが初めてというわけでもなく、別段問題があるわけでもない。ないのだが。
(最近、どうも私の言うこと聞かなくなったのよねぇ)
エイネは少しばかり頭が痛かった。
「あ、そう言えば昨日ベルさんのお家でリンゴジュース、ごちそうになったよ?」
「あら、そうなの? それ早く言ってよ。あとでお礼言わないと」
「うん、だからさ。分けてもらおうよ? リンゴ、無いんでしょ?」
「いや、そうだけど。さすがにそれは悪いわよ」
「全然っ! 問題ないわよエイネちゃん!」
突如背後から聞こえた声に、エイネは「うおお!?」と体を跳ねさせて驚く。
振り向いてみると、件のベル婦人その人がニコニコと満面の笑顔で立っていた。
「おはよう、エイネちゃん!」
そして物凄く元気だ。
「お、おはようございますベルさん。一体いつからそこに?」
「あなたがうん、それでいいわよって、バスケットを持ったソラちゃんに返事した時からよ」
「それってほとんど最初からってことじゃないですか」
エイネは途端に頭を抱えたくなった。
そしてソラが猫を連れてきたわけではないということも、理解した。
ベル婦人は魔法にも長けている人物だ。彼女がその気になれば、気配遮断と透明化の魔法を扱えば簡単に姿を晦ますことが出来るに違いない。
しかし。しかしだ。魔法をとてもじゃないがどうでもいいことに使うのは、果たして良いのだろうか。心配になった。いや、本人からすればどうでもいいことではないのかもしれないが。
「いつも言ってるじゃないですか。何も言わずにこそこそと入ってこないで下さいって」
「仕方ないじゃない。楽しいんだもの」
唇に手を当て、片目を閉じた仕草をする婦人。その様子は子供のようだが、容貌が故に艶やかさがある。
本当に自由な人だな。そうエイネは感服し、苦笑した。
「それでね? リンゴのジュースだけど、全然いいわよぉ?」
まるで酒を飲み酔っぱらっているかのような風潮で、婦人が言う。
「でもせっかくお作りになったんですから、ご自分で飲んだ方が」
「それこそ、私が作ったんだから、私がどうしたいかは勝手じゃない? それに、ソラちゃんが好きだからってことで作ったんだから、ソラちゃんのためになるのなら大歓迎よ!」
そう言って婦人は親指を立ててエイネの顔に近づけた。
「は、はぁ……それならお言葉に甘えても? というか……」
ふと、あることに気づいた。
家の中が猫で一杯になっていた。
「あの、この子たちはいつの間に入ってきてたんですか?」
「もちろん、最初からよ」
エイネは大きなため息を漏らした。
彼女が家の中にやたら猫を入れたがらないのは、床に彼らの毛が落ちるからだ。綺麗好きの彼女にとっては、家の中を汚す猫は天敵のようなものなのだ。それに。
「痛っ!?」
エイネは何故か、ベル婦人の飼っている猫に悉く嫌われていた。会う度に引っかき傷を付けられるのは、あまり心地の良いものではない。
「あらやだ。ごめんなさいね、エイネちゃん。この子たちどうもあなたを敵視してるみたい」
「どうしてですかね? 私、何もしてないのに」
婦人と話している間も、幾度か足を引っかかれているエイネ。その度に彼女の表情が一瞬痛みに歪む。猫は別に嫌いじゃなく、むしろ好きな方な彼女だが、ここまで嫌われているとなると少し近寄りがたかった。
「うーん、もしかしたらお姫様を取られると思っているのかしらねぇ」
「……お姫様?」
誰だろうと考える。そして答えに行きつき、エイネは当人の方に視線を向けた。
当人たるソラの周りには、これでもかと猫が集まっていた。皆、物欲しそうに各々の鳴き声を上げている。それに対するソラは、一匹一匹を抱えて撫でていた。撫でられている猫の表情はどれも幸せそのもので、元気よく尻尾をフリフリと振っている。
ちなみに婦人曰く、飼っている猫はみな雌。雌の猫がお姫様に集まるというのは、如何なものだろうか。正確には王子様だからむしろ自然なのかもしれないが。エイネは苦笑した。
「うーん、別にソラとは親子みたいな関係なだけなんだけどなぁ」
腕を組み、小首を傾げるエイネ。
それに対してベル婦人は「どうかしらねぇ」と小声で呟き笑った。
「と、それでどうするの?」
「ええと、じゃあ頂いてもいいですか?」
「はいはーい。じゃあ、家で待っているわ。みんな行くわよー」
婦人がそう掛け声すると、猫たちがみなソラから離れて家から出て行った。
初めてではないその不思議な光景を見るたびに、エイネは思う。本当に不思議な人だなと。飼い猫に懐かれるという当たり前の光景も、クリンベル=トン=リューゲという女性が絡むだけで、まるでその人が世界に愛されているかのような錯覚がある。
そしてそれは、エイネが我が子のように育て、共に暮らしているソラにも言えた。
「ねぇ、ソラ?」
「んー?」
「その抱えている茶色い猫を離してあげなさい」
「はーい」
エイネの言葉に従い、ソラは抱えていた猫を地面に下ろした。「またね」と彼が手を振ると、猫は一鳴きして家を去っていく。
そんな幾度と見ている光景に、エイネは毎度不思議なものを感じていた。
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