特別編  月夜の約束

 1



「うぅむ」


 蝉と鳥たちの声が四方から聞こえてくる。視界に移るのは木を組み合わせたコテージの天井。東に面した窓から朝日が差し込んでいた。


「ふわぁ」


 俺は体を起こし、眼を擦る。


「おーい、早く着替えて外に来ーい。ラジオ体操始めるぞー」


「うーす」


「よし、行こうぜ有月ありつき


「おう」


 仲間たちと共に隊服に着替え、身支度を済ませてから外へ出る。


 澄んだ空気と朝の日射しが気持ちいい。


 ここは富士山にあるキャンプ場。右を見ても左を見ても、深い林が広がっており、コテージの前にある道が奥の方まで続いている。まだ時刻は六時を少し回ったところ。

 夏真っ盛りだが、朝方はやはり冷える。しかも日本一高い山の中腹にいるのだから、肌寒くて当たり前だ。


 俺の名前は有月勇、どこにでもいる平凡な中学二年の十三歳。


 今俺たちはスカウト団のキャンプに来ていた。


 祖父がボーイスカウトの隊長をしている縁から、俺は小学三年生の時にこのスカウト団のカブスカウトに参加し、今日までスカウト活動を続けていた。といっても、主な活動は週末に地域の廃品回収を手伝ったり、ハイキングに出かけたりする程度のものなのだが。


 それでも季節の節目節目には大きなイベントがある。


 元旦の朝に白尾山公園で富士山と初日の出を観に行ったり、夏の御神火祭りのパレードに参加したり、今回のようにキャンプをしたり、まあまあ楽しく活動してきた。


 本日は二泊三日のキャンプ最終日。非日常に身を置くのも楽しいけれど、やはり我が家が恋しい。


「おはよーっす」


「おー、勇、よく眠れたか?」


 カブスカウトの隊長である葉月はづき蝶次郎ちょうじろうに声をかけられた。


「眠れたけど、もう体中がだるくて。もう帰りてぇよ」


 昨日は富士山の五合目から宝永山の火口まで歩かされ、その疲れがまだ足に残っていた。


「はっはっは、俺もだ。こんなとこ早く下りたくてたまらん」


 短く刈り上げた白髪頭によく日焼けした肌、まくった袖から覗く前腕は筋肉の付き方が尋常でなく、血管が浮いて武骨である。御年七十歳らしいが、まだまだ元気盛り盛りといった調子だ。


「あんた隊長でしょうが」


「早く未夜みやの可愛い顔をみたいんだよ」


「あぁ」


 蝶次郎さんの孫、春山はるやま未夜は俺のお隣さんの子である。家が隣同士で家族ぐるみで仲がいいため、未夜も俺によく懐いている。まだ三歳になったばかりで俺の後ろをちょこちょこついて回る様子は愛らしく、妹ができたような気がして一人っ子の俺はついつい甘やかしてしまう。


 コテージの横の広場にはもうカブスカウト(小三から小五)やビーバースカウト(小一から小二)の子たちが集まっていた。


 俺の祖父でこの団のボーイスカウトの隊長である外神とがみ豊吉とよきちがラジカセを持って一同の前に立つ。


「よし、全員広がって、ラジオ体操始めるぞー」


 まもなく、聞き慣れた軽快な音楽がラジカセから流れ始めた。



 2



 午後一時過ぎ、俺はようやく家に帰りついた。


「ただいまー」


「おかえりなさい」


 母が出迎えてくれる。


「どうだった、キャンプ」


「いやぁ、マジで疲れた。風呂入りたい」


「え? お風呂なかったの? コテージだったんでしょ」


「いやあったよ。汗かいたから入りたいだけ」


 まさか最終日に富士山ハイキングをさせられるとは思ってなかったぜ。


 シャワーを浴びてTシャツと短パンに着替える。堅苦しい隊服だと何をしていても気分がパリッとして落ち着かなかった。


 腹も減ったな。一階の店の方に下りると、そこには、


「あっ、ゆうゆ」


 未夜が遊びに来ていた。


「おお、来てたのか」


「ゆうゆ」


「ゆが一個多いんだよ」


「ゆうゆ帰ってきたー」


 未夜は俺のことを「ゆうゆ」と呼ぶ。呼びやすいのか知らないが、「ゆうゆ」より「ゆう」の方が文字数も少ないはずなのだが……


 まだ三歳だから仕方がないか。


「キャンプ楽しかった?」


「ああ、楽しかったよ」


「みぃも行きたかった」


「未夜はまだ小っちゃいからなぁ。大きくなったら一緒に行けるぞ」


「行きたい行きたい」


 テーブル席に座り、昼食を頼む。ややあって、母は二人分のナポリタンを持ってきてくれた。大盛が俺の分、小さい皿のお子様用が未夜の分だ。未夜の分にはお子様ランチのような旗が立っていた。


