謎の金髪美女

 アラブヒムが刈谷メモリスポーツクラブを訪れた日から一週間後の土曜日の事である。


「なあ小牧、なんで着いて来たんだ?」


 蟹江はマンション最寄りの公園のベンチで隣に座る弟子に、億劫そうに尋ねた。


「だって、蟹江さんに会いたがってる人が綺麗な女性かも知れませんから」


 ちょっと機嫌の悪い口調で、唇を尖らせて小牧は答えた。

 監視されてるみたいで嫌だなぁ、と蟹江は溜息を吐きたい気分だった。

 事の発端は三十分ほど前まで遡る。



 蟹江の携帯のもとに刈谷から連絡が来たのは、昨日の二十時頃だった。

 連絡の内容は君に会いたいと言っている人がいるから、明日の午後二時頃に君の家の近くの公園にいてくれないか、ということだった。

 自分に会いたいと言っている人物が誰なのか、蟹江はもちろん訊いた。しかし刈谷は、君の知っている人だから心配せずに会っていいよ、とだけ告げて通話を切ってしまった。

 それが昨日の二十時頃で、現在は約束当日の午後一時を少し過ぎた時間だった。

 ここまでは蟹江も、刈谷さんも急だな、ぐらいにしか思っていなかった。


「その人、絶対怪しいです」


 しかし約束当日、蟹江の部屋に訪れていた小牧が話を知るなりそう断言した。

 午後一時半頃にトランプ記憶のトレーニングのために蟹江の部屋に訪れた彼女は、二時から人と会う約束があるという蟹江に対して、急に怪訝さを露にした。

刈谷さんが会ってくれって言ってる人だから大丈夫だろ、と小牧の怪訝の理由が蟹江にはわからずに言うと、


「怪しいものは怪しいんです」


 と、意固地に近い口調で小牧は言い切る。

 根拠でもあるのかと、蟹江は尋ねた。


「根拠はありませんけど、怪しいことには間違いないです」


 推理のへったくれもないが、何故か揺るぎない確信がある物言いだった。


「どう怪しいんだ?」

 と訊いても、

「とにかく怪しいです」

 だから行っちゃダメです、と制止する目で言う。


 小牧が会うのを止めてくる訳がわからない蟹江は、俺が行かずに相手を何時間も待たせるのはよくないからな。俺は行くぞ、と固い意思を示した。

 口調から蟹江の気を変えるのは無理だと判断して、小牧は代案を口にする。


「それじゃあ、あたしも一緒に行きます」



 そういった経緯があり、蟹江は見張られるような形で小牧と一緒に公園のベンチに座っているのだ。

 二人の他に誰もいない昼間の公園は、涼しい風でそよぐ木々の青葉以外には物音がない。

 公園の静寂も相まって、蟹江は悪いことをしているわけでもないのに居心地がよくなかった。

 公園の出入口をじっと見つめている小牧の横顔を、ちらと窺う。

 すると突如、小牧の横顔が引き締まる。


「来ました」


 小牧が口を開き、出入り口へ向けている目を睨むように細める。

 蟹江も出入り口の方に視線を移した。

 小牧より顔一つ分背丈のある金髪ロングヘアの女性が、公園の出入口で躊躇うように立ち止まって二人の方を眺めている。

 蟹江は金髪女性に見覚えがあるような気がした。


 誰だか思い出せないが、すごく面倒な予感がする――。


 顔立ちをはっきりと目視できていないので確かではないが、一度どこかで会ったような気がしてやまない。

 金髪女性は止めていた足を二人に向けて、徐々に歩み寄ってきた。

 顔立ちが明瞭に認識できる距離まで女性が近づいてきて、蟹江は記憶にある金髪女性の存在を完璧に思い出した。


 一年半前の記憶力世界大会だ――。


 服の袖をグイと引っ張られて、復元しかけていた記憶が立ち消えた。

 小牧は蟹江に振り向いて、驚愕と詰りを含んだ声音で女性を指さす。


「誰ですか、この巨乳美人!」


 彼女の声音に驚いた様子で、金髪女性が二人の三歩ほど手前で足を止めた。

 しかし蟹江の隣にいる小牧に視線を向ける。

 数秒の間、瀬踏みするように小牧を見た後、隣の蟹江に目を戻した。

蟹江と目が合うと、喜色を満面に湛えて笑った。


「会いたかったワ!」


 三歩の間合いを一気に詰めて、女性は蟹江を覆うように大きく広げる。

 一瞬のうちに眼前に迫った満面笑顔の金髪女性と豊満な双丘に、蟹江はなす術なく抱擁された。


「エミ、ふがっ……」


蟹江の顔は抱きついてきた女性の豊かな胸に埋もれ、呻き声が途切れた。

 目の前で起きた突然の抱擁に、小牧は慌てふためき、蟹江から女性を引き剥がそうと、女性の腕を掴む。


「誰ですか! 師匠から離れてください!」


 しかし金髪女性は耳を貸さずに、抱擁している蟹江の頭部を愛おしそうに撫で始める。


「会える日を楽しみにしてたワ、カニエ」

「楽しみにしてたワ、じゃないです。離れてください!」


 懸命に女性の腕を引き剥がそうとするが、女性の腕は蟹江をきつく抱いたままびくともしない。

 その時、抱擁されるに任せていた蟹江が、ようやく狼狽から立ち直って両腕で女性の肩をがっしりと掴んだ。

そのまま膂力の限りで女性を突き離す。

 肩口に蟹江の両手が食い込み、女性は我に返ったように自ら抱擁を解いて、二歩ほど距下がって距離を取る。


「いつもと比べて、激しいジャナイ。痛いワ」


 女性は満更でもない甘える声で唇を尖らせる。

 蟹江の頬は真っ赤に上気しており、深く息を吸って吐いて呼吸を整えてから、突然抱擁してきた女性に目を向ける。


「窒息で死ぬかと思ったぞ、エミリー」

「ワタシの胸の中で死ぬなら、後悔ないはずだワ」


 全く悪びれない調子で、金髪女性はニコニコして蟹江に言う。


「なんでそうなる」

「だって、ワタシは……」

「師匠。この人、誰ですか?」


 非難するように目を細めた小牧が、冷えきった声で蟹江に詰問した。

小牧の冷えた視線を感じ取りつつも、蟹江は平静を装って答える。


「ただの知り合いだ」

「ほんとう、ですか?」

「そうだ、ただの知り……」

「うそヨ!」


 頷こうととした蟹江に被せて、女性がヒステリックな声を上げる。

 蟹江の眼前に、左手の薬指を見せつけた。

薬指には煌びやかな宝飾で細工された指環が、ぴったりと嵌められている。


「ただの知り合いなんて、うそ。婚約したワ!」

「してねえよ」


 蟹江は呆れながらも慣れた様子で否定する。

 想像の域を超える金髪美人の出現に、小牧の心ははざわついた。

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