第13話

 玄関のインターホンが鳴った。時計を見ると、六時十分を指していた。学校も終わり、いつも家へ帰る時間帯だ。

 そういえば今朝長谷部が、学校が終わったら家へ来ると言っていたことを思い出す。まだ両親は仕事に出ていて、家には俺一人しかいない。

 俺は仕方なく立ち上がると、のろのろと階段を下りた。適当に、具合が悪いだとか言って帰ってもらおうと考えながら、玄関まで歩いていく。それから、億劫な気分を隠しもしない表情のままドアを開けた。


 マジで来たんだ、と俺はドアを開けるなり不機嫌な言葉をぶつけようとした。

 しかしその言葉は、喉を通り抜けることなく消えた。代わりに一つ息を吸い込み、呟いた。

「……水原」

 ドアの向こう、立っていたのは、両手で数枚のプリントを持った水原だった。見慣れた制服姿で、肩には学校指定の通学鞄が掛かっている。

 俺が驚いて彼女の顔を見つめている間に、水原は「あ、あの」と緊張した様子で口を開いた。

「これ」と、まるで縋るように握っていたプリントの束をこちらへ差し出し

「今日学校でもらって……大事なプリントだから、届けたほうがいいと思って」

 差し出されたそのプリントを見ると、インフルエンザ流行中と大きく書かれた文字がまず目に入った。最近流行りだしたインフルエンザに対する注意を呼びかけるプリントのようだった。

「どうも」

 自分でも無愛想だとわかるほどの素っ気ない礼を言い、彼女の手からプリントを受け取った。

 上を捲り、他のプリントも見てみる。プリントは全部で三枚あった。あとの二枚は、図書館に入った新刊の案内と、ボランティア活動への参加を呼びかけるものらしかった。

 それほど重要とも思えないそのプリントを、ぱらぱらと捲りながら眺めていると

「手、大丈夫?」

 恐る恐るといった口調で、水原が尋ねてきた。

 視線を上げる。彼女は少し眉を寄せ、どこか申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。

 俺は「大丈夫」と短く頷く。すると水原はふいに視線を足下へ落とし

「昨日は、ごめんなさい」

 小さな声で、そう言った。なにを謝られたのかよくわからず、「なにが」と聞き返したが、彼女は首を振っただけでなにも答えなかった。


 水原は俺にとくに用があったというわけではないらしい。会話が途切れると、彼女は言葉を探すようにしばし黙っていた。

 他に用がないのならもう部屋に戻ることにして、俺は彼女にそう告げようとしたが

「……水原さ」

 目の前でうつむいている彼女の頭を見ているうちに、違う言葉が口をついていた。

「なんで、俺の家なんて来れんの」

 顔を上げた水原は、なにを言われたのかわからない、という表情で俺を見た。それでよけいに不思議な気分になった。

「だってさ」きょとんとする彼女の顔を眺めながら、続ける。

「嫌なんじゃねえの、俺に会うの。今までだって別に仲良くもなかったし、この前なんか、俺、水原に相当ひどいこと言ったと思うけど」

 ただ純粋に感じた疑問を投げかければ、水原はしばし黙って俺の顔を見つめた。それから、ふたたび視線を下へ落とし、ぽつりと言う。

「心配だったから」

 心配、と俺は意味もなく彼女の言葉を繰り返す。水原は黙って頷いた。


 短い沈黙があった。やがて水原は、おもむろに「じゃあ」と言うと、ぎこちない様子で踵を返す。

 俺はなにも言わず、水原が門のほうへ歩いていくのを眺めていた。彼女の背中がしだいに遠くなり、やがて道路に下りる短い階段に差し掛かる。水原がそこへ足を踏み出したとき、気づけば声がこぼれていた。

「なあ水原」

 呼ぶと、水原は立ち止まり、こちらを振り向いた。

 日が落ちた空は暗く、少し離れただけで途端に彼女の表情がつかみにくくなる。

 俺は腕で支えていたドアを閉め、外へ出た。そうして水原のもとへ歩いていく間、彼女はなにも言わずそこで待っていた。


「水原はさ、里穂が泣いたところ、見たことあるか?」

 唐突な質問にも、水原はなにも聞くことはなく、ただ静かに首を横に振った。それから、ふっと目を伏せ

「私の前では、里穂ちゃんはずっと笑ってた。私の代わりに怒ってくれたりすることもあったけど、泣いてるところは一度も見たことない。落ち込んでるところだって、里穂ちゃんは滅多に見せなかったから」

 訥々と話す水原の背後で、樹木の葉が風にざわめいていた。それをぼんやりと眺めながら、短く相槌を打つ。それから、俺も、と呟くような調子で口を開いた。

「ほとんど、笑ってる里穂か怒ってる里穂しか見たことなかった。でも、一回だけ」

 水原は視線を上げて、俺の顔を見た。

 一回だけ、と俺はもう一度繰り返してから

「泣いたんだ、俺の前で。でも俺は、あのときなんで里穂が泣いたのかわからないんだよ。幼稚園からずっと一緒にいて、その間にあいつが泣くのを見たのはその一回だけで、なのに俺は、そのたった一回の涙の理由すら知らないんだよ。今でも」

 自分が水原になにを言おうとしているのか、わからなかった。しかし喉からは次々に言葉が溢れてきて、止まらなかった。

 水原はなにも言わず、じっと俺の言葉を聞いていた。彼女のその静かな目が、よけいに喉の奥にあったつっかえを押し流してしまったような気がした。

「だけど、多分」

 言葉をたぐり寄せるようにして、続ける。「宮下なら」

 急に、今まで考えもしなかった言葉が胸の奥に湧いた。

「宮下なら、わかったんじゃないかって思う」

 口に出した途端、それは奇妙な確信の色を帯びた。

「あのとき、里穂が泣いた理由も」

 俺が見えていなかったことも、全部。あいつは知っていたのではないか。


 指先から熱が逃げていくような感覚がして、俺は拳を握りしめた。

 水原はやはり静かな目をして、俺を見ていた。

 言葉の続きを待つように彼女はしばし黙っていたが、俺はそれ以上言葉を見つけられずにいた。やがてそれを察したのか、水原は短く息を吸うと、「志木くん」と、静かな、しかしひどく芯の強い声で俺を呼んだ。

「里穂ちゃんの家に、行こう」

 昨日と同じ言葉を、ゆっくりと繰り返す。

 俺は黙って彼女の顔を見た。水原はおそろしく真剣な目で、まっすぐに俺を見ていた。なぜだか俺は、彼女のその目から目を逸らせなくなってしまった。

「今からでいいから、ちゃんと全部見て、ちゃんと全部知ってあげて。里穂ちゃんのこと」

 水原のほうも少しも視線を動かすことなく、言葉を重ねる。

 そして、と続けた彼女の表情に悲痛の色が浮かび、かすかに歪んだ。

「ちゃんと、里穂ちゃんのために、泣いてあげて」

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