SCC開幕
変化のないように思えた春風も、四月の初めとは違う色を含んで吹き始めた頃。
小牧の大会初参加の門出を祝うような好天の下、当の小牧は蟹江と会場への道のりを歩いていた。
「蟹江さん。着いてこなくてもよかったんですよ」
隣を歩く蟹江に遠慮の口ぶりで言った。
「お前が道に迷うとといけないから、会場まで歩いて案内することにした。お前に無駄な気を回させたくないからな」
「親切にしてくれて嬉しいですけど、蟹江さん会場で仕事とかあったんじゃないんですか?」
「仕事があってないようなもんだからな。大会前の準備は師匠が一人で済ませたっていうから、俺の仕事はほとんど答え合わせの時だけだな」
ほんとかな、と小牧は師匠がわざわざ自分に都合を合わせてくれたように思えて、蟹江の横顔に表情に目を注いだ。しかし、出会って日が浅い小牧は、横顔から師匠の心づもりまで察することができない。
しばし会話が途絶えて、小牧が何か話してほしいなと蟹江に目を向けようとした時、ふいに蟹江が道路を挟んだ向かいの建物を指さした。
「あれが会場の刈谷メモリークラブの入っているビルだ」
交差点の横断歩道を渡った先に建っているテナントビル。その三階の窓には『KMC』とカラフルに描かれた三文字のアルファベットと、その横に『刈谷メモリークラブ』のローマ字表記の円環を、ソフトな線描の象が潜っている横断幕が垂れている。
「輪っかを潜ってるの、ゾウですよね」
「ゾウは記憶力が良い動物らしい」
「記憶力競技のモチーフに最適ですね」
感心するような気持で、小牧は横断幕の中の象を見上げた。
横断歩道の信号機が青に灯り、二人は横断幕から目を外して道路を渡った。
テナントビルの入り口傍にはSCC受付は三階休憩室、という立て看板が立て掛けられている。
蟹江は小牧とともに休憩室に向かい、受付の知り合いに刈谷の居場所を訊くと、会場にいるというので大会前の挨拶をしと小牧の紹介を兼ねて会場に向った。
会場のドアを開けると、壁掛けのホワイトボードの前で、赤マーカーで席割りを記入している刈谷健が二人の入室に気付き振り向いた。
「やあ、蟹江君。今日は進行補佐をしてくれるんだよね。仕事の内容は昨日伝えた通りだから」
「あっ、あの時の人!」
蟹江の背後から刈谷を見た小牧が、驚きに口を開け刈谷を指さした。
突然自分を指さし驚いている少女に目を向けて、刈谷はしばし眉を寄せて記憶を探った後、ああ、と合点がいき少女に微笑みかけた。
「君は前回のSCCで会った子だね?」
「はい。そうです」
小牧が頷くと、やっぱりかと刈谷は自身の記憶の正確さを誇りたくなった。
「SCCに来てくれてありがとう。それで君は今日、出場するのかい?」
「はい。初心者ですけど、出場するつもりで来ました」
「それは嬉しい。ところで不躾を承知で聞くんだけど、蟹江君とはどういう関係で?」
小牧から視線を外して、隣の蟹江に目を向ける。
答えようとする小牧より先に、蟹江が言葉を返す。
「師匠。この子は俺の弟子です」
「弟子。はあ、蟹江君にも弟子が出来たか」
さも驚いたことを人にわからせるためか、わざとらしく目元を緩めた。
思うより師匠の反応が薄く、蟹江は確かめるように尋ねる。
「師匠。ほんとに驚いてます?」
「そりゃもちろん」
「でもそのわりには、たいした声も上げないじゃないですか」
「いつかは訪れることだと予想はついていたからね。しかし、あの時の少女が蟹江君の弟子になっていることは全くの予想外だったけどね」
ははは、と気楽に笑う。そして小牧に水を向ける。
「君はどうして蟹江君の弟子になろうと思ったんだい? やっぱり日本記録保持者だからかい?」
「あー、それも理由の一つにはありますけど、でも弟子になろうって決めた理由は、その……」
小牧は答えかけて、急に言葉に詰まった。
照れるようにちょっと首を竦めて、
「格好良かったからです。その前のSCCでスピードカードしてる時の師匠が」
格好いいか? と蟹江は小牧の答えに、自ら疑問を感じずにいられなかった。蟹江にはトランプを繰って、頭の中だけでプレイスにイメージを貼り付けるのに没頭している人にしか見えない。
刈谷はふと壁の時計を見た。
SCC開始の三十分前で、出場者が増える時間帯だった。
「そろそろ準備を急がないと。二人の話はまた暇がある時に聞くよ」
刈谷はそう告げて、二人が来るまで記入に勤しんでいたホワイトボードに向き直った。
準備の邪魔をするわけにはいかず、蟹江と小牧はひとまず休憩室に戻ることにした。
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