第2話 人を食う生き物
「街にサメが出たんだって、でも、おれもどういうことだかよくわからないんだよ」
大木くんは首を振って答えた。でも、どういうことか、すぐにわかった。
学食の窓ガラスに、血だらけのカラスがぶつかってきたのだ。バンという音で、みんないっせいに窓を見た。いつもと同じ東京の灰色の空と景色が広がっている。その景色に黒と赤に彩られたカラスの死体が貼り付いてる。
カラスはちょっとの間、ガラスにくっついていたが、すぐにはがれて落ちそうになった。カラスの死体が落ちる、と思った瞬間、巨大な影が上空から急降下してカラスの死体に体当たりし、そのままガラスに激突した。
さっきとは比べ物にならない大きな音と振動が学食を襲った。あたしの後ろで誰かが悲鳴を上げた。巨大な影はすぐに上空へ戻っていった。一瞬のことで、その姿ははっきりとはわからなかったが、あれは……
「今の見たか? あれ、サメだよな? なんで、空飛んでんだ?」
誰かが、ぼうぜんとした声でつぶやいた。誰も答えなかった。今、自分が見たものを誰も信じられなかった。
ガラスには、潰れたカラスの血がこびりついている。そういえば、サメは血の匂いに集まる習性があるんじゃなかったか。あたしはふと、そんなことを思い出した。
そのとおりだった。
さっきよりもひと周り大きなサメが、正面から左右に身体を振りながら近づいてくるのが見えた。数十メートル先の空の上を泳いでいる。ワンボックスカーくらいの大きさはありそうだ。
「おい、こっちに突っ込んでくるぞ」
こんなに近くでサメを見るのははじめてだった。いや、テレビ以外で生きているサメを見ること自体、はじめてだ。
「逃げたほうがいいのかな?」
誰かが言ったけど、みんな動こうとはしなかった。
ここはビルだ。ビルの三十階だ。窓ガラスもかなり頑丈に違いない、あたしはそう思っていた。きっと、みんなもそう思っていただろう。それに、逃げるっていったって、どこに逃げればいいんだ。建物の中の方が安全じゃないか?
サメは思ったよりも早くせまってきた。気がつくと、もっと上空からも数匹のサメがものすごい勢いで近づいてきていた。学食に、数匹のサメの影が落ちた。
その時、あたしは急に恐怖を感じた。
窓と反対側の学食の出口、思わす後ずさりした。
ガラスの砕ける音と悲鳴が、部屋中に響いた。まるで映画のワンシーンみたいに、ガラスがこなごなに砕け散り、サメが学食に入ってきた。
みんな一瞬、動くことができなかった。サメは窓の近くにいたひとりの頭に横から噛み付いた。声も出せなかった。意識があるのか、ないのか、わからないけど、けいれんしているような感じで手足をバタバタと動かしている。サメはそのままその人を引きずって、窓から、外にでていった。サメの目はまるで黒い穴のように無表情で、底知れない不気味さを感じさせた。むっとする生臭い匂いが学食に広がった。
そのサメが窓の外へ出ると、他のサメは待ち構えていたように、まだバタバタしているその人の身体に噛み付いた。布のちぎれるような鈍い音がして、胴体が食いちぎられた。あたしは人間の身体がちぎれる音をはじめて聞いた。
ほんとうに一瞬の出来事だった。おそらく一分……いや十秒くらいしか経っていないんじゃないだろうか?
女の子の泣き声があちこちから聞こえてきた。それと同時に、みんな一斉に学食の出口へと走っていった。
学食の中には、たっぷりと血が飛び散っている。血の匂いを嗅いで、すぐにサメが襲ってくるだろう。
学食の窓から見えるサメの数は、十匹以上に増えていた。こんな数のサメがビルの中に入ってきたら、どうやって逃げたらいいんだろう。あたしはサメが廊下を勢いよく飛んでいる姿を想像した。とても逃げられるわけがない。そもそも、これは現実なのか? たちの悪い悪夢じゃないのか?
全員、廊下に出て学食のドアを閉めた。でも、きっとドアなんか頼りにならない。あの窓ガラスを破るようなサメだ。こんな軽いパーティションで作った壁なんか、簡単に壊してしまうだろう。
廊下はまたたく間に、学生でぎっしりになった。
「どこに逃げればいいの?」
女の子が泣きながら言った。誰も答えられなかった。ここにいるのは危険だ。かといって、外に出ればもっと危険なのは間違いないだろう。
ドンという音がした。
続いてバリバリという音を立てながら、サメが数匹、学食の壁をぶち破って廊下へ出てきた。もう人がいっぱいで逃げようにも逃げられない。だいたいどこにも逃げ場はないのだ。廊下には生臭い匂いが流れ込んできた。
次々と、サメが廊下に飛び出してきた。まるで満員電車のように、左右からものすごい勢いで押され、みんなバランスを崩して倒れてしまった。気がつくと何匹ものサメが口に人間の破片をくわえたまま、廊下の天井付近を飛んでいた。それは、恐ろしくも不思議な光景だった。サメの口からボタボタと落ちてくる血や肉片が、倒れている人の身体へ降りかかった。
誰かが、あたしの腕をうしろから両手でつかんできた。ふりむくと大木くんだった。大木くんはサメに右足をくわえられて空中にひっぱられていた。その目は血走って、飛び出しそうなくらいむきだしになっていた。大木くんはあたしの目を見て、なにかを言いたそうに口をパクパクさせていた。でも、声はでない。あたしはとっさに、大木くんの手を振り払った。大木くんの身体はサメにひっぱられて、空中に舞い上がった。次の瞬間、他のサメが大木くんの頭をくいちぎって飛び去っていった。
サメは上から来る。みんな、かがみこんで、階段やエレベータに向かって移動しだした。その頭の上をサメがゆうゆうと泳ぐように飛んでいる。次の得物を誰にするか、選んでいるのかもしれない。
あたしは自分が、がたがたと震えていることに気がついた。震えが止まらなかった。それに寒い。凍えるようだ。ほんの数メートル上をサメが泳いでいる。その恐怖がリアルに全身をこわばらせた。
そうだ。ママやパパは、どうしたんだろう? 携帯で連絡したかったけど、とてもそんな状況じゃない。
「あたし、死にたくない」
友達の亜美の声だ。声のする方向を見ると、廊下のはじっこで、床にはいつくばったままじっとしている。怖くて動けないんだろう。
「あーみん、とにかく、どっかに逃げなきゃ」
あたしは亜美に声をかけた。
「死にたくないよ」
亜美は真っ白な顔でひざを抱えて泣き出した。どうしよう。あたしはこいつを助けるべきなんだろうか? でも、そんな余裕なんかない。早く階段で外に出て、サメの入ってこない場所まで移動するんだ。でも、友達を置き去りには、できない。
「バカ野郎! 早く移動しろ」
あたしのうしろの男子が、あたしの背中を激しく殴りながら怒鳴った。あたしは我に返った。あたしが止まっていると、うしろの人が移動できない。あたしは黙って、しゃがんだまま、前に進んだ。うしろで亜美のすすり泣く声が聞こえた。それはひどく胸にしみて、あたしをさいなんだ。
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