第4話 ネズミの鳴き声
やがて、ホームに電話機が数台、設置された。
「こちらの電話は、伝言ダイヤル専門です。他の電話番号には電話できません。利用は無料ですが、一回当たりの利用時間は、五分と決まっています。あらかじめ伝言BOXの番号を決めてあるからは、そのままお使いください。そうでない方は、ご自宅の番号をそのままBOX番号としてお使いください」
消防隊の制服っぽい格好の人が説明した。説明している最中にも、数名、電話機に駆け寄っていった。それを見た人が、遅れてなるものかと、あわてて後に並んだ。あたしも並んだ。
自宅の番号のBOXには伝言はなかった。
「彩香です。新宿の地下鉄のホームにいます。ここは食べ物とか配給あるし大丈夫。元気だよ。パパやママのことを教えてちょうだ……」
伝言の途中で喉が詰まって言葉が出なくなった。あたしは、そこで電話を切った。
ホームの中には所せましと人がいるので、いつも揉めごとが絶えない。子供の泣き声がうるさいとか、臭いとか、ちょっとしたことが口げんかの原因になる。殺伐とした雰囲気にやりきれなくなると、あたしは地下鉄のホームを抜けだして地上へ出た。でも、見るべきものはなにもない。自衛隊と警察以外は、誰もいない。乾いてこびりついた血の痕が、あちこちに残っている。ひと気のないビルは、巨大な墓標みたいだ。
「俺たちどうなるんだよ」
時々、自衛隊員にくってかかっている人を見かけた。そんなことを訊かれたって、自衛隊員は答えようがない。わかっていても、訊かずにいられないのだろう。
電話には、いつも人が並んでいた。みんな、することがないから、利用時間いっぱい電話を使う。なにかに耐えているように、唇を噛みしめて黙って立っている人も多い。もしかしたら、用事は終わっているんじゃないかと思うけど、誰もそんなことは言い出せない。
あたしも毎日、一回、伝言をチェックした。パパからもママからも連絡はなかった。考えたくないけど、もう死んでしまったのかもしれない。そしたら、あたしは、ひとりぼっちだ。そう思うと、急に、不安になってきた。
毎日、眠りにつくたび、『あした目が覚めたら、この悪夢は終わっているんじゃないか』と思う。もちろん、悪夢はさめることがない。これが現実なのだ。しかし、こんな現実があるんだろうか? サメが空を飛ぶなんて、全く科学的じゃない。ありえない。
子供が死んだ。
深夜に母親の号泣で目が覚めた。非常灯の薄明かりの下で母親が全裸の幼女を抱きしめて狂ったように泣き叫んでいた。幼女は口と股から血を流している。股にはどろりとした白い粘液もついている。
母親の泣き声は獣の咆哮のように低く激しく、意味もなくあたしは不安と罪悪感に捕らわれた。何人かが、母親を慰めていたが、聞いていないようだ。みんなどうしようなく、ぼんやりとその光景を見ているしかできない。
そのうち、若い男の人が、犯人の死体を母親の前に運んできた。母親は泣きながら、その死体をちらりと見た。頭の一部が大きくへこんでいて、血と白い豆腐のようなものがたれていた。きっとコンクリートのかけらで殴ったのだろう。
「こういうことをするヤツは、必ずバツを受ける。オレは絶対許さない」
男の人は、みんなに聞こえるように言った。
それから、数人でその死体を外に捨てにいった。あたしはおそろしくなった。ここでは人が人を殺すことも当たり前になってしまったのだ。そう思った。
この事件はそれだけでは終わらなかった。母親は、死んだ子供の身体を離そうとせず、そのまま泣き続けた。なにも食べず、飲まず、泣き続けた。すぐに声はでなくなったが、それでもかすれたひーひーという声をあげ続けた。
やがて、子供の身体の腐臭が漂うようになった。母親は、もう意識もほとんどなく、死んだように横たわっていたが、子供の死体を離そうとはしなかった。他の人間が子供の死体を離そうとすると声にならない悲鳴を上げ、噛みついて抵抗した。男の人たちが相談して、母親と子供をいっしょに線路に下ろして、誰もいないところに運んでいった。暗い線路の向こうにふたりは置き去りにされた。そしてそれきり、二人を見ることはなかった。
その日からあたしはネズミの鳴き声が気になるようになった。姿は見えないけど、確かにいるのだ。夜、寝ていると確かに鳴き声が聞こえる。そのネズミたちがなにを食べているのか考えたくなかったけど、鳴き声が聞こえるとどうしても、あのふたりの姿と母親の泣き声が聞こえてきてしまう。そしてその次に思い浮かぶのは、飢えたネズミたちがあたしを襲う姿だ。
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