温泉宿の夜
「こんにちはー。」
ミネの声が温泉宿の玄関に響く。しかし、宿には誰も見当たらない。他の客はいないと言っていたけれど、働いている人も一人もいない。
「勝手に入っていいの?」
「うん。大丈夫。」
ボクらは特に荷物は持ってきていなかった。日帰りもできる距離だったし。それでも今日はここに泊まろう、せっかくだからとミネは言った。
「先に温泉入ろう。」
ミネに案内されて浴場に向かう。宿の建物は木造で立派なものだった。ほんとこの世界の文化レベルはよくわからない。
「この温泉はね……、えーっと、お湯で口を濯ぐといいらしいよ……。やってみてね。」
あれ、ミネ、なんでそんな照れた顔してるのかな。
「じゃあ、後でね。」
ボクは男湯にミネは女湯に入った。露天風呂だ。時間は夕方。まだ外が明るいうちから入る温泉もいいなあ。
ミネに言われたように、お湯を口に含んでみる。
この温泉は、男湯と女湯の間に竹のような木で作られた敷居があるけど、お湯は繋がっているみたいだった。ミネが入ったお湯をボクが口に含んで、ボクが口に含んだお湯にミネが浸かるってことか。たしかにこれはちょっと恥ずかしいな。
久しぶりの入浴。温泉。しかも貸切で気兼ねが無い。気持ちいいなあ。
ボクは温泉を出たあと出口の前でミネを待った。
「ふぅ、熱い熱い……。ちょっとのぼせちゃったな……。」
顔を赤くしたミネが出てきた。
「ゆっくり入ってたね。」
「気持ちよくって。」
ミネの体から立ち上る湯気がミネの匂いを運ぶ。気のせいか、なんかいつもよりミネが近い。
部屋に行くと既に食べ物が用意されていた。姿は見せないけど宿の人はいるのかな。
それはこの世界で初めて見るような豪華な食事だった。鰻の蒲焼きみたいなもの。ニンニクのような強い匂いのついたキノコの炒め物。つるんと白い何かのゆで卵。熱々でこってりとした肉が入ったスープ。
「これはね、村では夫婦が食べる食事なんだよ。」
「へえ、美味しそう。」
お膳の横に置かれていた飲み物を手に取る。これまた強い香りのついた飲み物。あれ、これってお酒じゃない?
「……ミネ、これって?」
とボクが言う前にミネはそれをぐいっと飲んでる。
「ふはー。おいしい。」
ミネの満足そうな顔。まあ、頂きますか。
料理は味付けが濃くてどんどん箸が進んだ。
「お腹いっぱいになったね。」
「美味しかった。」
ボクはこの料理の味付け方法を知って、日々のレパートリーに加えたいと思ったほどだった。
日はすっかり落ちて、外は夜になっていた。外から虫の鳴く声が聞こえる。
「隣の部屋に行こ。」
隣の部屋には布団が一組だけ用意されていた。布団一つに枕が二つ。
うーん。これって、深みにはまっているような……。
ミネはさっさと布団に入ってしまった。
「フカフカだよ。ほら、リョウも横になって。」
これも気のせいだと思ってボクも布団に入ってみる。
「一緒の布団に寝るなんて初めてだよね。」
横を見ると、ミネはじっとこっちを見ていた。
「リョウ……、キスしよ。」
ミネの顔が急に近づいてきた。
「え、ちょっと……!」
ミネの唇がボクの唇に重なった。
「口開けて。」
ボクは口をギュッと閉じて抵抗したが、ミネはボクの鼻をつまんで強引に口を開けさせ、もう一度口を押しつけてくる。ミネの舌が口の中に入ってきた。
「唾液を……もっとちょうだい。」
ミネが喋るとミネの甘い息の匂いが口いっぱいに広がる。
「ミネ、止めて!」
「どうして? 私のこと嫌いになった?」
「いや、嫌いじゃない。そういうんじゃないんだけど。」
「じゃあ……。」
再びミネがボクの唇を奪う。何度もボクの唇を求めながら、徐々にボクの上に体を乗せてきて、すっかり仰向けのボクの上に馬乗りになった。
