外伝Ⅱ 妖花~その26~
帝暦七一八年、若葉の月四日。空位になっている宰相、即ち国務卿についての朝議が行われた。当初は一連の騒動で功績のあった司法局長ハーマンスを押す声が大きかったが、ハーマンスは辞退した。
「老躯故、国務卿の任に堪えれる自信がございません。それに私は司法局長が肌に合っております」
ハーマンスに辞退され、延臣達は困惑した。司法局長は実力、功績ともに申し分なく、またいかなる権門にも媚びぬ態度は帝国の政治を運営していく上で何よりも必要なことであった。しかしそのハーマンスに辞退されたとなると、ベイマン家亡き後、最大勢力となったビルバネス家に焦点を当てるより他なくなってしまった。
『ビルバネス家の者に宰相になってもらう』
ベイマン家がビルバネス家に取って代わるだけのことだが、政治を安定させるにはやはり最大の権勢家が頂点に立つしかなかった。それはロートン二世を初め、諸大臣の共通した認識であった。だが、
『いずれビルバネス家もベイマン家のようになるのではないか』
という危惧がロートン二世にあった。ならば一層のこと、こちらに抱き込んでしまえばいい。ロートン二世はそう考えて、決断をくだした。
「ワグナス・ザーレンツが良いのではないか?今回のことにも功績があるし、能力も十分であろう。それにかの者ならビルバネス家も納得するであろう」
これは諸大臣にとって盲点であった。ビルバネス家の女婿であるワグナスであるならば、最大の権勢家となったビルバネス家は文句は言わぬであろうし、官吏としての能力も申し分がない。それに、
『若造であるなら我が言いなりにできよう』
と諸大臣は思った。これが甘い認識であることは、すぐに気づかされるのだが、この時は誰しもがワグナスのことをその程度に思っていた。
こうしてワグナスに国務卿就任という大命が降下したのだが、ワグナスは一度辞退した。これは多分に形式的なことで、ワグナスは当初から受けるつもりでいた。
実際のところ、いきなり国務卿の地位が与えられるとは流石のワグナスも考えていなかった。今回の功績で財務局局長ぐらいにはなれるだろうと思っていたので、国務卿就任の大命はまさかの事態であった。
しかし、今の閣僚を見渡した時、司法局長ハーマンスを除けば明らかに能力の劣る凡愚ばかりであった。自分に大命が来てもおかしくはないだろう。ワグナスは受けねばと思った。
「大命の降下。まことに光栄の至りですが、若造にございます。他のお歴々を差し置いてそのような重役に就くのは憚られます。何卒他の方に大命を下しますようお願い申しあげます」
ワグナスは辞儀を低くして辞退を言上した。勅使は一度皇宮に戻り、ワグナスが辞退した旨をロートン二世に報告した。ロートン二世は形式的な辞退であると分かっていたので、再度勅使を遣わした。ワグナスは今度は辞退せず、国務卿就任を許諾した。帝国史上最年少の宰相―国務卿の誕生であった。
一連の騒動を、オルトスはランスパーク男爵夫人からの手紙で知ることができた。男爵夫人との約束では月に一度としていたが、新年に入ってからは毎週のように送ってくれており、緊迫した情勢が綴られていた。
その日も、自宅で妻であるファランと喫茶を楽しんでいると、手紙が届けられた。封を切り一読すると、オルトスは深くため息をついた。
「また男爵夫人からのお手紙?」
「うん。ワグナスが宰相になった」
「まぁ……」
ファランは口に手を当てて驚きを隠さなかった。オルトスはファランにも帝都の情報を逐一知らせていた。
「それはおめでとうございますと言っていいのかどうか……」
「めでたいのはめでだいだろう。遅かれ早かれワグナスは宰相に成り得た器だ。しかし……」
問題はなり方なのだ、とオルトスは思っていた。一連のベイマン家凋落の騒動は、どう考えてもワグナスの謀略である。ワグナスほどの実力と声望があれば、謀略など使わずとも十年いや五年もすれば宰相になれたであろう。
『ベイマン家が金を流用していた証拠というのは捏造であろう』
オルトスが調べていた時点で明確な証拠はなかった。その証拠をバナジールが見つけ出し、それがために狙われたと男爵夫人は記していた。証拠も捏造もワグナスの暴力の一環であろうとオルトスは見ていた。その証拠というわけではないが、バナジールからの報告は年末から途絶えていた。
『ワグナスが強要したか……あるいはバナジールが自主的に行ったか……』
どちらにしろ、ワグナスは乱を経て至高の地位を得たのである。平穏な世ではあってはならぬことであった。
「これからどういう時代になるのかしらね」
「ワグナスが道を踏み誤ると思わない。あいつが自分の思うままに政治ができれば帝国はいい時代を迎えるだろう。しかし、それが上手くいかないのが現実だからな」
オルトスはワグナスが帝国の政治を牛耳り、辣腕を振るう姿を想像する。その政治改革は劇的で、帝国の旧秩序を撃ち破るものであろう。それは帝国が今後百年続くためには必要な劇薬であるが、果たしてワグナス以外の人物に受け入れられるかは別の話であった。
「これ以上、乱れた世に成らなければいいが……」
オルトスの想像はいまだ不確かなままであった。
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