 拙い手つきでフォークを握り、ちゅるちゅるナポリタンを食べる未夜。


「美味しい」


「そりゃよかったな」


 キャンプ中は基本的に自炊だったので、誰かに料理を作ってもらえることのありがたさが身に染みた。


「ご馳走様でした」


「おい未夜、口の周りが汚れまくってんぞ」


 おしぼりで未夜の口元を拭いてやる。


「未夜ちゃん、お爺ちゃんもお家に来てる?」


 母が尋ねる。


「うん、じいじもさっき来た」


 噂をすればなんとやら、隊服姿のままの蝶次郎さんが店にやってきた。


「あら、いらっしゃい。キャンプお疲れ様」


「さやかちゃん、ビールと何かつまめるものをくれ」


「真っ昼間から飲んでいいの?」


「いいんだよ、キャンプ中は飲めなかったからなぁ」


「嘘だ、飲んでたぞ」


 スカウト団の大人組は夜遅くまで酒盛りをしていたのを俺は知っている。就寝時間が遅いボーイスカウト組は宴会に交じってつまみを食べたりした。


「こら黙ってろ、勇」


「じいじー」


「あぁ、未夜ちゃん」


 未夜が蝶次郎さんのところへ寄っていく。


「可愛いねぇ」


 未夜を抱き上げた蝶次郎さんはそのまま俺のいるテーブルにつく。


「そうだ勇、今夜打ち上げやるからな。来るか?」


「めんどいからいい」


「あたしは行くわよ」と母。


「おう、さやかちゃん来るか。俊はどうする?」


 蝶次郎さんはカウンターの奥にいる父の方を見やる。


「いや俺は――」


「そうか、来るか。勇も来い」


「めんどくせぇなぁ」


「じいじ、打ち上げって何?」


「お酒を飲む会のことだよー」


「んなこと子供に教えんなよ」


「未夜ちゃんも大きくなったら一緒にお酒飲もうな」


「飲む―」


「まだだいぶ先の話だろ」


「未夜ちゃーん、じいじと勇どっちが好き?」


「おい、何聞いてんだ」


 俺の方が好きに決まってるだろ。暇な時はほぼ毎日遊んでやってるんだぞ。未夜は困ったように眉根を寄せて、


「んー、難しい」


「未夜ちゃん、じいじって言ってくれたらお菓子買ってあげるよ」


「おい、ずりぃぞ」


「ほんと? じゃあ、じいじ」


「ふはははは」


「馬鹿なことやってんじゃないの。はい。おビール」


 母が瓶ビールと乾きもののつまみを運んできた。


「おお、ありがとう」


 ポン、と栓を抜く気持ちのいい音が響く。


「入れてあげる」


 未夜が両手でビール瓶を持つ。


「未夜ちゃんにお酌をしてもらえるなんて……わわっ」


「こぼれちゃった」


 瓶が重かったのか、口の部分がコップからズレてテーブルにビールがぶちまけられる。


「タオルタオル」


 しかし蝶次郎さんは怒るどころか相好を崩して、


「早く未夜ちゃんと飲みたいなぁ」


「飲むー」


「やれやれ」


 あと十七年もあるじゃねぇか。


 気の長い話だ。


 からんころんとドアベルが鳴り、小学生たちがかき氷を食べに来た。


 夏の日常。


 平穏ないつもの光景だ。


 

