蟹江のアルバイト

 仕事を覚えてもらいたいから午前九時に来て、という弥冨の伝達どおり、蟹江は午前九時より少し前にファミレスを訪れた。

 朝という時間帯のせいか店内に客の姿は無く、本当に忙しいんだろうかと蟹江は疑いたくなった。

 店の奥の従業員室のドアが開く。


「待ってたわよ、陽太」


 耳に馴染んでいる声が聞こえ、声の方に首を巡らす。

 見慣れた人物が見慣れぬ格好が近づいてくる。 


「きちんと九時に間に合うよう来てくれたのね。あんたにしては立派よ」


ウエイトレス姿の弥冨が、蟹江の目の前で足を止めて不遜に言った。

 蟹江は彼女の服装を見眺めて、ぷっと噴き出した。


「コスプレみたいだな」

「コスプレって失礼ね。これはれっきとした制服よ」


 弥冨はムッとして言い返す。

 そりゃわかってるよ、と蟹江は笑いを引っ込めて、弥冨が激する前に理解を口にした。

 その時、従業員室のドアからレスラーのようなイカツイ巨漢が一人姿を現した。


「君が新しいバイトの人だね?」


 巨漢は蟹江を見るなり、口元を覆う茂みのような黒髭を動かして問いかける。


「蟹江陽太です。今日からよろしくお願いします」


 新人バイトの蟹江は、巨漢に頭を下げた。

 巨漢は蟹江が頭を上げるのを待ってから、自分を店長だと快活な口調で明かした。


「こちらこそ、よろしく頼むよ蟹江君」

「はい。それで俺は何をやれば?」


 気早に仕事を要求する蟹江に、店長は弥冨に人差し指を向ける。


「仕事の内容は弥冨君に訊くといい。弥冨君と同じく記憶が得意だそうだからな」

「弥冨にですか。わかりました」


 蟹江は拍子抜けしたように、弥冨に視線を移す。


「弥冨、俺は何をすればいいんだ?」

「そうね。お客さんの注文を採って厨房に伝えればいいの、簡単でしょ」


 出来て当然と言わんばかりに、口頭ですごく簡潔に説明する。


「とは言われても、要領がわからない。注文採る時はどんな風に接すればいいんだ?」

「愛想よくしてればいいわよ」

「どんなふうに?」

「そんな具体的なこと訊かれても。私だって、そこまで意識してやってるわけじゃないから説明が難しいわよ」


 蟹江の質問に、弥冨は困った顔をする。

 パチン、と店長が何事か閃いた様子で手を打つ。


「弥冨君」

「なんですか、店長?」


 弥冨が首を向けると、店長は名案を言うぞとばかりの顔で告げる。


「口で説明するよりも、弥冨君が手本を見せてあげればいい」」

「まだ客がいませんけど」

「蟹江君が客の役をすれば問題ない」

「つまり、私が陽太の前で実践してみせろと?」


 店長は大きく頷いた。目がやりたまえと促している。

 弥冨は店長の言う様相を頭に思い浮かべてみる。陽太にコスプレみたいなウエイトレス姿の自分がやたら下手の態度で注文を採る。

こんなの罰ゲームだわ、と弥冨は内心不服を禁じ得なかった。


「手本を見せもらえるんですか、助かります」


 店長の案を聞いた蟹江が、ほっとした顔で提案を受け入れている。

 物を願い出る表情で弥冨に目を向けた。


「なあ弥冨。手本見せてもらっていいか?」


 土下座されても二度はやらないという固い意思で、鋭い目つきを蟹江に送った。


「……わかったわ、手本を見せてあげる。けど絶対に一回で覚えなさいよ」

「任せろ」


 と蟹江は、弥冨の不服とか恥辱とかを全く察していない、純然たる自信をもって請け合った。



 客のいない店内で、蟹江と弥冨による実演が始まった。

 蟹江は中央のテーブルの席に座り、客という体でメニュー表を開いて眺めている。

 そのテーブルへと、通路の間を姿勢良くウエイトレスの弥冨が歩み寄って来る。

 テーブルの傍に来ると、ぎこちない笑みを浮かべて蟹江へと声をかける。


「お客様、ご注文は?」

「ランチセットAとコーンスープ」

「かしこまりました」


 注文を聞くと、弥冨は退散するように足早にテーブルから離れる。

 二人の実演を見ていた店長が、満足いかない様子で首を傾げる。


「なんか違うな」

「何も違いません」


 弥冨は店長の疑問に蓋をするように言う。

 店長はしばし考えた後、わかったという顔で弥冨に向く。


