必勝と必敗⑧

 「そろそろかな」


 サラサは夜空に浮かぶ三日月の位置を確認した。ちょうど日をまたぐ直前といった頃であろう。


 「各隊、準備できております」


 ジンが囁くように言った。サラサの目の前にはいないが、この山中に潜伏している各部隊がサラサの号令一下、動き出そうとしている。


 「では、予定どおりに」


 サラサの号令は実に素っ気なかった。後の歴史を考えれば、これほど劇的な一戦はないのだが、その始まりには劇的な要素は微塵もなく、静かな立ち上がりであった。


 サラサの命令を受けたジンが目配せをすると、伝令達が各部隊に散って行った。


 「よし、私達も行こう。ジン、頼むぞ」


 「はっ!」


 山中で潜伏するジンの部隊は一番後発となる。彼らは出発するまでの間、篝火を絶やさず、軍旗をあげ、兵士に模した案山子を砦の至る所に設置する役目を担うことになる。


 サラサが自ら指揮する奇襲部隊は四百。その四百名の部隊をさらに四つに分け、山中に分散させておいた。いずれも合流地点までばらばらに行動させる。流石に四百あまりの人数が固まって動くと感づかれる可能性があるからであった。


 行軍には松明を使うことを禁じた。サラサは事前に行軍路に蓄光性の高い燐粉で目印をつけさせておいた。昼間の太陽を存分に浴びた燐粉は青々とした光を放ち、行軍路を示した。この燐粉が発する光は弱々しいので、麓の敵からは間違いなく見えなかった。


 さらに念を入れたサラサは、バスクチ近辺に住んでいる樵や猟師を雇い、各部隊の道先案内人として配置させた。彼らは地理に詳しいだけではなく、夜目も効いた。奇襲部隊はほぼ道に迷うことはなかった。


 行軍中、誰も一言も発しなかった。勿論、奇襲であるからには静かに行軍すべきであり、そういう意味では当たり前の静寂であったが、誰しもが緊張している証左でもあった。


 しかし、サラサは平然としていた。


 『ここまできたらやるだけだ』


 と完全に腹をくくっていた。失敗すれば、十四歳の少女が物語の名軍師を気取って戦争を起こして惨敗して死ぬ。そういう歴史を作って後世の人間に嘲笑されるだけである。


 後にサラサは天才的な戦術的才能と類稀ならざる将器をもって名将と称されるようになるが、彼女の凄みはそれだけではなく、およそ少女と思えない強烈な死生観と、それに裏打ちされた大胆さであった。そうでなければ数的劣勢を前にして粛々と奇襲部隊を率いることなど到底できるものではなかった。


 奇襲部隊は予定どおり目的地点に到着した。山裾近くの森に隠れ、時が来るのを待った。


 サラサは攻撃開始を日が昇る直前を選んだ。もうすぐ朝という時間帯が一番敵の気が緩むと判断したのだ。


 それだけではなかった。空が僅かに白み始めた頃、靄が発生し始めた。サラサは、この可能性にもかけていたのだ。


 『これぞ天佑!』


 天運が味方している。この時ほどサラサは勝利を確信したことはなかった。兵力や将帥の才能が戦の勝敗を左右すると言われているが、サラサにしてみれば一番勝敗を左右する要因は運であった。いくら天才的な将帥で圧倒的多数の兵力を揃えても、運がなければ勝てない。サラサが好きな歴史にはそのような例がごまんと残されていた。


 「靄ですな」


 切り込み隊長を務めるジロンが呟いた。流石に幾多の戦場を経験したジロンにはこの靄の意味が分かっているようだった。


 「全員に目印の黄色の襷をするように伝えろ」


 サラサも懐中から黄色の襷を取り出し、自ら体に巻いた。決意を固めるように結び目をきつくした。


 「よし。行こう」


 サラサが言うと、奇襲部隊は山から出た。近くに潜伏していた他の奇襲部隊も、サラサ達が動き出したのを見て、同じように山から出てきた。


 ここからジロンが部隊の先頭に立つ。流石にサラサ自身が敵陣に突撃するわけにもいかないから、ミラを護衛にして後方に下がった。


 『ここからはジロンの仕事だ』


 戦場での駆け引きは、『雷神』と恐れられたジロンの本分である。サラサはそのお手並みを拝見することにした。

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