 *



 蝶次郎さんが脳溢血で倒れ、亡くなったのはその年の十一月のことだった。



 2



 市内のとある葬儀場。


 今日は蝶次郎さんのお通夜が開かれる。

 ボーイスカウト関係者は隊服を着て参加するようで、俺も喪服ではなく隊服を着用していた。


 厳かな空気が満ちているホールには大勢の人が集まっていた。


 奥に安置された棺の周りには俺の祖父をはじめとするスカウト団関係者たちが集まっている。俺もあとで顔を見に行こう。


 受付には未夜の両親であるたっちゃん――春山太一たいち未来みく夫婦の姿があった。


「勇くん、ありがとね」


 二人とも赤い目をしていた。


「未夜はいますか?」


「下の控室にいるよ」


「ちょっと見てきます」


 一階の遺族控室。


 遺族の人はお通夜の夜はここで一晩故人と過ごすことができるのだそうだ。


 一通りの家具にトイレ、浴室などの生活に必要なものが揃っている。


 未夜は縦長のテーブルの端っこにいた。


 ちょこんと畳の上に座り、何もせずぼうっとしている。


「未夜、お爺ちゃんのとこに行かないのか?」


「ゆうゆ」


 いつもの元気がないな。かといって、悲しみに暮れているような感じでもない。


「じいじ、死んじゃったんだって」


「うん、そうだな」


「ねぇ、死ぬって何?」


「え?」


「なんで死んだらもう会えないの?」


 未夜は真剣そのものだった。


「それは……」


 幼い彼女にとって、身近な人間の死に触れるのは今回が初めてなのだろう。だから、今起きている状況をよく理解できていないのだ。みんなが何をやっているのか、これから何をするのか……


 俺も幼稚園の頃に曾祖父が亡くなった時はそれがどういうことなのかよく分からなかったな。みんなが悲しんでいる空気で、とてつもなくヤバいことが起きたんだってのは理解できてたけど、それを自分自身が実感できたのは、火葬場で骨になってしまった曾祖父を見た時だった。


「人は死んだら天国に行くんだよ」


 そんなありきたりな慰めをしてみる。


「天国? じいじはそこにいるの?」


「ああ、天国にいるから、死んだらもう会えないんだ。でも未夜が死んだ時、天国に行ければまた会えるさ」


「死ぬの、怖い」


「……そうだな」


 下手を打ってしまったか。


 自分の慰めの下手さ加減に呆れる。ちっちゃい子供相手に死んだら、なんて言うんじゃねぇよ俺の馬鹿。


 俺たちは二人一緒に二階のホールに戻った。未夜を抱え、棺の中を覗き込む。蝶次郎さんは安らかな顔をして眠っていた。


「じいじ」


「寝てるみてぇだな」


 彼との付き合いは小三の時にスカウト団に入団してからだったので、五年近くの付き合いになるか。


 俺にとっても、身近に存在していた人の死は曾祖父を入れてまだこれで二回目。


 いや、きちんと物心がついてからだと今回が初めてかもしれない。


 スカウト団の活動の思い出がふつふつと湧き上がってくる。


 正直、週末の予定が潰されることもあって辞めたいな、と思うことも少なくなかった。それでも俺にとってあの日々は面倒くさくもあり、楽しくもあったのだ。


 その後、お坊さんが到着し、通夜が始まった。



 3



 通夜振る舞いと呼ばれる食事の会。


 集まった参列者たちは故人の思い出を語りながら食事と酒を厳かに頂いていた。しんみりした空気になるかと思ったが、意外とみんな笑顔だった。


「ねぇ、ゆうゆ」


「なんだ」


 俺の隣に座っていた未夜が、袖を引っ張る。トイレだろうか。


 未夜に連れられ、廊下に出た。


「どうした?」


 俺はしゃがみ込み、未夜と視線を合わせる。


「ねぇ、ゆうゆ」


「ん?」


 未夜は俺に顔を寄せ、


「みぃが死んだら、ゆうゆも一緒に死んで?」


「はぁ?」


「みぃと天国でもずっと一緒にいて」


 未夜の表情は真剣そのものだった。


 死に初めて触れた幼い少女。


 幼い彼女なりに、死というものを理解し、そして……


「……ああ、いいよ」


 俺にはそう答えることしかできなかった。


「ほんと?」


「ああ、未夜と俺はずっと一緒だ」


 未夜が抱きついてきたので、そのまま抱っこして立ち上がる。


 廊下の窓から覗く夜の空には、綺麗な月が輝いていた。




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