「弥冨君のスマイルがいつもより硬いんだ。知り合い相手で恥ずかしいかもしれないが、いつも通りのスマイルをお願いするよ。そうしないと手本にならない」

「……わかりました」


 二回目の実演をさせられることに納得いかず、あからさまに苛立った声で返事をした。

 ぎこちなく接客スマイルを作り直すと、先と同じ通路の間から蟹江のテーブルに歩いていく。


「お客様、ご注文は?」

「ランチセットAとコーンスープ、というか一度しかやらないって言ったのに、結局二回やってるな。俺、一回目で覚えたぞ」

「かしこまりました、ってそれなら二回目始める前に言いなさい。私の恥ずかしさを返しなさい」


 弥冨は湯気が出そうなほどに顔を赤くして、蟹江に無茶な要求を突き付けた。



 次は蟹江君が給仕をやってみて、という店長の提案により、弥冨を客に見立てての蟹江の接客練習が始まった。

 メニュー表を広げて眺めている体の弥冨が座る席のテーブルに、ウエイター姿に着替えた蟹江が間の通路から近づく。


「お客様、ご注文は?」


 訊くと、弥冨はメニュー表に載ったランチセットAの写真を指さす。


「これ、と」

 次にハンバーグの写真を指さす。

「これ、と」

 次にオムライス。

「これ、と」

 コーンスープ、ドリア、ナポリタン、など合計十品をまとめて注文した。

 何人分かも計り知れない注文量に、蟹江は気掛かりそうに弥冨の顔を見る。


「お前、正気か?」

「何が?」

「十品も注文して食べるのか、お前いつもからそんなに食べてるのか。よく太らないな」


 気掛かりが疑問に変じて、席に腰掛ける弥冨の華奢な体つきを見て蟹江は言った。

 弥冨は露骨に眉をしかめる。


「こんな大食い選手並みの量、私が食べられるわけないでしょ。日本一般女性の食事の何日分よ!」

「なんだ食べないのか。お前が実は大食らいなのかと思って、びっくりしたぞ」


 心からほっとした声を出す。

 弥冨は十品もまとめて注文した理由を察していない様子の蟹江に、表情を真面目にして問いかける。


「どうして私がこんなに注文してみたのか、あんた理由わかる?」

「大食らいでなく、ふざけてるのでもなければ、俺を試したってことか」


 考える顔をして蟹江は答えた。

 そういうこと、と弥冨は満足そうに微笑んで答え合わせをする。


「あんたの記憶力なら、十品ぐらい覚えられるだろうと思って」

「お前の予想通り、今の十品ぐらいなら覚えた」


 蟹江は自信ある顔付きでそう言い、弥冨が仮で注文した十品を淀みなく口で諳んじてみせた。

 二人のやり取りを店内の脇で聞いていた店長が、思わずという感じで拍手する。


「凄いな、蟹江君。メモもなしで注文の十品を覚えてしまうなんて」

「そんな褒められるようなことか。弥冨が以前からやってるんだろ?」


 店長の過剰とも思える褒め度合いに戸惑い、蟹江は弥冨に尋ねる。


「十品も注文する客がいなかったから、私が客の注文で一度に記憶したのなんて多くて五品ぐらいよ」

「だからこんな褒められるんだ。なるほど」


 蟹江は合点がいった。

 店長が興奮止まらない様子で、口の端をにんまりと笑ませる。


「今日は一段と客を待たせずに料理を届けられそうだぞ。過去最高の売り上げもあるかもしれん」


 ほくそ笑む店長は店長の見積もりは果たして、外れた。

 仕事を覚えた蟹江は、初日からたちまち店長の期待に応えてみせた。

 特に客足が増えるランチの時間帯になると、蟹江は注文を採るために店内を忙しく回って、得意の記憶を活かし、メモなしで何人もの注文を聞き、メニューもその数も全て把握して厨房に伝える、という普通の人では及びもつかない仕事ぶりだった。


 一方で弥冨も蟹江と競うように、客の注文を聞いて回った。

 しかし二人の注文伝達のペースに厨房の方が間に合わず、店長自ら積極的に厨房に加わらなければならないほどに、きりきり舞いだった。


「厨房設備の改善と、厨房人員の雇用を増やさねば! うおおおおおおお、人が足りん!」


 繁忙の時間帯が過ぎた後、具体的な改善案を大声で明示しつつ、巨漢店長は世界規模の課題でも抱えてしまったかのように慨嘆していた。

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