ボクの上でミネの白い肌があらわになり、ミネはボクの胸に両手を突いて、赤い頬でじっとボクを見る。ボクはミネを見返す。
「おかしいよ、急にこんな……。どうしたの?」
「おかしくないよ、私はリョウの花嫁なんだから。」
「でもいつものミネと違うよ。」
「……それはリョウのせいだよ。……ドラゴンの唾液のせい。それで体がこんなに熱い。こんなの初めて。」
ミネがボクの手を取って自分のささやかな膨らみにあてる。
「リョウと温泉に入ってから、ほら、こんなにドキドキしてる。」
ボクの下半身の上にミネの軽い体重を感じる。ボクのドラゴンの本能がそれに熱く堅く反応してるのがわかる。ドラゴンの唾液のせいで女の体が熱くなるって……、なんだそれ。つまりこのドラゴンの体はとんでもないエロドラゴンだったのか。
はっきり言って、ボクは混乱していた。ミネとこんなことになるなんて、ずっと考えないようにしていたのだ。だって、元の世界のボクは女なんだから。
ミネの気持ちは大事にしたいけれど、やっぱりボクの心はミネとそういう関係は望んでいなかった。今は男の体で生活していたとしても、男の心にはならない。ボクの心はずっと女の心のまま。
ボクがそのまま動かないでいると、ミネは身をかがめてボクの首元のちょうどウロコと人の肌の境の部分をペロペロと舐めはじめた。
ひえええ。ゾワワと体の芯から押し寄せるものを感じる。
「ミネ、これ以上ダメだよ!」
ミネは聞こえなかったかのようにボクの体を舐め続ける。
「ダメだって……!」
ボクはミネの肩を両手で持って引き離した。なるべく優しく。
「リョウ……。」
赤く火照り汗と涙でグチャグチャに乱れたミネの顔を、直視することができない。
「ミネ、ドラゴンの変な力のせいでゴメン……。でも、こんなのは間違ってると思う。」
「泣いてるの?」
ボクの目からはいつの間にか涙が溢れていたらしい。恥ずかしくてボクは顔を背けてしまった。
「……私の方こそ、ごめんね。嫌だったの?」
「うん……。」
長く続く沈黙。ミネはボクの上から降りて布団の端に移動した。
「もう……寝よっか……。」
ボクはミネを傷つけてしまったと思う。このまま部屋にいるのも気まずかった。
「ボク、ちょっと外の風に当たってくるよ。」
ボクが立ち上がろうとした時、ミネが慌てたようにボクの服をつかんで引き留めた。
「あ! 待って! お願いだから、今日の夜はずっとこの部屋に居て! ……私のことは放っておいていいから。部屋には居て。」
「……うん。わかった。」
ミネを振り払って出て行くわけにもいかないので、ボクはそのまま横になって目を瞑った。静かな部屋の中で、ミネの息づかいや布の擦れる音だけが聞こえる。ボクはなかなか眠れなかった。ドラゴンの本能も全然収まらないし、切り落としてやりたいくらい今はドラゴンが憎かった。
それでもいつの間にか眠っていて、朝ボクが目が覚めるとミネはもう起きていて、また温泉に入ってきた後みたいだった。朝と言っても、まだ日が昇った直後で空は少し薄暗い。
「あ、起きたね、リョウ。昨日はほんとにごめんね。私どうかしてた。」
「ボクの方こそゴメン。」
「……村の人が起きる前に帰ろうか。」
「そうだね。」
その日から、ミネはドラゴンと竜の花嫁は夫婦なんだから一緒の布団で寝たいと言って洞窟でもボクの隣に寝るようになった。もちろん温泉宿の夜のようなことは起きなかった。
それからミネはボクにしばらくドラゴンの姿にならないでほしいと頼んだ。ボクはボクにできることならなるべくミネの言う通りにしようと思ったので、ドラゴンの姿にはならずに人間の姿で過ごした。
それがどういうことなのか、ボクはまだ知らなかった。
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