第71話  タイヤが四つあって前に進めばそれは車

 1



 車。


 それは人間社会を支える要である。


 一般生活における日常的な移動から、とうてい人間の足には向かない長距離移動をドアトゥドアでなんなくこなす。また人の力では運ぶことのかなわない物資の運搬にも一役買っており、まさに人間社会の要を担う存在である。


 そんな車にロマンを感じる、奇特な人たちがいることを皆様は知っているだろうか。


 彼らにとって車、いやクルマは、利便性や実用性だけで語るものではない。無論それらも重要なことではあるが、何よりも彼らが重要視するのは『速さ』と『楽しさ』である。


 乗っていて楽しいかどうか。


 他のやつよりも速いかどうか。


 ほとばしるエキゾースト音、ステアリングから伝わる振動、目まぐるしく移り変わる景色。


 それらに魅せられた男たちは、今日もまた風になり、そして散っていく。



 2



「あれ、パパ、今日休みなの?」


 パパはリビングのソファに腰を据え、いい年をして金色に染めた髪を撫でつけていた。


「おう、未空。送ってってやろうか?」


「目立つしうるさいからいい、行ってきます」


「気をつけろよ!」


 うちのパパは車を三台持っているが、私にはどれも同じに見える。


 白いのと、黒いのと、赤いの。


 クラスの男子も車が好きな子が多いけれど、正直何がいいのか全く分からない。それに、パパの車ってどれもうるさいし揺れるしで乗り心地最悪なんだよね。


「うわああ、遅刻だ」


 どたばたと階段の方から音がする。


 おねぇがパジャマのままやってきた。


「おねぇ、今起きたの? おばかだねぇ」


「未空、うるさい! お父さん、送ってってぇ」


「任せろ」


「はぁ……」


 相変わらずおねぇはおっちょこちょいだなぁ。


 玄関で靴を履いていると、ドアガラスの向こうに人影が見えた。


 こんな朝から誰だろう。


「はーい」


 ママが応対する。


 そこには――


「あら、勇くん」


 おっさんがいた。



 3



 ガレージの中に並ぶ三台の車。


「おお」


 今日は休みを貰って朝から春山家を訪れていた。


 前に未夜の誕生会で太一からスポーツカーについての熱い講義を受けた俺は、ほんのちょっぴりだがスポーツカーに興味が出てきたのだ。


 そもそもどんな車がいいのかすら分からない俺に、車選びの参考にと太一が所有する車を試乗させてくれるというので、今日は朝からやってきた。


「たっちゃん、三つも車持ってんだな」


 どれも綺麗に磨かれていてカッコいい。


「どれに乗りたい?」


「すげぇな、これ外車?」


 サソリのエンブレムがついたオープンカーだ。


「広島産のイタリア車だな」


 どういうことだ?


「あっ、こっちのは昔乗ったことあるよ」


「R34か。たしか、これはお前が幼稚園の頃に買ったやつだったか。時間の流れは速ぇな」


 よくこれの助手席に乗っていろんなところに連れて行ってもらったっけ。懐かしい。


「これが一番カッコいいな、ガン〇ムみたいで」


 白いホンダの車だ。赤いエンブレムが白いボディによく映えている。


「それはシビックだな。よし、じゃあいっちょ走りに行くか」


 シビックとやらの助手席に乗り込み、俺たちは富士山へと向かった。



 4



「欲しいクルマは決まってるか?」


「まだだよ。ただやっぱ四人乗れるってのが最低条件かな。あいつら全員と俺でちょうど四人だし。オープンカーとかはちょっとなぁ。母さんはミニバンがいいんじゃないかって言ってるけど」


「やめとけやめとけ、いいか、マニュアル設定がないクルマなんかクルマじゃねぇ。ただの箱だ」


 ええ……


「四人乗りか。予算は?」


「一応六百万くらい貯金あるけど、全額ポンとは出せないかな」


「いいか、勇。下世話な話だが、クルマってのは、金をかければかけるだけいいものが手に入る。一生に数回あるかないかの大きな買い物なんだ。妥協はしない方がいいぞ」


「うん。ちなみにこれはいくらだったの?」


「だいたい五百万とちょっとぐらいだったかな」


「そんなにするの?」


「そりゃそうだ、ホンダのスピリットが詰まったタイプRだぞ?」


「よく分かんない」


「それに四人乗りだしな。さて、じゃ、そろそろ」


 太一は路肩のスペースにクルマを寄せる。


「交代だ。運転してみろ」


「いいの?」


 俺は太一と交代して運転席に乗り込む。


「さぁて、お前に運転できるかな」


 横で太一がにやにや笑う。


「馬鹿にすんなよな。あれ、これサイドは?」


「そこのボタンだ。で、ブレーキを離しても一瞬は後ろに下がらないようになってるから、そのままアクセルを踏めばいい」


「ほー」


 やがて、シビックは雄たけびのような音を上げながら坂道を登り始めた。



 *



 太一は驚愕していた。


 アウトインアウトを基本とした完璧なライン取り、シフトチェンジのタイミングにコーナーを恐れない度胸、そして何より、このクルマを運転するのが今回が初という事実。


「お、おい、勇。お前、本当にクルマ持ってなかったのか?」


「んー、配達営業だったから、毎日運転はしてたけど」


 雑談に興じながらも、スピードは一切変わらず、まるで風のように富士の山肌を駆けていく。


「でもまあ、納期がギリギリだったり、無茶苦茶なクレームの対応だったりで、少しでも速く目的地に着くようには努力はしてたなぁ。あはは」


「あっ」


 左コーナーに差し掛かったその時、右の林から鹿が飛び出してきた。富士山スカイラインは野生動物が頻繁に飛び出てくることがあるのだ。


「ほいよ」


 外側に一瞬だけ車体を横滑りさせて衝突タイミングをずらすと、姿勢をすぐに回復し、道路を横切る鹿の後ろ側を抜けていく。


 間一髪の出来事だった。


 後方を見やると、鹿はそのまま向かいの林へと逃げていった。


「こんな標高が低いとこでも鹿が出るんだね」


「おい、お前今どうやって滑らせたんだ? シビックってFFだぞ?」


 しかもFK8のサイドブレーキはハンドではなく、ボタン式のパーキングだ。効くまでに一瞬のラグもある。


「俺なんかやっちゃいました?」


 まるでこれは……


 太一の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。


 数十年前、血沸き肉踊るバトルに明け暮れていた頃の自分。負け知らずだった自分を初めて負かした、あの『富士の白狼』を彷彿とさせる、常識に囚われない走り……


 クルマ自身が走る喜びを感じるような走りだった。


 たっちゃん、たっちゃんとひっついて回っていたクソガキが、こんな走りを見せてくれるとは。


 昔はちょっとスピードを出せば、助手席でぎゃあぎゃあ泣いて騒いでいたのに。


 富士山スカイラインの中間に位置する水ヶ塚公園の駐車場に停め、休憩する。


 前方に宝永山の火口を望む、広い駐車場だ。


「おい、勇」


「ん?」


「このクルマ、百万で売ってやろうか?」


「え……え!?」


「俺からの帰郷祝いだ」


「いやでも、これって五百万するんでしょ? いいの?」


「いいんだよ。それより、乗ってて楽しかったか?」


「うん」


「ならいい。大事にしろよ」


「……たっちゃん、ありがとう」


 *


 有月勇はシビック Type R【FK8】を手に入れた。



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