第69話 呪い
1
「朝華だと?」
未夜の声が聞こえてきた。来ないと連絡があったようだが、まさかやってくるとは。
「うぷ……」
俺は勢いよく立ち上がろうとしたがよろけてしまった。だいぶ酔ってしまっているようだ。横にいた眞昼が肩を貸してくれる。
「さ、酒が出る」
「勇にぃ、危ないって」
「す、すまん……眞昼」
十年ぶりの朝華。
おとなしいくせに、周りの目を気にせずべったりくっついてくるクソガキ。
あの寂しがりな甘えん坊はどんなふうに成長したのか。期待で胸が膨らむ。
「おっとっと」
眞昼に支えられ、時間をかけて玄関まで出迎えるも、そこには未夜一人だった。
「あれ? 朝華は……」
「帰っちゃった。明日も学校あるからって、プレゼントだけ渡しにきたんだって」
未夜は丁寧に包装された小包を手に浮かれている。
「ちょっとだけど、誕生日に朝華に会えてよかったぁ」
「俺も会いてぇぞ」
外に飛び出す。
「朝華ァ!」
ちょうど遠くの曲がり角をタクシーが左折していくところだった。
夜の闇に、ブレーキランプの赤い残光が溶けていく。
「何を貰ったんだ、未夜?」
眞昼が未夜の手元を注視する。
「ちょっと待って」
朝華から贈られたのはカエデの葉をかたどったブローチだった。
2
これでいい。
未夜ちゃんの誕生日を直接祝うことができてよかった。
もし応対したのが勇にぃだったら、きっと私はプレゼントを放り出して逃げてきたことだろう。
これでいいのだ。
私の思い出は守られた。
窓を見やると、そこに映る自分と目が合った。
どうやら雨が降ってきたようだ。
窓に、雫の筋が見えた。
*
子供の頃に大好きだったアニメの主演声優が重い病気を患い、長い闘病の末、去年の暮れに天国へ旅立った。
とても悲しかったけれど、心のどこかでほっとする自分がいた。
よかった。
これで彼女は綺麗な思い出のままでいてくれる。
不謹慎な発言やスキャンダルで炎上する心配もない。
思い出を彩る尊い存在でいてくれる。
人の訃報に接して、そんなふうに思ってしまう私はとても嫌な人間なんだろう。
思い出は綺麗なままでいてほしい。
そんな考えに至ったのは、母のある一言がきっかけだった。
それは私が小学校五年生になったばかりの春の中頃だった。
私の父方の祖父は認知症を患っていて、私が物心ついた時から痴呆の気があった。症状は年々ひどくなり、私が五年生になる頃には夜間に騒ぎ出したり、徘徊をしたりすることが多くなった。
夜中に家からフラフラと飛び出したり、近隣住民とトラブルになったり、家の中で子供のように暴れたり……
そんな祖父の奇行の後始末をするのは、母の役目だった。過酷な弁護士の仕事を辞め、自由になったのも束の間、お手伝いさんたちとともに祖父の介護に追われるようになった。
大手医療機器メーカーの名誉会長である祖父を老人ホームや介護施設へ追いやるのは『源道寺家』と『会社』が許さず、祖父が問題を起こせば周囲に頭を下げる毎日。
それがストレスになったのだろう。
『早く死んでくれ』
ある朝、母が洗面台でそう呟くのを聞いた。
母は優しい人だった。よく笑い、よく喋る人だった。芯が強く、思ったことははっきりと口にするけれど、その根底には思いやりがある。そんな人だった。
少なくとも、子供の私が知る母はそうだった。
そんな母が誰かに対して『死んでくれ』と言ったことが、私には信じられなかったし、受け入れられなかった。
私がそれを聞いてしまったことに母が気づいたのか気づかなかったのか、それは分からない。そんな余裕はなかった。混乱する頭で自分の部屋に逃げたことだけを憶えている。
その時の衝撃は、言葉ではとても言い表せない。
心にひびが入る音が、私の胸に響いた。
*
母親は聖母ではない。
一人の人間だ。
怒りもするし、時には辛い気持ちにだってなる。愚痴を吐きたくなる時だってあるし、誰かを憎むこともあるのだ。
感情のある、一人の人間なのだから。
そのことに幼い私は気づかなかった。
清らかな存在だと、勝手に信じ込んでいた。
母はその年の夏に交通事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。
母の死は悲しかったけれど、それ以上に悲しかったのは、母のことを思い出すたびに、『死んでくれ』と呟く悲痛な背中も一緒に思い出してしまうことだった。
母は、汚れた思い出のまま逝ってしまった。
母のように、勇にぃを失うのが怖い。
大好きなあの人を失いたくない。
だから私は会いたくない。
これからもずっと輝かしい思い出のままで……
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