第2話
バイクはエンジン音からしてスーパーカブのようだ。デリバリーでも注文したのだろうか。こんな山奥にも配達はあるんだな、と妙に感心していた伊織は門をくぐって歩いてくる人影を二度見した。
「か、郭皓淳さん」
叫びそうになる口許を抑える。薄手のジャケットにド派手な柄シャツを着た郭皓淳は物置の影に身を潜める伊織に気付かず、玄関へ向かって真っ直ぐ歩いて行く。
こんな場所で出会うと思っていなかった人物だ。柳伯章と何か関わりがあるのだろうか、もしくは黒服の男たちの一味だとしたら。
郭皓淳とはなんだかんだで行動を共にすることもあるがつかみ所のない、謎の多い男だ。不穏な考えが頭に浮かび、伊織は頭を振る。ここは様子を覗おう。
郭皓淳は玄関のチャイムを鳴らした。ステンドグラスからは明かりが漏れているので、不在ではないことが分かる。一度、二度、反応はない。業を煮やした郭皓淳はドアをドンドン叩き始めた。
「おい、いるんだろう。ここまで来るのは大変だったんだよ、開けてくれないか」
郭皓淳は諦めず、叫びながらドアを叩く。しばらくして玄関のドアが開いた。
「約束の時間に遅れて悪かったよ。思ったよりも坂道がきついし、何より地図アプリは役に立たないしでまいったぜ」
郭皓淳は居留守を使われずに済んで安堵したのか、いつもの調子でヘラヘラと笑っている。
「先生はもうお休みの時間だ、今日のところは帰ってくれ。必要ならまた電話する」
玄関の扉を半開きにして立つのはいかつい黒服の男だ。郭皓淳に断りを入れている。
「おいおい、待ってくれ。俺はここまで5時間かけてやってきたんだぞ」
「そんなこと知るか」
郭皓淳と黒服は押し問答になっている。どうやら郭皓淳は奴らの仲間という訳では無さそうだ。伊織はホッと小さなため息をつく。
「おい、待てよ」
無情にも玄関のドアは閉められてしまった。郭皓淳はドアの隙間に差入れていた足を挟まれ、罵り声を上げている。まるで悪徳セールスだ。
「これから都内に帰れっていうのかよ、ふざけんな」
郭皓淳は中国語で悪態をつきながら門の方へ戻ってくる。伊織はカブに跨がろうとする郭皓淳の背後に忍び寄る。
「誰だ、・・・お前は伊織か」
郭皓淳は一瞬殺気を漲らせたが、そこに立つのが伊織と分かり目を丸めた。郭皓淳もこんな場所で知り合いに出会うとは思っていなかったのだろう。
伊織はしっと人差し指を唇に当てる。郭皓淳も空気を読んで身を縮めた。
「とりあえず、ここを離れましょう」
伊織は郭皓淳のカブの後部座席に跨がった。郭皓淳はカブのエンジンをかけ、真っ暗な山道を下っていく。
途中の脇道にカブを停めた。
「郭皓淳さんも柳先生に会いにきたんですか」
「それがあの家の主人なのか。俺は蓮花のおやじの依頼で出張鍼打ちに来たんだよ」
蓮花は神保町にあるマッサージ店だ。郭皓淳の弟がこの店で施術師として働いている。郭皓淳は従業員というわけではないようだが、店長と知り合いで鍼の仕事を依頼されたという。
「何でもVIP客の依頼で、出張費込みでいい金になるっていうから来てやったのに、追い返されちまった」
郭皓淳はあひる口を突き出して頭をかいている。しかし、約束は午後三時という話だ。とんでもない大遅刻なのに悪びれもしない。
「俺は取材でここに来たんですけど、何か様子がおかしいんです」
「うん、だろうなぁ」
郭皓淳は無精髭を撫でながら神妙な表情で頷く。この男も不穏な空気を感じ取っていたようだ。
「さっきの男、どう見ても黒社会の人間だ。柳老師は裏と繋がりがあるのか」
伊織は首を振る。
「わかりません。俺も一瞬で追い返されてしまって」
「何にせよ、情報が必要だな」
郭皓淳の提案で、ここに来る途中にあったゲストハウスに部屋を借り、計画を練ることになった。
“ゲストハウス奥多摩”の主人は、今晩は宿泊客がいないからと歓迎してくれた。平屋建てで和室が十部屋、風呂、トイレは共用、台所は夜十一時まで利用しても良いということだった。
「柳老師には後ろ暗い噂は無いようだ」
郭皓淳がスマートフォンで馴染みの情報屋に当たっている。伊織は備え付けの急須で温かい日本茶を淹れてちゃぶ台の上に置いた。柳伯章の別荘まで公共機関と徒歩で約4時間、それからすぐに追い返されて物陰に潜むこと三十分。ここまで気を張っていたが、緊張が解けたとたん身体が鉛のように重い。
「それどころか、教育、文化に関連する慈善事業にも財産を提供している。作家てな儲かるんだな」
「キャリアが長くてドラマ化されている作品も多いし、特にこの春の新刊“約束の花嫁”がすごく話題になっていますね」
柳伯章は文壇デビュー23年のベテラン作家で群像劇を得意とし、中国歴史活劇で人気作を打ち出してきた。
近年、5年の構想を経て書き上げたヒューマンドラマが話題作となり、ベストセラーとなっている。難病を患う女性が恋人と結ばれるまでの苦悩を描く純愛がテーマの作品で、緻密な心理描写や複雑な人間関係が生み出す感動のドラマが秀逸だと絶賛されている。“誰もが恋をしたくなる”がキャッチコピーで日本でも人気を博している。
「お、こいつは」
郭皓淳がスマートフォンの画面を食い入るように見つめる。ちょび髭ののったアヒル口を突き出して眉根を顰めている。
「柳老師には5才の孫がいる。生まれつき心臓に重い病気があるようだ」
「お孫さんとこの件、一体どんな関係があるんですか」
怪しげな黒服集団と小さな孫娘、伊織にはさっぱり分からない。
「金の匂いがぷんぷんするぜ」
郭皓淳はあひる口を歪めてニヤリと笑う。
伊織のスマートフォンが振動している。曹瑛だ。
「もしもし、瑛さん。ああ、電話に出られなくてごめん、今奥多摩の山奥に取材に来てるんだよ」
「今月の五日、一時から空いているか」
「えっと、五日は、どうだったかな。ちょっと待って」
伊織が予定表を確認するため、バッグからスケジュール帳を取り出そうとしたところでスマートフォンの電源が落ちた。
「あっ、切れた」
曹瑛の不満げな顔が目に浮かんだ。こういうときに限って充電器を持っていない。
「重症の大動脈弁狭窄、心臓の弁が動かなくなる病気だ。心不全や突然死につながることもある」
スマートフォンの画面を見ていた郭皓淳の顔が険しくなる。
「それがお孫さんの病気なんですか」
柳伯章の幼い孫は先天性疾患として大動脈弁狭窄を煩っており、今も呼吸が満足に出来ず、ベッドの上で生活しているそうだ。内科的に薬で治す方法もあるが、重傷の場合、手術も考えられる。
「そこで、柳老師に心臓移植を持ちかけたのが天鶏会だ。武漢を本拠地に活動している大組織だな」
郭皓淳も人好きのする雰囲気からそうは見えないが、中国黒社会の組織、河南帝鴻会の幹部だ。裏のネットワークには詳しい。
「その、天鶏会は名医でも紹介してくれるんですか」
「そんな呑気な話じゃねえ、売るのは臓器だ」
郭皓淳の言葉に、伊織は全身から血の毛が引くのがわかった。
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